『消せないおもい』
一度目を閉じ、大きく息を吐き出したシルヴィアは、表情を和らげて声の主を振り返り見る。
「止めてくださり、ありがとうございます。ギルバート様」
「……礼などいい。それより…………」
ギルベルトはシルヴィアに近付き、彼女の脇腹辺りに目を留めた。ナイフが掠めたらしく出血している。それを見て悲痛な表情を浮かべたギルベルトは頭を横に振り、その表情のまま今度は彼女の顔を見た。
「何故、わざわざあんな挑発をした?」
「聞かれていたのですか。挑発したつもりはありません。怒りのあまり、つい本音が出てしまったのです」
「嘘だ。貴女はあのような事を思う人間ではない」
「思ってもいない事は、あれほどすらすらと言葉には出来ません。考えないよう、他人を恨まないよう自分を責める事で目を逸らしていた本音なのでしょう。偽善者は私です。我が王にふさわしい騎士であろうと立派な言葉を並べても、きっと心の奥底では“何故私が”と思い続けていたのです。その証拠に、言いたい事を言って今は少しすっきりしています」
そう言って、やり切れなさを含んだ微笑を浮かべる。その顔を見て、たまらずギルベルトはシルヴィアを抱きしめた。
「それが事実だとして、なら何故貴女は刺されようとしたのだ?その男がナイフを突き出そうと動いたあの一瞬、避ける素振りを見せなかった。いつもの貴女であれば怪我を負う事もなく、簡単に取り押さえていただろうに」
シルヴィアを抱きしめるギルベルトの腕は震えている。自分を心配してくれているのが分かるからなのか。不思議と恐怖は感じなかった。
ギルベルトの言う通り、シルヴィアは刺されてもいいと思っていた。思ってしまった。ランズウィックの人間が自分に対して差し向けられるだろうと予測はしていたのに、いざ目の前に知己の姿を認めると、平静を保てなくなった。今も恨みや憎しみを抱いたまま生きているランズウィックの人達に対する罪悪感。自分の全てとも言える王を侮辱された怒り。感情のままに言葉をぶつけた自分に対する嫌悪感。様々なものが渦巻いて、残ったのはただクリストフの名誉を穢す事だけは許せないと、刺したいなら刺せばいい、その瞬間にあなたも加害者側に成り果てるのだと突き付けたい思いだった。クリストフの騎士として、彼とアルヴァナの為だけにこの命を使うと決めていたのに。
そんなシルヴィアを止めたのは、脳裏に浮かんだクリストフの声だった。そしてここにいるギルベルトも。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。ですが止めてくださった事に対する感謝の気持ちは本当です。一時の感情に任せて、あやうく我が王の『必ず無事に帰ってくること』という命令に背くところでした」
「……貴女は思い違いをしている」
「思い違い?」
「今はっきりと分かった。私は貴女を愛しく思っている。ゆえに失いたくなかったのだ。貴女の為に心配したのではない。私のエゴで、ただ貴女を死なせたくないと……」
シルヴィアを抱きしめる腕に力が入る。触れてはいけない女性なのだと分かっていながら、抑えることが出来なかった。ギルベルトの想いを知っても、彼女にはどうする事も出来ないというのに。それでもこうせずにはいられなかったのだ。「失いたくない」と思っている人間がいるのだと、ゆえに自分の身を大切にしてほしいのだと伝えたかったから。
シルヴィアは驚いていた。前に栞のお礼をルディにしたいとギルベルトに相談した際も、もしやそうなのではないかと一瞬思ったが、すぐに自意識過剰だとその考えを打ち消した。それが勘違いなどではなかったという。
ギルベルトは恋愛経験がないのだと、以前聞いた事がある。いずれデュンバルト公爵家に相応しい女性が結婚相手として選ばれ、自分はその相手と結婚するだろうから、好きな女性などいたところで結ばれはしないためらしい。これまでの彼を見ていると、他の何より王の側近である事を優先するような人……そういう印象であった。その彼がシルヴィアを“愛しい”と。それ程に想ってくれているという事なのだろうか?が、何より驚いているのは、その想いのまま抱きしめられていると知っても、未だ恐怖を感じていない自分に対してであった。この国に来たばかりの頃は、不意に肩に触れられただけで、あれほど動揺してしまったというのに。
(陛下……クリストフ様。私も今気付きました。ギルバート様に抱きしめられても恐怖を感じない事が、私は嬉しいのです。この事が、自分がもう大丈夫であるとの証明になる気がして。そしてそんな証明がしたかったのは、貴方の私に対しての負い目を捨ててほしかったから。そうして同情も負い目もない心で私を見てほしかったからなのだと。この上ない贅沢な望みです。ギルバート様は私を想ってくださっているというのに、この状況でこんな事に気付く自分に腹が立ちます)
ランズウィックの惨劇により、思い出さないよう、考えないようにしていた記憶が蘇る。
大国アルヴァナの若き騎士団長。ある時、交易の話し合いのために訪れてきた大臣の護衛役として、ランズウィックに来た事があった。
『歴代最強の騎士』
『世界で最も美しい男性』
『高潔で誇り高いアルヴァナの英雄』
そういった彼の噂はシルヴィアもよく耳にしていたし、商売のためにアルヴァナに赴く事があって直接彼とやり取りをした経験がある両親からも、良い印象しかないと聞いていた。ごく普通の少女だったシルヴィアは、周りの女の子達と一緒に彼の噂話をしていたし、見た事もないその人に憧れてもいた。そのクリストフ団長がランズウィックに来ていると聞き、友人達と共に一目見ようと城の近くに行った。
当時シルヴィアはまだ背が低く、大人達が大勢周りにいる状態では見えないだろうと思っていたのだが、それでも目に入るほどの長身。光に透ける銀髪とエメラルドグリーンの瞳を持つ、女性も羨むような美しい顔立ちの男性。城から出てきたその人を見て、すぐに彼がクリストフ・ドゥ・ラ・パトリエールだと分かった。その姿を見た人達が皆息を呑む。ただ美しいだけではなく、神々しいほどの威厳がある。まるで別世界から来た人のようだった。
後日また両親がアルヴァナへ行くと聞いた時、あわよくばもう一度クリストフ団長を見る事はできないかと、そして運が良ければ一言でも言葉を交わせないかと淡い期待を込めて、両親に同行したい旨を告げた。娘の意図を察した両親は、からかいつつも微笑ましそうに見つめ、「じゃあ少しおめかしして行かなくちゃね」と言って、実際に連れて行ってくれたのだった。
……そうしてアルヴァナへ行った結果が、まさかあのような事態を引き起こしてしまうとは夢にも思わずに。
ギルベルトと前に話した時、「女性は騎士が好きなものだろう」「貴女は違ったのか?」と訊かれ、憧れていたかもしれないが、よく思い出せないと答えた。あれは事実だった。ランズウィックの惨劇が起こった前後の事は、今も漠然としたことしか思い出せない。クリストフに憧れていた事も、今の今まで忘れていた。助けられたあの時の記憶が強烈な印象として残るあまり、その前の片想いとすら言えない淡い気持ちなど、全て消し飛んでしまっていたのだ。
そんな記憶などなくても、今のクリストフに憧れた。偉大な英雄は神の使いなどではなく、ただ正しくあろうとし、そうある事の限界と向き合い苦悩し、それでも国と民を守る為に立ち続ける、立派な『人間』だった。元々の自分であれば口をきくのも恐れ多い人。そんなクリストフが自分を特別扱いして人間らしい一面を見せてくれる。無論嬉しくないはずもなかったが、顧みて自分はそうしてもらえるに相応しい人間だろうかと、気後れしてもいた。だからこそ騎士になり彼の役に立ちたかった。
ランズウィックの人達に対する罪悪感は消せない。生きている限りずっと忘れられないだろう。自分一人が救い出され、クリストフに保護されて安穏と暮らしている。彼の言った通りだ。故にこの上何かを望んではいけない。ただひたすらにクリストフの為、力なき人達の為に生きていこうと、そうする事で自分の存在を許せる気がしていた。だが心の奥底で主君に恋焦がれていた事を知ってしまった。そんな自分を嫌悪する。これ以上の幸せを望む事は、誰より己が許さない。
そうしてシルヴィアは生涯クリストフへの想いを封じようと心に決めた。




