『噂』
人の気配を感じて、机に突っ伏して眠っていたシルヴィアは目を覚ました。どうやらギルベルトが戻ってきたらしい。
寝ていたと気付かれぬよう体を起こして髪を直し、ずっとそこでそうしていたかのような体勢になる。眠っていたと知られれば、気を遣わせてしまうだろうと思ったからだ。
「シルヴィア殿。直にビアンカが飲み物を持ってくる。それまで楽にして待っていてくれ」
「はい。ありがとうございます」
部屋に戻ってきたギルベルトはシルヴィアの前に腰かけ、彼女の顔を正面から見た。目がほのかに赤い。部屋を離れる前までは、そんな事はなかったところから、少し眠ったらしい事がうかがい知れた。
「もう少し、ゆっくりしてきた方が良かったな」
「は?何故でしょう?」
「今は訓練の時間で騎士たちは出払っている。他の者たちもそれぞれに仕事で忙しい時間帯だ。ここに近寄る者はまずいないだろう。とすれば、私が戻って来なければ、その分貴女は長く眠れたのではないか」
シルヴィアは一瞬だけ驚いたように目を見開いた。が、すぐに事情を把握すると、軽く溜息をついた。
「レイナルドからお聞きになったのですね。つまらない事でギルバート卿のお気を煩わせて。申し訳ありません」
「つまらない事などではない。大事な事だ。貴方を預かった以上、私は貴女を元気に、無事に帰す責任がある。もし病気になどしてしまったら、クリストフ陛下に恨まれてしまう」
ギルベルトの言葉に、シルヴィアはクスッと笑う。
「それは大変ですね。我が王であれば、確かにお恨み申し上げるかもしれません」
「‥‥‥‥私は冗談で言ったつもりなのだが」
「私も半分は冗談です。しかしながら我が王は、私を心より可愛がって下さっています。お恨みしたり、条約破棄といった事態には至らずとも、二度と私をこの地へやるものか、くらいは仰るかもしれません」
「そんな……いやです!」
突然の叫び声と共に部屋に入ってきたのは、もちろんビアンカである。彼女は既に半泣きの顔で、シルヴィアの元に駆け寄ってきた。
「シルヴィア様……私、シルヴィア様が体調を崩されないよう一生懸命お世話します。ですから二度とノイエンドルフへ来られないなんて、そんな哀しい事を言わないで下さい!」
「ビアンカ。シルヴィア殿に失礼だろう。控えろ」
「あ‥‥‥‥も、申し訳ございません」
「構いません、ギルバート卿。ビアンカ。先ほどの言葉は冗談だ。確かに我が王は私が病気にでもなろうものなら、他人には任せていられないとご自身が飛んで来られて、私の傍について離れないようなお方だが、それをこの国の責任だと仰るようなお方ではない」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「まあ二度とノイエンドルフへ行かせないというのも、ご冗談でなら仰るかもしれないが」
「‥‥‥‥‥‥‥‥え?」
「あ、あくまでも本気ではない。そういうお方なんだ」
「あの‥‥‥‥シルヴィア様はアルヴァナの国王陛下とご結婚の約束をされているのですか?」
半ば呆然とビアンカが訊ねた。
突然の質問にシルヴィアは驚いたが、一般的に見ると、自分たちの間柄がとても奇妙に映るだろうことは自覚していたので、すぐに気を取り直して微笑んだ。
「そのような約束は一切ない。今後もないだろう」
「どうしてですか?」
「私は一生、結婚をするつもりはないんだ。……特に我が王の妻になるなど、何があろうとあり得ない」
クリストフの妻には絶対にならない。呟くように言われた言葉。その時の表情は、いっそ忌々しげだと称してもいいほど険しく、ギルベルトはそれを驚きを持って見た。
間違いなく、それはクリストフに向けられたものではないだろう。とすると自分自身に向けられたものか。それとも『結婚』というものに対してか。そう言えばレイナルドが「シルヴィアには恋愛経験がない」と言っていた。一生をクリストフの騎士として生きるので結婚などしないと言っているとも。その辺りが原因か。いずれにせよ心中に何か重いものを抱え込んでいると察せずにはいられない表情だった。
この話題は続けるべきではないだろうと判断したギルベルトは、話題を変える為、ティーセットを持ったまま立っているビアンカへと視線を移した。
「ビアンカ。せっかくの茶が冷めてしまう。カップをもう一つ持ってきて、君も一緒にシルヴィア殿のお相手を務めるように」
「え?あの……私などが、そのような……」
「君はシルヴィア殿の世話役なのだぞ。話し相手を務めるのも仕事の内だ」
見るとシルヴィアも微笑みながら頷き「頼む」と言っていた。ビアンカは嬉しそうに顔を輝かせると「はい!」と返事をした。
そうして先にシルヴィアとギルベルトにお茶を入れると、自分のカップを取りに一度部屋を出て行った。
「本当に、あの子は貴方に一目ぼれしたのだな」
ギルベルトが苦笑交じりに言う。
「一目ぼれですか?私は一応これでも女ですが」
「そのような事ではない。貴女は本当に真面目な人だな」
笑いながら言われ、シルヴィアは意味が分からず、頭上にいくつもの『?』を頂いた。
「ビアンカは貴方が来るまで口数も少なく、自己主張をする事などない子だった。昨日今日のビアンカは、まるで別人だ」
「そうだったのですか。何故でしょう?」
「人は自分にないものを持つ者に惹かれると言うからな。それが理由ではないか」
「では、私はギルバート卿に惹かれるのかもしれませんね」
笑顔での一言。それが他意のない言葉だということくらい分かっている。だから勘違いなどしない。しかし常であれば余裕を持って大人の対応が出来るものが、この時は出来ず、一瞬の間を置いて切り返した言葉もこうである。
「常にクリストフ王のお側におられる貴女が、私などに惹かれるはずもないだろう」
「そういうものなのですか?」
「いや、私に聞かれても」
「私はまだギルバート卿の事はよく知りませんが、私にないものを持っておられる方だという事は分かっています。それ故に色々指南頂きたいと思ったのですから。そこで我が王の名前を出されるのは、話が違うかと思います」
本当に意味が分かっていない。クリストフのように美しく強い者と常に共にいるシルヴィアにとって、ギルベルトなどその他大勢と何ら変わりがないだろうといった意味だったのだが。
「やはり貴女は真面目な人だ」
改めて笑われ、益々シルヴィアは不思議そうな表情を浮かべる。自分も他人の事は言えないほど生真面目なギルベルトだが、さすがにこの女性よりは幾分、冗談は通じる方だろうと思った。
ビアンカがカップを持って戻ってきてから三十分ほど談笑した後、シルヴィアとギルベルトは戦略、戦術論の話を始めた。当然ビアンカは退室して持ち場に戻ったわけだが、そこで仕事が一段落して井戸端会議をしている他のメイド達につかまった。
「あ、ビアンカ!丁度良かった。あんたに聞きたい事があったの」
「……え?はい。何でしょうか?」
おとなしく人付き合いが苦手なビアンカは、メイド仲間に対してもこのような態度で接する。この時などはビアンカの姿を見るなり、餌を見つけた肉食獣さながらの勢いで駆け寄ってきたもので驚いてしまい、通常より更におどおどした態度になってしまった。
ビアンカのこういった態度に慣れきっているメイド達は、何はさておき「聞きたい事」について、興味津々といった表情で聞いてきた。
「ギルベルト様とあんた、最近いい雰囲気ってホント?」
「え……ええっ?どうして、そんな話に」
「なんかー、昨日も今日も一緒にお茶したり、廊下で二人仲が良さそうに話しながら歩いているのを見たって子もいるからさ。ね、どうなの?」
「それは……私がシルヴィア様のお世話役をさせて頂いているので……。一緒にお茶を飲んだと言っても、昨日は陛下とシルヴィア様と四人で……さっきはシルヴィア様と三人で、ですよ」
「廊下で話していたのは?」
「シルヴィア様と、どんなお話をしたかについて話していただけです」
「本当に?」
「本当です」
ごまかす風でもなく言いきるビアンカを見て、これは本当らしいと理解したメイド達は、「なーんだ。つまらない」と、それぞれの持ち場に戻って行った。
一体どう誤解すればそのような話になるのか。ギルベルトは、本人が「女性には不自由していない」と言っていたように、貴族の令嬢などに非常に人気がある。そんな人が目立たない、ただのメイドなどに興味を持つはずがない。そもそも身分が違い過ぎる。彼は貴族の中でも名門中の名門である公爵家の跡取りだ。本人の意思で結婚相手を選ぶ事すら難しい立場なのに。
(それに私なんかよりシルヴィア様の方が、ずっと、ずーっとギルベルト様とお似合いなんだから)
シルヴィアは商人の娘だという事だが、国王付き騎士団長という肩書がある上、あの美しさだ。国家間の問題や騎士団長同士という問題を無視すれば、充分にふさわしいと思える。
ギルベルトは話し掛けるのも怖いほど気難しい騎士団長というイメージであったのに、シルヴィアといると雰囲気が柔らかくなる。客人の、それも女性が相手なので気を遣っているのかもしれないが、ともかく二人が並んで話している様子はとても絵になるのだ。『いい雰囲気』とは、あの二人を指して言うのだと思う。
(それにしても、私とギルベルト様で噂が立つなんて)
ふとギルベルトの顔を思い浮かべる。非常に小柄なビアンカと非常に背の高いギルベルトでは、並ぶと、さながら大木の傍らで休む小動物のような状態になるので、彼を正面から見るには近くに座るくらいしか手段がない。つまり彼の顔を近くから見られたのは、昨日が初めてだった。
知的で気品ある大人の男性。怖い人だと思っていたギルベルトに対する印象は、そのようなものに変わっていた。端的に言えば『素敵な人』になる。そう思った途端に、カーッと顔が熱くなった。
(ダメダメダメ!私なんかじゃ釣り合わない人なのよ。身の程を弁えなきゃ)
自分で自分の頭をコツンとたたく。そうして冷静になって考えてみる。いちメイドなどと噂が立ってしまったら、ギルベルトの評判が悪くなるのではないか。卑しい身分の女に手を出したと陰口を叩かれ、笑われてしまうかもしれない。自分ごときの事で彼の世間的評価を落とすわけにはいかない。次からは、誘われたら何とか理由を付けて断らなければ。
そう決意したものの、ギルベルトとシルヴィアと共にお茶を飲みながら過ごす時間が楽しかった事は否めず、それを失うのは残念で寂しかった。




