プロローグ
「‥‥‥‥‥‥‥‥雪か」
空を厚くふさいでいた雲から雪が舞い落ちてきた。もうそんな季節になっていたのかと、ギルベルトは今更ながらに思う。
『彼女』が死んだとの報せを受けてから、この国で彼女に深く関わった者達は、表面上何事も無かったかのように振舞ってはいるが、皆の心はこの空の様に、もはや陽の光が差し込む事はないのでは、と思わせるほど重く暗いもので覆われている。彼女の存在はそれほどに眩しいものであった。
庭にある、この季節になってから咲く紅い花が、たちまち雪の白に覆われていく。その様を眺めながら、そこにあった彼女の姿を思い浮かべる。
それこそ雪のような白い肌に、背の中程まである美しい金髪。透きとおった冴えた紅の瞳。瞳の色を映したような真紅のドレス。それまで知っていた彼女の印象との違いに戸惑い、縫い付けられたようにその姿から目が離せなかった。ギルベルトが知る彼女は、白い鎧を身につけて、さながら疾風の如く戦場を駆け抜け、舞い、勇猛果敢に剣を振るう、戦神としての姿だけだったから。
「‥‥‥‥!?」
ふと紅い花のそばに揺れる金髪を見た気がして手を伸ばす。当然それは幻で、すぐに消えてしまった。
虚しく空をさまよう掌を握り締め、うらめしげにそれを見る。握り締めたのは彼女の手ではなく冷たい雪。自嘲するように笑って目を伏せた時、背後に人が近づいてくる気配を感じた。
「……エーレンフリート様」
「姿が見えないと思ったらやっぱりここにいたか。聞いたぞ。両親の薦める相手との結婚を前向きに考えてるんだって?」
「…………はい」
表情を消して振り向くと、敬愛する主君の怒っているとも心配しているとも取れる複雑な表情が目に入った。
「何も問題はないと思いますが。私もそろそろ身を固めてもおかしくはない年齢ですし、王家を支えるべき世継ぎを育てる義務もございます」
「そんな義務は誰にもねえよ。ヤケクソで結婚したんじゃ相手の女が気の毒とは思わないのか」
「自棄になってなどいません。何故そのような事を」
「いないか?なら何故雪の降る中こんな場所にいる?元々ここに何の思い入れも無かっただろう。ただ通過するだけの庭だったはずだ。あいつがこの国に来るまではな」
「………………」
「ここはあいつのお気に入りの場所で、ここに来るとあいつの姿がある気がする。違うか?」
「あの方はもういません!ここにも、どこにも!」
常は腹が立つほどに冷静なギルベルトの激する様子に、エーレンフリートは改めて彼女の存在の大きさを知る。
忘れ去るには、無かったものとしてしまうには、まだ時間が足りなさ過ぎる。自分自身そうであるのだから、忠実な臣下のこの言動を責める言葉など持ち合わせていない。
叫んですぐに我を取り戻したギルベルトは、主君に対して深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。ご無礼を」
「気にすんな。ただ結婚の事に関しては少し頭を冷やしてから結論を出せ。今はまだ冷静に判断を下せる状態にないだろう。自分を見てくれない男と結婚した女の心情も思いやれない今のお前ではな」
「相手の女性も利害のみで私と結婚したいという方を選べば問題ありません。王の側近である公爵家と婚姻関係になれるなら歓迎するという家は、掃いて捨てるほどにございます」
「そんな愛情の欠片もない家庭で淡々と育てられた子供に仕えられたくねえよ、俺は。マジで冷静になれよ。お前らしくもない。自分が原因でお前がこの体たらくになったと知れば、あいつは悲しむぞ」
「知るも何も、あの方は…………」
「もういないと言われて、はいそうですかと受け入れられるのか、お前は。随分物分りがいいな。俺には無理だ。まだあいつの記憶が鮮明過ぎる。いないという実感など全く湧かない」
自分も実感など湧いていない。ただ口に出して「いない」と言う事で、己を納得させようとしているだけだ。そうでなければいつまで経っても彼女の存在が自分の中から消えないのだ。
引きずっていては職務に差し障る。たった二十七年とはいえ王の為に生きてきた自分の人生を無に帰するような真似は決してしたくはない。
「エーレンフリート様。このような場所にいてはお風邪を召されます。城にお戻り下さい。私ももう戻りますので」
言いながら主の頭に肩に軽く積もった雪を払う。エーレンフリートは探るような目で長身の臣下を見上げたが、すぐに視線を外して先に城へ向かって歩き出し、ギルベルトが後に続いた。
雪は、そこに残る足跡を瞬く間に消してしまう程度に降ってきていた。