無様なものは嫌いです
鳴田るなさん主催『純愛短編企画』参加作品です。
※女の子が男の子を踏む、というシチュエーションに抵抗がある方は、閲覧注意してください。
「実家から桃が届いたから、一緒に食べよう』
博睦くんから、メールが届いた。至って、何ということのないメール。一文しか表示されなかった文面に菊花ちゃんはいいよ、と返信した。それから小さくため息をついた。
二人が付き合うようになって丁度ひと月が経った。同じ大学、同じ学部、たまに授業が一緒。付き合うまで菊花ちゃんは、博睦くんのことをほとんど知らなかった。話もしたことがなかった。告白されて付き合うようになったものの、実は菊花ちゃんはその事実を友人の誰にも言えずにいた。
これは恋とか愛とか、そういうものではない。いや愛だと思い込まなければ。
菊花ちゃんは、今の関係にため息を吐きたくなる。なぜなら、多分。そう、菊花ちゃんの予想では、これは普通の関係ではないからだ。
付き合っていると言っても、博睦くんは菊花ちゃんの足に執着している。初めて二人きりになった日、博睦くんはこう言ったのだ。
「キッカちゃん、僕を踏んで」
あの日菊花ちゃんは断りきれず、這いつくばった彼の背中の肉に自分の足の爪を立てた。それが自分でも驚くほど心地良い感触だったのだ。そして、これはまずい、と思った。背の肉に囚われたその関係は、菊花ちゃんが危惧したように、一時では終わらなかった。二人でいれば気持ちが色付く。そして博睦くんが誘うままに、菊花ちゃんは彼を踏んでしまうのだった。
でも彼が帰った途端、ロウソクの火が消えて白い一本の筋がすうっと立ち昇るように。燃え尽きた匂いだけが心に残った。
一ヶ月の間彼と何度も二人きりになったけれど、踏むと踏まれるの関係からの進展は見られない。キスすらまともにしたことがない。
菊花ちゃんは初め、自分は普通でない関係が嫌なのだろうかと思ったけれど、それは何か違う気がした。博睦くんと別れたいのだろうか、と考えてみたけど、それもしっくりこなかった。
つまり、菊花ちゃんは今の自分が抱える問題が一体なんなのか全然分からずに、ただ不満だけを溜めつづけている状態だった。
二人きりの時間のどれくらいか。菊花ちゃんが彼の愛を疑うくらいには、博睦くんは菊花ちゃんの足元にいるのだ。
菊花ちゃんはこれが愛なんだ、と自分に言い聞かせていた。そうしないと、現実に引き戻されそうになるのだ。
ここ一週間ほどは、這いつくばる博睦くんを見て、犬がご主人様に寄り添ってるみたいだと思った。もはやそれは人間の愛情ではない。
人間が動物を飼って、疑似家族ごっこをやっている。彼は人間なのに。
このメールを見て菊花ちゃんは、犬も桃を食べるのかしら。と思った。
博睦くんは雰囲気がシェパードのようだった。記憶の中の博睦くんが、段々犬と同化し始める。シェパードの尖った耳。前に突き出した鼻と口。
大きなお口に桃を丸ごと突っ込んだら、だらだらと果汁を垂らしながら、うっとりと菊花ちゃんを眺める。ビー玉に似た博睦くんの光彩は、いつも支配されたがっているように見えて、そのくせ菊花ちゃんが対等に立つことをやんわりと拒否する。
シェパードはよく躾ければ人間の言うことをよく聞くけれど、しつけに失敗すれば支配欲が強い犬になる。
博睦くんはどっちなんだろう、と思う。
それから菊花ちゃんは興味本位で、犬に桃をあげてもいいのか調べてみた。桃の種には犬に毒になる成分が含まれているから注意したほうがいい、とネットに書かれていた。
毒になるのは、種に含まれるアミグダリンという成分。
カタカナ六文字が、桃色の金平糖みたいになってシェパードの前で跳ねた。シェパードは恍惚とした表情で芝生に寝転がっている。
それを想像した菊花ちゃんの表情がぐしゃり、と潰れた。熟れすぎた桃が木から落ちて、ハエがたかる直前みたいだった。
*****
来訪者を告げるチャイム。予定と一分も誤差のないその音に、菊花ちゃんはいつもより時間をかけて立ち上がり、六畳のリビングを出た。
玄関のブラウンの金属の扉を開けるまで、いつもとの誤差はおおよそ十秒。味噌汁に浮くネギみたいな、どうってことない時間。彼を待っている間に頭の中でネギを刻んでいた。刻んで刻んで、バラバラにしたタイミングで、彼はやってきた。
博睦くんは桃がたくさん入った袋を腕からぶら下げていた。それと、もう一つの袋。
菊花ちゃんは無言で彼を迎え入れる。彼は、余計にかかった時間を気にする風でもない。たった十秒。でも、菊花ちゃんにはいつも通りにしか見えない博睦くんの笑顔が不満だった。
菊花ちゃんのことが好きでたまらないという彼の甘ったるい雰囲気。真っ当に付き合ってるなら嬉しく思うだろうその態度。しかし彼との関係は、踏む者と踏まれる者。その事実が菊花ちゃんの心に冷たい水を注いだ。
灰色のコンクリートの土間に博睦くんが足を乗せる。菊花ちゃんは彼がスニーカーを脱ぐのを見ながら、ほのかに香ってくる甘い匂いに鼻をヒクヒクさせた。
匂いは瞬く間に、夏の温さが充満する玄関兼キッチンいっぱいに、中国の貴婦人のようなたおやかさを持って居座った。スーパーの青果売り場でかぐ匂いと同じなのに、周囲の気温が変わると、青々としていた香りが途端に熟れる。
部屋に迎え入れる菊花ちゃんが何も言わなかったことを、博睦くんは気にした様子もなかった。いつもと同じように、ゆらゆらと、実体の掴みにくい笑いを浮かべていた。
「桃、切ろうか」
菊花ちゃんが聞くと、博睦くんはその表情を崩さずに頷いた。
「でもこれは、そのまま食べるだけじゃないんだよ」
その言葉を不思議に思っている菊花ちゃんの前で、博睦くんはどんどん準備を進めていく。
「スプーンはこれ、あと鍋があれば貸して欲しいんだけど」
もう一つの袋から柄が細くて長い木のスプーンを差し出された。焦げ茶色のスプーンの先が擦れて、そこだけ色が変わっている。十分に使い込まれていた。
袋から出てきたのはスプーンだけではなかった。
ここに置かさせてね、とキッチンのシンク横に出されたのは、グラニュー糖。それから瓶が数個。
「これ、どうするの」
「一緒に作ろうと思って。桃のジャム」
シンクの台に瓶を置き、桃を袋から出していく。
桃の匂いがむせる。菊花ちゃんはその隣で博睦の手が次々に桃を掴むのを見ていた。
桃を傷つけないような、これ以上ないくらい優しい手つき。
私の足に触れるときと同じ。
そのことに気づいて心が揺らぐ。菊花ちゃんは、彼の手からつい、と視線を逸らした。
思わず逸らした先。そこにあった瓶の側面に、博睦くんに同じように優しくされた桃と菊花ちゃんが映って、瓶の中に詰められているように見えた。
菊花ちゃんは思わず手で瓶の列を崩した。
ガチャっと瓶同士が当たる音が響く。
「どうしたの」
博睦くんの声が斜め上から聞こえた。
「ちっちゃい虫が留まってるように見えたんだけど、いなかったのかな」
手のひらを確認してそう嘯く彼女を、博睦くんは目を細めて見ていた。
*****
ジャムにする桃は、少し熟れ過ぎているもの。皮が変色していたり柔らかすぎたり。二人で選別を済ませて、皮を剥き、鍋に入れて煮込み始めた。表面にプツプツと泡が浮き出したくらいで、残りの桃のうち二個を切った。そして、台所に立ったまま二人並んで食べた。
ガスコンロの熱を、換気扇が一生懸命外に逃している。桃と砂糖の匂いが巻き上がる。
作業の合間の他愛もない会話は、夏休みの集中講義をどうするとか、期末のレポートのこととか。菊花ちゃんから見る博睦くんは、学業に関しては優秀な人だった。特に経済数学は、博睦くんが教えてくれなければ、もう授業についていけなくなっていただろう。
話をしながら菊花ちゃんは思う。なぜ博睦くんは、踏まれたい以外マトモで、逆になぜそこだけ普通ではないのだろう、と。今だってとても普通だ。普通の大学生の会話。いつもこれがいい、そう言えたらいいのに。菊花ちゃんの中の何かが、それにストップをかけていた。
ジャムが出来上がって、瓶に移していく。ドロドロとして仄かにピンク色。肉片にも見える桃のジャム。瓶に移しながら、彼の背中の皮を剥いだら、もしかしたら。なんて思ってしまうあたり、菊花ちゃんもこのひと月で博睦くんに毒されているのだった。
鍋に残ったジャムは、博睦くんが大きめの器に入れた。
「それ、どうするの?」
「もちろん、食べるんだよ」
博睦くんが笑んだ。その顔を見て、菊花ちゃんはなんとなく嫌な予感がした。
そして、その予感は当たってしまっていた。
「キッカちゃん、食べさせて」
わざわざ持ち込んだ木のスプーンを器に入れて、博睦くんは菊花ちゃんの方にそれを差し出した。菊花ちゃんがジャムをひと掬いして彼の方に差し出そうとすると、彼はそれをやんわりと押しとどめて言った。
「手じゃなくて、足がいいな」
とりあえず足洗いたい、と彼に伝え、シャワーで綺麗に足を洗った。指と指の間は、本当に念入りに洗って、なんでこんなことしてるんだろう、と菊花ちゃんは虚しさも感じた。なんで断れないんだろう。菊花ちゃんは、リビングで床に座る博睦くんとジャムの器を交互に見て、ため息をついた。
リビングに入ってきた菊花ちゃんを、博睦くんは愛おしげに見つめた。
椅子に座ると、博睦くんを見下ろす位置になる。菊花ちゃんは諦めの境地で、足の指でスプーンを掴もうとした。でも、初めてのことで指がうまく開かなかった。
手伝ってあげる、と博睦くんが足に手を添えて、足の親指と人差し指の間にスプーンの柄を差し込んでくれた。あまり使われない神経が、ぞわりと震えた。
指先に神経を集中させてぎゅっと柄をにぎると、菊花ちゃんの足首に骨のシルエットが浮き上がる。そろそろとスプーンの先を博睦くんの口元に持って行くと、彼は嬉しそうに口を開けた。赤い舌が見える。下の歯並びは彼の表の性格そっくりで、整然としたものだった。そして、スプーンを博睦くんが咥えたらその反動で、スプーンの柄が菊花ちゃんの指の間をクイっと押し上げた。
器の中にはまだたっぷりとジャムが残っていて、これを何度繰り返すのか、と目眩がする。菊花ちゃんは自分の足を見つめる博睦くんのために、何度も器と彼の口の間を往復した。
足で彼にジャムを食べさせる度、博睦くんがシェパードとダブってくる。
「ヒロチカくん、私、こういうのやっぱ嫌い」
器の中身はもう、半分以下になっていた。菊花ちゃんは、博睦くんが完全に犬になってしまう前に彼に言った。
「無様だよ、なんか、とってもカッコワルイ」
それなのに博睦くんは、少し首を傾げただけだった。犬がキョトンとしているような。
「ヒロチカくん、犬みたい」
菊花ちゃんは顔を顰めた。しかし、博睦くんはそれを聞いて嬉しそうに、菊花ちゃんの足に擦り寄った。
「へぇ、僕って犬みたい?」
「そうだよ、だっていつも私の足元にずっといるじゃない。私に踏まれてそれが嬉しいって言って。それに、今日は足にジャム食べさせられて喜んでる。こんなの恋人同士がすることじゃない、と思うの」
菊花ちゃんがそう言うと、博睦くんは目を細めて口の端についたジャムを手で拭った。
「じゃあ、恋人って何するの」
「何って、わかんないけど、足でジャムを食べさせたりしないんじゃない」
「でも、僕はキッカちゃんとソレがしたいんだよね。で、キッカちゃんはどうしたいの」
聞かれて、菊花ちゃんはハッとした。したいことなんて、今すぐ思いつかない。どうしよう、と目を泳がせた。世間の恋人たちが何をしているかなんて、例えば小説だとかドラマだとか漫画だとか。そういうものでしか見たことがない。それが事実だなんて、誰も証明したことがないのだ。
付き合って浮かれたことがなかった。ずっと恋人を踏むことが正しいのか。普通ってなんだろうと、誰にも相談できずに考えていたものだから、博睦くんと何がしたいなんて。初めてのお付き合いで、こんなことになると思っていなかった。
菊花ちゃんにとっての事実は、恋人同士である自分と博睦くんが踏んだり踏まれたり、足でジャムを食べさせたり。考えれば考えるほど、自分の足の爪に食い込んだ博睦くんの背の肉の感触を思い出してしまって、ウズウズとする。
何も言えなくなった菊花ちゃんの足の甲に、博睦くんが優しくキスをした。
「僕は犬でもなんでもいいよ。無様な僕のことを嫌いでもいい」
嫌いでもいいという博睦くんは、悲しそうでもなんでもなかった。寧ろこうなることを予想していたかのように冷静で、菊花ちゃんに罵られることすら幸せだと思っているようだった。それに、まるで菊花ちゃんの本心は別のところにあるでしょう、と言いたげな。
「私、無様なものは嫌いなの。こんな風に這いつくばって、私の足に縋り付いて。それに、ヒロチカくんは、私じゃなくて、いつも足ばっかりじゃない」
「キッカちゃんの足だから、特別なんだよ。誰のでもいいってわけじゃない」
ついに泣き始めた菊花ちゃんに、博睦くんは嘯く。混乱した菊花ちゃんの前にひざまづいて、博睦くんは初めて彼女の手をとった。落ち着いて、というのはとても優しい声だった。
「僕のこと、そんなに嫌い?」
「違うの、ただ、こんなふうに足で食べさせるとか、ヒロチカくんの背中を踏むとか、そういうのが嫌なだけ」
「そうなんだ。でも、僕はキッカちゃんに踏まれてる時が、一番愛情を感じるんだ」
「それっておかしくない?」
「おかしいかな?」
博睦くんは不思議そうに聞き返した。何が普通とか、どうしたら愛情を感じるとか、そんなの人それぞれじゃない、と。
「僕は犬になったっていいんだ。キッカちゃんがそう思うんなら、犬にして」
「犬になってどうするの」
「ずっとキッカちゃんのそばにいるよ。忠犬だから」
色素の薄い博睦くんの目が細くなった。そして、ご主人様と言われて、菊花ちゃんはドキリとした。涙はいつの間にか止まっていた。桃のジャムの香りが冷たくなって漂っている。
「僕を裏切らないで、キッカちゃん。犬はとても執着心が強いんだよ。ご主人様でいられるのは、キッカちゃんが僕のことを好きでいてくれる間だけ」
従順そうな博睦君の中には、紛うことない支配欲が見え隠れする。菊花ちゃんは、博睦君が不意に見せるその姿が好きだと思った。手を伸ばして彼の頭を撫でる。茶色の毛色が手に絡む。
ずっと不満だったその正体がわかった気がした。初めて彼を踏んだ時も、自分の意思ではなかった。踏まされている、とどこかで思っていた。彼の支配欲が巧妙に隠されて誘導されて。それに乗っかっていくのは心地よかったのだ。
瓶の中に入った桃のジャム。博睦くんの肉片を詰めたような、甘くて支配欲の強い砂糖菓子。一度知ってしまうと抜け出せない。
菊花ちゃんは、多分ずっとこのまま歳をとっていくのだろう、と思った。この犬は自分を手放してくれないだろう。狡猾で従順そうな犬が、菊花ちゃんの足に擦り付いてくる。菊花ちゃんは少し足をあげて、足の甲で犬の首元を撫でてやった。
久しぶりに企画に参加しました。
楽しく書けました、ありがとうございます!