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ふと目を覚ますと、視界に入ってきたのは見知らぬ天井だった。姿勢を横に向けると、やはり見たことのない家具や家電製品があった。
ここはどこだ?なんでこんなところにいる?
その疑問は意識がはっきりしてくると自然と解けた。そうだ、オレは今日からこの曰くのある部屋に住むことになったんだ。オレは…、あれ、なんでここに住むことになったんだっけ?あ、そうだ、日本各地にある事故物件に住んで、その模様を動画共有サイトにアップして…。どうやら記憶があいまいになってる。まだジジイでもないのに記憶障害か。えーと、オレの名前は中丸大樹。二十七才。職業はお笑い芸人。それから…、やっぱり記憶に所々、欠落している部分がある。ベッドから落ちて頭でも打ったかな。
それに違和感を感じる。体全体がなんとなくへんだ。妙に軽いというか、重さを感じないというか。言葉では上手く表現できない。このまま床に倒れているのもなんなので起き上がろうとする。あれ?全く力をかけなくても起き上がることができた。どういうことだ。起き上がるというよりも宙に浮いたような感覚。
わあっ!
床に誰か倒れている。そいつの背中には包丁のような刃物が刺さっていた。うつ伏せになっているから、顔がよく見えない。着ているパジャマはなんとなく見覚えがある。オレは少し屈んで、そいつの顔を確認する。
ぎゃーー!
オ、オレじゃないか。オレが背中を刺されて倒れている。そうするとこのオレは誰なんだ?たしか部屋の窓際に全身が映る鏡があったはず。やけに軽い体でそこまで移動する。
鏡の前に立ったが、そこには何も映っていなかった。ひとつの考えが頭に浮かんだ。オレは誰かに刺されて死んだんじゃないか。で、今のオレは幽霊ってわけ。もう一度、倒れている男のそばに行く。そうだ、これはオレだ、間違いない。オレは死んだんだ。
そこで記憶の一部が蘇ってきた。今日からここに住むことになったんで、新居祝いで、彼女のあいみを呼んだんだ。酒を飲んで楽しく過ごしてたんだけど、なんかの理由で、あいみを怒らせてしまった。怒鳴りながらあいみは部屋を出てったってことまでは覚えてる。でもその先の記憶が…ない。で気づいたらこの状態っていうわけ。もしかして、あいみがオレを刺した?いや、そんなことはない。そんなの嫌だ。それともここに住むようにしたのがいけなかったのか。事故物件サイトが太鼓判を押してたところだからな。幽霊にでも刺されたか?でも幽霊ってそもそも包丁とか持てるのか。だめだ、くだらないことを考えてる場合じゃない。とにかくオレの死体をなんとかしなくちゃ。
もう一度、自分の死体の傍らに行き、試しに持ち上げようとする。予想通り、持ち上がるはずがなかった。誰かを呼ぼう。でも呼ぶって言ってもどうやって?考えていても埒が明かないので、死体のそばを離れて部屋を見渡す。
部屋の中にあるものは全部、前の住人のものだ。そいつは、つい数日前にここで殺されていた。回収業者が遺品を回収しようとしたところを、次の入居者であるオレがそのままにしてもらった。『事故物件に住んでみた』っていう動画を配信するのに、その方が効果的だと思ったからだ。
前の住人はオタクだったらしい。壁にある本棚にはマンガがぎっしりと収まっているし、その隣りのラックには美少女系のフィギュアがガラスケースに入れられている。反対側の壁はアイドルのポスターやサイン色紙で覆われている。
それらの中でも特に目を惹いたのは、窓際の椅子に座っている人形、ラブドールってやつだ。メイドカフェの店員のような装いをしていて、色っぽい目をこちらに向けている。はじめてこの部屋に入って、その人形を見たときはあまりの完成度に、生身の人間がいるのかと思ったほどだ。さらに驚いたのは、オレが近づいて『よくできてるな』とつぶやくと、その人形が喋りだしたのだ。なんと人工知能が搭載されていたのだ。簡単な会話なら、ふつうにやり取りできる。夢中になって会話していたら不思議な感情が生まれた。人間と話しているような感情だった。でも今のオレにはその人形とすら話すことができない。
オレは人形の前を離れて部屋中を歩き回る。ひょっとしたら犯人がどこかに隠れているんじゃないかと思ったが、押入れにもトイレにもどこにも人の姿はなかった。再び自分の死体の前に戻る。見つめていると、玄関の方から何か音がしているのに気づいた。誰かが外廊下を歩いている音だった。それで閃いた。外に出て誰かに気づいてもらおう。
オレは玄関の鍵を開けようとした。だが、直前に無駄なことを思い出した。オレは物をつかむことができない。なんせ幽霊だから。幽霊!そうか幽霊なら、この玄関をすり抜けられるんじゃないか。ゆっくりドアに向かう。ドアの前でちょっとためらったが、思い切って進む。
とくになんの感覚もなく、あっさりとすり抜けることができた。やったー。嬉しい気持ちと同時にやっぱりオレは幽霊なんだという絶望的な気持ちがこみ上げる。
廊下にいたのは六十代くらいの男性で、寒さに身を縮めながらコートに手を突っ込んでいる。その人が誰かはすぐに分かった。このアパートの管理人だ。ついきのう会ったばかりだから間違えるはずがない。ここの一階の管理人室に住み込んでいるって言ってた。それにしても、こんな夜中に何をやっているんだろう。見回りでもしてるのか。それともコンビニに買い物にでも行くのか。彼にどうにかして話しかけられないかな。管理人の正面に立って、どうしようか迷っていると、管理人はオレには気づかないようでそのまま通り過ぎようとする。オレと体が触れた瞬間、なんだか意識が遠のいていくような感覚を味わった。