6.両成敗
新たな事実です
ベッドのなかに収まっていた子供はどこか活気がなく、鳩子は目を瞬かせて心中で首を傾げた。この間まで、過剰なぐらいに元気だったというのに、一体どうしたのか。
起きて声を上げられるとわかり瞬時に謝ろうとしたが、こんな状態の子供では疲れてしまうと子供の様子を見つめて、鳩子は思い直した。
とりあえず起きてるうちに食事をさせようと、いまは鍋に火をかけていた。子供は一日に二回ぐらいしか食事をしていない。それもこれも子供が食べ物を食べる気力が無かったおかげで、食べさせることができなかったせいなのだが、恐らく栄養が足りていない。
鳩子は本人に食べる意思が無ければ、食べさせることはできないのだ。鍋がコトコトと煮詰まる音が、部屋に響く。子供の目は、開いてはいるものの、薄ぼんやりと、どこを見ているかも知れない。
(随分と静かだな)
最初に会ったときの騒がしさが嘘のようだ。鳩子はある程度煮詰まった鍋を、火から離した。皿へ盛りつけて、鳩子は洗って置いてあった食器を手に取る。
ベッドへと真っ直ぐに進み、子供の目の前で立ち止まる。腕を差し出して、首を傾げて子供を窺った。
「食べれるか」
「ああ」
掠れた声で頷いた子供の言葉を、確かに聞いて鳩子は子供の頭にある棚に、食器を置いた。子供の体を起こすように、腕を肩の下に敷いて、掛け布団をはがした。
子供の腕が震えながら鳩子の腕に掴むのを、鳩子は黙って享受した。子供の上体が起き上がり、壁に体を預けながらも、体制を崩さない子供の前に、食器を差し出す。
「使えるか」
「ああ」
その言葉に、鳩子は黙って子供に食器を渡して、ベッド脇の椅子に座った。ゆっくりと腕を動かして、食事をする子供の様子を眺める。食器が擦り合って、カチャカチャと音を立てるのを聞きながら、鳩子は子供を観察した。
顔色は最初に見つけたときよりは、格段に良くなっている。体を動かすにはまだ辛いようで、ときたま体を揺らしながら、小さく呻いてはいるが、それでも食べ物を口に入れて、咀嚼して飲み込むまでを、なんとか行っている。
一口食べて、一息を吐きという具合で、この様子ではまだ全回復には程遠い。何故こうまで疲弊しているのかは知らないが、三日飯を食べていないだけで、こうなるとは思えない。
少なくとも、あの案内茸というもので川までの道のりは、分かった筈だ。
(一体なんのためにこんな所にいるのか)
ここまで、この子供はどうやって来たのか。川を下れば、村があるのか。今までどのように食糧を調達したのか。疑いだせば、きりがない。まさか神隠しにでもあった訳でもあるまいに、そう遠くはない所に住処はある筈だ。
理解できない。川の場所を把握できれば、たとえここ数日が雨で、川に近づけなかったとしても、山から下りるなど造作もないことだというのに、何故いまだにこんな所を彷徨っているのか。
「食い終わったか」
「ああ」
食器から手を離して、気怠げに息を吐いた子供の背を支えて、ベッドへとおろす。掛け布団を子供の体へ寄せれば、苦悶に眉をひそめながら、ゆっくりと体の力を抜いた。
鳩子は子供が手を離した食器を手に取り、台所へと向かった。食器を洗いながら、子供が横たわっているベッドを、ちらりと見た。眉間に皺を寄せて、鳩子を眺めている。外では雨がしとしと音を立て振っていた。
声を出せる気力も無い子供は、雨音が響く部屋のなかで、ただそのうちにゆっくりと瞼を閉じて、眠った。
***
鍋に煮詰めた食糧の底が見える。この量では最低限切り詰めても持って二日だ。
あれから三日、声を出せるようになったものの、子供は四六時中、口を閉ざしている。鳩子の言葉に相づちを打つ程度で、歩けるようにもなったが、まだ森の中を進めるほど、体力は回復していない。
その一方で、鳩子の林檎の消費は日増しに多くなっていく。鍋の量が減るごとに鳩子は林檎を口にして、飢えを凌いでいた。焦るように多少の雨でも森を彷徨い、食糧を探してはいるが、使い道のわからない植物や果実が増えていくのみだ。
机の籠を鳩子は見つめた。布の下には林檎は三つ収まっている。子供が眠っているときに食べて、その度に収穫している林檎は、一日ごとに実が生ってるかのように、赤い実が点々と遠くからでもよく見えた。
「おい、起きれるか」
「ああ」
「飯だ」
「ああ」
差し出した食器を大人しく受け取った子供を横目で眺める。子供の顔色や体格は、鳩子が初めて会った頃に、なんとか戻ったように思える。
これで雨さえ止めば、体力が戻れば、子供は外へ出れるのだ。食糧が底につく、その前に子供の体調が戻ればいい。そうでなければ、鳩子では到底養い切れない。
林檎は毒だとあれほど言い張った子供に、林檎を差し出す訳にもいかないのだから、もし体調が戻らなければ死を覚悟で、得体の知れないあの植物や果物に手を出してみるのもいいかもしれない。
だがそれも、子供の様子に応じてだ。ずるずるとここまで謝らずに来てしまったが、こんなことになってはもう時の運に任せるしかない。少々重いが、命で償うということも出来る。
鳩子は意味のわからない森や生物に知らず知らずのうちに、精神力が削られていった。いまはもう己の行く先が投げやりになってしまっている。
(年を取ると、色々なことが許容できなくなっていく)
若いときも早々変わらなかったが、それでも昔はこんな考えは思い浮かばなかった筈だ。自分が考えていたことに重いため息をついて、鳩子は子供が飯を食べ終わったらしい音を聞いて、立ち上がった。
謝ることを今日まで先延ばしにしていたが、もういいかもしれない、と鳩子は子供から食器を受け取りながら、諦めた。結局自分は、謝ることが怖くて、今日まで逃げていたのかもしれない。
食器を受け取った手を一瞥してから、鳩子は真っ直ぐと子供の目を見つめた。
「すまない。あのときは言い過ぎた」
「……あ」
「いくら腹が立ったとはいえ、追い出したのは悪かった」
「お、い」
「雨が降ってきて、反省した。飢えさせるまで追い詰めて、すまなかった」
「おい!」
「それだけだ」
言い切って、鳩子は一息を吐いた。少し気分が軽くなったようだ。もう少し森を散策してみよう。もしかしたら、知っている食材に出会うかもしれない。
そんなことを考えながら、台所へ食器を片付けようと踵を返そうとした、鳩子の腕が急に掴まれた。
「……待てよ」
まるで置いてかれた迷子のような目をした子供が、鳩子を見上げていた。黙って食器をベッドの頭にある棚に置いた。鳩子は子供を見つめ直して、小さく首を傾げて子供の目を覗いた。
「なんだ」
「おれが、おれが悪かった。あれは、あの実は毒じゃない」
どういう気の回しだ。鳩子は一瞬、子供の言ってることが理解できなかった。
「別に、気に使わなくていい」
「違う。赤は毒の証なんだ。案内茸も魚も果物も赤い奴は全部毒を持ってる。口にしただけで即死する毒だ。だから、見たことない実だったが赤くて、おれはてっきり毒だと」
「……それで」
「赤くない奴にも毒を持ってんのはある。ただ赤の特徴は即死で、あんたがもし本当に食べてたとしたら、もうこの世にはいねぇんだ。それをおれはずっと疑い続けて……だから、おれが悪かった。あんたが、謝ることじゃねぇんだ。おれが悪い。直ぐに謝っときゃ良かったんだ。悪かった」
顔を真っ赤にした子供が、口々に言う言葉に、鳩子は小さく眉を上げた。
「いや、そうだとしても、なにも聞かずに追い出したわたしが悪い。お前を飢え死にさせるところだったんだ。すまなかった」
「だからそれは、おれがあれを毒だと言ったからだ。おれが悪い」
「追い出したのは明らかにやりすぎだった。わたしが悪かった」
「おれがあんなことを言わなけりゃ、そんなことにならなかったんだ。おれが悪い」
「……わたしだ」
「いや……おれだ」
「わたしだと言っている」
「おれだって言ってんだろ」
何故、あんなことになったのか。一重に言えば、鳩子があのとき謝罪を受けていれば、こんなことにはならなかったと言える。
密やかだった謝罪は、次第に怒鳴り合いになっていった。剣呑になっていった子供の目が、ついには言葉までも荒げるようになって、鳩子も声は低く冷たく、そして日頃の無表情に輪をかけて、人形のような顔になっていった。
そして激しい言い合いの終息は至って簡単に訪れた。
「わたしだと言っている」
「だから、おれだって言ってんだろ!……ッ!」
勢い余って身を乗り出した子供が、ベッド脇にかけていた腕を掴み損ねて、ベッドから転げ落ちた。
「…………」
「…………」
目の前から子供が消えたと思った瞬間に、視界の下から、ゴコン、と固いものがぶつかりあう音が聞こえて、鳩子はあえなく沈黙した。見ずとも起こったことが手に取るように理解できた。
視線を下に向ければ、床に沈んだまま起き上がってこない子供がいる。鳩子は静かに手を差し伸べた。沈黙を保ちつつ子供は鳩子の腕を掴んで、ベッドへ戻る。
「……すまない。体力が回復してからまた話そう」
「……ああ」
気まずそうに顔をそらした子供に、鳩子は反省した。心から反省し謝罪したというのに、それを受け入れられず逆に謝られてしまったので、納得いかなかったのだ。
よくよく考えてみれば、双方に非があると考えていい。素直に謝罪を受ければ良かったのだ。いらぬ争いをしてしまった。未だ体力が回復していない相手に、大人げない。
だが、言い争いができるほどに子供は体力がついているとわかった。これなら少し安心してもいい。たとえ家に食糧がなく、お先真っ暗だとしても、それだけは良い情報だ。
鳩子は机の林檎に被せてあった布をはぎ取って、林檎を撫でた。これなら回復ははやい。鳩子は安堵の息を吐いた。
赤は毒の証でした。