3.悔いる
迷走中……です。
鳩子は腕にくくった縄を解き、家の脇に植えてある林檎の木に軽く巻き付けた。青年は真面目な顔をして鳩子が手をかけた林檎の木を黙って凝視している。腹が減っているという割には、この青年は道中ずっと腹を鳴らさなかった。
我慢強いというか、頑固というか、空腹だというのは嘘ではないのかとも鳩子は思ったが、嘘をついているようにも見えない。
鳩子は小屋へ入り、山菜と茸、鹿肉を取り出した。鳩子はすでに朝食を済ましている。青年の食糧だけを抱えて、鳩子は家のドアを開けた。そこでふと背に顔を向ける。
「入らないのか」
「勝手に女の家に入れないだろう」
「そうか」
「待て。行くな。入っていいなら、そう言え」
言葉がそんなにも重要か。青年の言葉に、鳩子は内心呆れる。真意がどうであるかもわからずに、言葉だけを信じるのは浅はかだ。最もこの男の真意など、鳩子の知る所ではない。
「入って構わない」
面倒だとは思いつつも、鳩子は青年に言葉を返し、家へと足を踏み入れた。
日の高いうちに家へ帰ったのは、随分と久しぶりのことだった。山の獣が活発になり、足下の道も不確かになるまえに、家には帰るが直ぐに日は暮れるし、真昼間に家に戻ったことは少ない。
だからか、鳩子はこの家が自分に馴染んでいるとは到底思えなかった。鳩子はまな板に食材を置きながら、脇に置いた籠のなかから包丁を取り出した。思えば一人暮らしをしてからは、家に一日中いたことがない。なにかしらで家を出て行った。
かといってこの家の居心地が悪いわけでもない。眠るときも穏やかに意識は沈んでいく。愛着もそれなりにある。井戸もあり、鳩子の好きな果物が成る木も家の脇には植えてある。
「なあ」
「ああ」
「ほんとうに死にたいのか」
「……なぜだ」
鳩子はまな板に向かって動いていた体を止めて、椅子に座りながら机に腕をかけた青年へと向けた。
この青年はなぜこうも鳩子を死にたがりにしたがるのか。確かに籠いっぱいに毒を積み重ねている人間を見たら、そう思うのは仕方がない。だがあの茸に関しては、毒があることを知らなかった、ということで決着がついたのではないのか。
「それともこれは飾りにしてるのか、だとしたら趣味が悪い。すぐにやめろ」
青年が指差した先にあるものに視線を向けて、鳩子は眉を引き上げた。林檎がなんだというのだ。いくら命を救われたからといって、他人に人の嗜好をとやかく言われる筋合いまではない。
若者特有の考え方なのか。その勝手な独断と偏見だけは勘弁したいものだ。鳩子は深く肺に溜め込んでいた息を一つ残らず吐いた。
「人の嗜好に関してとやかく言われる義理はない」
「こんなものを机に置くなんてどうかしてると言っているんだ」
「そうか」
「馬鹿にしてんのか。食事をする机にこんなものを置きやがって。気分が悪い」
「そうか」
「真面目に聞いてんのか!」
激昂の声に鳩子は肩をすかした。何故人は、口数が少ないだけで、自分の話しを聞いていないと決めつけるのか。むしろこちらの言い分を聞こうとしていないのは、そちらだと、鳩子は言いたい。
「その実はわたしの好物だ。なぜそうも嫌うかは知らんが、もう少し穏便な物言いはできないのか」
「好物だと?この実は毒だ。おれを馬鹿にしてんのか」
「おまえがその実が嫌いなのはわかった。だが、それをわたしに押し付けないでくれ」
「好きだ嫌いだじゃねぇ。これは毒だ」
「そうか」
もう勝手に言えば良い。鳩子はまな板に向かいなおして、包丁を手に取った。
「おい。話しは終わってな……!」
ドォン、と音が家を震わせるほどに響き、まな板に包丁が突き刺さった。この子供は本当にうるさい。もう見目は良い年だというのに、言っていいことと悪いことの区別がつかないのか。第一、言葉遣いも腹立たしかった。
鳩子はおもむろに、鳴り響いた音に立ち上がっている子供をすり抜けて、林檎へと手を伸ばした。視界の端で目を見開く子供を捉えて、鼻を鳴らす。齧り付いた実から果汁が口の端に滴る。少し固い果物が口内に収まり、二三度噛み砕いて飲み干した。
赤く丸い熟れた実の一角が、白く染められる。子供が呆然と眺めているのを見届けて、鳩子は目の前の机に食べかけの林檎を置いた。
「馬鹿らしい。何年も効くのがかかる毒があるか」
「毒、じゃ、ないのか」
愕然と鳩子の食べた林檎を見つめた子供に、鳩子は冷めた目を向けた。
「なにが毒だ。飯を食ったらさっさと出て行け。不快だ」
本当に気分が悪い。後で、この森に生息している草や魚の毒の有無を聞こうと思っていたが、やめだ。林檎を毒と見まごう人間は信用に値しない。第一、鳩子は子供は苦手だ。30も離れていそうなこの子供と長く時を過ごすのは最初から無理な話しだった。
無神経な人間は嫌いだ。さっさとつくって、出て行ってもらおう。
普通ならば、こういうことは流すべきなのか。人付き合いを避けてきた鳩子にとって、通常の人間に備わってある筈の処世術というものは、存在しなかった。
鳩子が肉や野菜に火を通している最中、子供が後ろで動く音が聞こえた。視線を感じる。背中に常に外されない視線が、鳩子の背筋を駆け巡る。観察されている。
(なぜ)
窺うような空気が背中辺りを漂っている。後ろに気をとられている間に、鳩子は野菜が一つ溢れたのを慌てて拾い上げた。その瞬間だった。後ろから椅子が倒れたような、ガタンという音が、聞こえた。
「……なんだ」
「え、あ、いや」
気まずそうに顔を背けた子供は、床に転がっている椅子を拾い上げて座り直した。意味がわからない。鳩子は眉間に皺を寄せて、まな板に向き直った。
もうこんなことはない。そう思って調理を進めていた鳩子だが、何かの拍子に屈んだり、立ち尽くしたりしていると、その度に後ろから椅子が倒される音が聞こえた。
振り向いて確認すれば、子供はそそくさと椅子を直してまた座り直す。それが何度も続きながらも、鳩子は調理を終えて、皿に移し代えた。
「あ、ああ、わるいな……あ?」
子供の前に皿を持っていき、それを受け取ろうとした子供の手を、すっと避けた。途端に目つきが厳しくなった子供が睨みつけて来るのを、鳩子は見下ろして、口を開いた。
「さっきから、失礼だと思わんか」
「あ?」
「そんなにわたしが死なないのがおかしいか」
何度も繰り返されればわかる。この子供は見張っていたのだ。鳩子が毒に当たって倒れないかを、屈んだり立ち尽くしている姿を見て、その度に事切れた、と椅子をひっくり返していたのだ。
人が死ぬのを、じっと見張っているなど、失礼どころではない。人間としておかしい。鳩子は腹の底が、グツリと煮立つのを感じて、意識して目元を引き締めた。
怪訝そうにしていた子供の目が見開かれて、何かを言おうとするのを、鳩子は遮るように口を開いた。
「あの茸を食べずに済んだ礼に、おまえをここに連れてきた」
「おい」
「わたしが死ぬのを、椅子を倒すほどに期待してるおまえに、わたしが恩を感じると思うか」
「おい、ちがう」
「わたしはおまえに恩を感じない。だがおまえに飯をやる。そのかわり二度とここへは来るな」
「おい!聞け、人の話しを」
机の上に勢いよく手を打ち付ければ、バァンと耳が割れるような音が響いた。じんわりと痛んでいく手のひらは痛いが、鳩子はそれすら気にならなかった。子供の顔を脇見見て、ゆっくりと声を上げた。
「飯をやる。二度と来るな。簡単な交換条件だ。人の話しを聞けるな?」
「おれは、別にあんたが死ぬのを、期待したわけじゃ!」
「そうか。もうどうでもいい。納得がいかないならばこうしよう」
鳩子はもう冷静ではいられなかった。怒りに頭が沸いて、まともに思考することができない。
「わたしはおまえが嫌いだ。飯を食ったら出て行け。これならわかりやすいな?」
「わ、わかった」
子供が大人しく椅子に座るのを見届け、鳩子は皿を机に置いた。脇に食器を並べる。
鳩子が黙って踵を返せば、後ろで食器の重なり合う音が聞こえた。台所で片付けをしながら、一瞥するとモソモソと子供は食事をしていた。ふとそれを見て、鳩子の浮かされるような熱は一瞬にして冷めた。
大人げない。老人の癇癪ほど醜いものはない。一体なにをやっていた。鳩子はふつふつと沸き上がる罪悪感に顔を歪ませた。今更後悔しようと、どうしようもない。
謝ろうか。そんなことも考えては見たが、鳩子は人に謝る方法など知らなかった。ただ、言葉が浮かばず、子供も一言も口をきかない。皿の食事をきれいに平らげて、子供は黙って家から出て行った。鳩子はそれを眺めていた。
後悔が頭を渦巻く。言い過ぎた。謝れば良かった。なにも言えずに子供が去ったあとの食器を片付ける。
鳩子は、自分が住んでいる家が、初めて広く孤独に感じれた気がした。
次に進展?……があります。(おそらく)