1.目覚め
目が覚めたのは朝だった。ベッドに横たえて、掛け布団が体にかかっている。おもむろに掛け布団をたくし上げて、部屋を見回す。部屋には円形の机があり、その中央には赤い林檎が三つ入った籠が置いてある。
四方の窓からは微かな光が差し込む。カーテン越しに日の光が床に落ちていた。
鳩子が暮らして来た部屋の、なにも変わらない朝の風景だった。
(そんなはずはない)
背筋に悪寒が走る。鳩子の脳裏から鮮明に浮かび上がる生々しい痛み、息づかい、恐怖。震える息を吐き、意識が途絶えるあの瞬間、あれはまぎれもない死だった。肩も腹も確かに切り裂かれた記憶がある。けれど、あれほど激しく熊に切り裂かれたというのに、体は何一つ痛まないし、衣服はほつれさえしていない。
これはなんだ。
ベッドから下りながら鳩子は髪をかきあげた。
(あれは夢だったのか)
震える指が未だ鳩子が動揺していることを知らせる。現実でしかありえないほど鮮明に切り裂かれた体も痛みも、そしていつも通り食糧を収集していたことも、鳩子の記憶には残っている。
酷い頭痛に見舞われながら、鳩子は頭を振った。ついに頭がおかしくなってしまったのか。怪しい茸を食べた覚えもないというのに、これでは痴呆か狂人だ。
あまりのことに、おぼつかない足で机へと向かい手をつく。赤い林檎が籠に三つ収まっているのが見え、鳩子は林檎を掴んで台所へ向かった。落ち着こうと、まな板を取り出してゆっくりと息をすることを意識した。
林檎の前にまずは朝食だ。鳩子がそう思って視線を上げたとき。ふと気付く。視線を投げた先にある筈のものがない。
(朝食の材料は夜に用意しておくはずだ。何故ない)
昨日のうちに用意をしないなんてありえない。必ず用意をしてから寝るのだ。鳩子が小屋に向かおうと、部屋のドアを開いたときだった。
その景色は視界を埋め尽くした。見たことの無い木が果てしなく広がっている。思わず井戸を確認したが、変わらずそこにある。まさかと思い、家の脇に植えてある林檎の木を直ぐさま確かめたが、そこにも変わらずいつもと同じ木があった。
呆然と鳩子はその場に立ち尽くした。白昼夢だ。ありえない。ここはどこだ。ひたすら働く頭も堂々巡りの言葉しかはじき出さない。
(死んだと思ったら生きてて、夢かと思ったらへんなところにいて)
だめだ。
鳩子は直ぐさま悟った。
これは理解できない。鳩子は考えることを放棄した。
これは鳩子の手に負えることではない。範疇外だ。頭が痛い。
出来ることなら、ゆっくりと眠ってこの頭痛を直したい。だがさっき目が覚めたばかりだ。とりあえず朝食の準備だ。鳩子は頭を切り替えた。食糧を小屋から取り出して、調理して食べて、さっさと来るべき日に備えて、冬ごもりの支度をしなければならない。
考えながら、ぴたりと鳩子は足を止めた。
小屋へ向かおうとした足を、目の前の森に向ける。
(秋?)
この見渡さん限りに生い茂る木はなんだ。枯れ葉はどこだ。秋雲はこの空のどこに漂ってる。気温も、日差しも、考えてみればさっきからずっと感じている。
冬がほど近い秋だというのに、寒くない。
(これは夏だ)
気付けば季節まで違う。
鳩子はめげそうになる心を、歯を噛み締めて眉を締め付け、じっと奮い立たせた。そしてはっとする。小屋に貯めてる食糧はどうなっている。あのままにしているのなら、腐ってしまう。
小屋へと駆け寄り、中の食糧を確認すれば、腐ってはいない冬ごもりのための食糧が、貯蓄されていた。そういえば、林檎の木も実がなっていた。
記憶にあるのは秋で、林檎の木も、小屋も秋で、目の前の景色と気候は夏で、……考えるのはやめよう。きりがない。
(もういい。朝食だ。朝食にしよう。夏では干物は日持ちしない。さっさと食べてしまおう)
鳩子は開き直って肉類を保管している籠へと手をかけた。鹿肉を2枚、山菜と茸もいくつか取り出す。この一週間の朝食は割と豪勢になりそうだ。小屋には食糧が有り余っている。
自分の記憶と現実との差異に、憂鬱になりながら鳩子は外を見た。虚しいがこれは幸運といえる。勝手の違うこの森で、これから川や山菜、茸、動物の住処を把握していかなければならないのだ。下手すれば一週間は食糧を得られない。
(最悪な気分だ)
暗い気分で家へ戻ろうとした鳩子は視界に止まった井戸に体を止めた。
水はあるのだろうか。いつのまにか山から身に覚えの無い森にいたが、もしや井戸に水がないなんてことは有り得るのか。
井戸へと向かって直ぐさま水を汲みだす。確かな手応えは感じるが、これで水ではないなにかを掬っていたら、洒落にならない。鳩子は真剣に井戸の最下層から上がってくるものを待った。
そして目の前で水滴が散るのが見えて、鳩子は脱力した。
(どうやら取り越し苦労だったか。井戸の水がないとは、考えすぎたな)
そこはかとなく疲れたが、鳩子はとりあえず安心して、息を吐いた。
食糧は冬ごもりのために蓄えてきたものがあるとして、一週間は余裕を持って賄える。だが水はどうにもならない。人間は水がなければ三日と生きていけないというのに、この森で川が見つかる確証がなかったのだから、鳩子は年甲斐もなく焦ってしまった。
井戸の問題が解決し、食材をまな板に置く。常にない豪華さだが、ちっとも嬉しくない。朝食を用意し、机に並べた鳩子は、いつもより具材が増えているそれに堪えきれず息を吐いた。
***
赤く色づいた林檎のついた枝が、パチリと音を立てて手に落ちてきた。鳩子は手に収まった林檎に息を吹きかけて布で磨く。朝食に食べた赤い林檎の残りは、塩水につけて日陰に保存した。
いまは籠に二つになってしまった林檎に、もう一つ林檎を置いてから森を探索しよう。いつもと同じ行動をすることで、鳩子は自分の思考と精神を落ち着かせようとした。
机の籠に三つ収まった林檎に、鳩子は視線を向けながら考えた。
(川を探すか)
この季節では茸は手に入らない。魚と山菜、ついでに動物が生息していそうなところを探そう。必要なのは籠と罠と……一応包丁でも持っていこう。鳩子は熊に襲われた夢を思い出して、台所の包丁へ手を伸ばした。
熊のことに関しては、まだ認めたくないし、納得出来ないことも多々あるのだが、あれは夢としておこう。死んだ筈だが、生きているのだ。本当に納得できないことではあるが、一応あれは夢だ。
鳩子は部屋から森へと続くドアを見て、息を深く吸い込んだ。覚悟を決める。いまはこの森の夏、鳩子の知る山の秋ではない。
(よし)
森で遭難するわけにもいかず、小屋に備えてある縄を林檎の木に縛り付け、腕をくくった。これで迷わず家に帰って来れる。鳩子は人より道を読むことに優れてはいるが、やはり知らない場所では不安が付き纏う。出来る限りの出来事に備えて、鳩子は森へと足を踏み出した。
しばらく森を進みながら、鳩子は耳を澄ました。鳥や動物や水音を聞き逃さないように、慎重に歩を進める。
そのうちに鳩子は首を傾げた。この森は自然が溢れている。大きな木も蔦も、鳩子には見覚えのないものばかりだ。しかし、このような木や蔦や葉など、存在しただろうか。色合いは確かに緑なのだが、何故こうも青々しいのか。
鳩子の足がピタリと止まる。
(茸?いやおかしい。いまは夏だ)
秋ならまだしも、夏に茸は聞いたことがない。しかも茶色は茶色だが、どこか赤みがかった、これまた見たことのない茸だ。見た目は椎茸に見ているのだが、一体なんだろうか。
一応収穫し鳩子は籠のなかにその茸を入れた。すると茸を収穫した木の根もとに、親指一本ほどの黒い虫らしきものが、四足歩行で鳩子の目の前を横切っていった。
待て。とりあえず落ち着こうと、鳩子は不規則になった呼吸を懸命にととのえた。なんとか呼吸は落ち着いたが、一向に思考は落ち着かない。いまのはなんだ。足が四本で黒い生体など、いまだかつて聞いたことがあったか。いやない。
あるはずがない。
「ここは本当になんなんだ」
空を仰ぎ見て、鳩子は呆然と呟いた。もしかしたら、本当に頭がおかしくなってしまったのかもしれない。いま鳩子は一体どこに立っているのだろうか。
地面も空も、木も息づく生命体も、どこか少しずつおかしい。鳩子は起きながらして夢を見ているのかもしれない。現実のように頭痛はひどくなっていく。
なんてはた迷惑な夢なんだ、と苦々しく思いながら、鳩子はこの夢が覚めることを天に願った。