序幕
更新は遅め、かつ見通しのない長編です。あらすじ、小説のキーワード等は、あまりあてになりません。よろしくお願いします。
赤い林檎が三つ。布が敷かれた籠に収まっていた。家の脇に一本だけ植えてある実のなる木。そこから収穫したものだ。赤くて丸いが、市販のものよりも多少小振り。
鳩子はその実が好きだった。つややかな色合い、形。未だ輪郭が拙い胎内に眠る赤子のように見える。鼓動が聞こえてきそうな、命を象徴する果物だ。
毎日一つの林檎を、朝食、昼食、夕食、と切り分けて鳩子は食後に食べていた。減っては増やし、増えては減らしの要領だ。だからいつも、籠には三つの林檎が収まっている。
毎日毎日、飽きないものかとも思うけれど、意外と飽きないものだ。米を食べるのと同じだ。自分のなかで、この果物は主食と同じなのだ。ある限り、食べ続ける。
いっそ義務づけられている勢いだ。いま食べてる果物が美味いか不味いかもわからない。
ふと気付けば、窓からの日が長く差し込んでいた。休んでいる間に随分と日が高くなったらしい。毎日の生活において、習慣とは大様に変更されないものだ。鳩子のように、自給自足を行っているのであれば、尚更そんなものだ。普段より長く休憩していれば、その分、動かなければいけない。
すっかり冷めてしまったお茶を飲み干し、鳩子は椅子から重い腰を上げた。
小屋から深さ10cmほどの手籠を取り出した。壁に密着した棚には、不揃いの籠があって、種類別に干した茸や山菜が入っている。
右の棚には肉と魚。左の棚には茸と山菜。日持ちしないものは、すべて干してある。これから冬に入る準備をしなくてはならないからだ。そういう時期は決まって、森の動物が活発になる。幸い生活に欠かせない水は、家の脇に井戸があるとして、食料はおいそれと近場で手に入るものではない。
家から離れた川にいって魚。山の奥まったところにいって、茸、山菜、兎、鹿。魚や兎や鹿なんて動きの速いものが、この年で、その上丸腰で捕らえられるわけがない。罠を仕掛けて捕らえるのが常だ。かかってないことのほうが多い。
一人で暮らしているから、兎や鹿なんてのは、一羽、一頭かかっていれば、充分なのだ。だがそれは、冬に備えるための食材でない、という前提があったらの話しだ。
もう冬に入る間際だというのに、小屋の食料は貯まっていなかった。そのために、少し遠出をして山奥深くに行かなければならないのだ。あらかじめ、罠を仕掛けるときにどこかの縄張りに入っていないか、逐一確認したが山の動物は縄張りのみで狩りをするわけではない。
鳩子には不安があった。山の果物や茸などの収穫の変動によって、動物の行動も変わるのだ。いつもより意識をして、鳩子は川辺に近づいた。罠をしかけた場所まであと数mだ。ある程度まで近づかなければ、川の全貌は見えない。どうやら、鳩子の他に、動く物はいないようで、素早く罠を確かめる。
長居は無用だ。手頃な石を転がして、水を求めて岩肌を這っている虫を数匹拾う。昨日のうちに用意しておいた罠には蚯蚓(ミミズ)を入れてある。あとは虫を入れて設置すればいい。流れで動いてしまわないように、大きめの石で支えた。
冬場の水仕事は身体に凍みる。風が吹く度に濡れた手が、動かすたびに皮膚が引きつって、キシキシと痛む。前掛けに手を押し付けて水を拭った。
***
安心していた。最も危険な川沿いに、姿が見えなかったことから、危機感が薄れていた。警戒はしていたのだ。川にいなかったからといって、それで安全というわけではない。そんなことはわかっていた。だからこそ茸や山菜を穫りに、山深くへ入らなければいけなかったため、警戒していた。
そして危険な警戒すべき箇所を、過ぎてしまったために、油断をしてしまった。
それが過ちだった。川場に行くとき同様の警戒をしていれば、否、それでも、もしかしたら避けられなかったのかもしれない。それでも、状況は変わっていたのではなかったのかと思うのだ。いつだって後悔は手遅れになってする。
罠をかけた場所へ向かうために、高い茂みをかき分けたその先。まず高さ2m強の茶色い体格が眼に入った。次に鼻を突き抜ける鉄の臭い。罠に残された鹿の足から、山奥の茂みに引きずられている跡があることに気付き、愕然とした。
最悪の状況だ。罠を仕掛けている際に、念入りに縄張りは確認した。やはり活動範囲を広げていたのだ。
食物連鎖の頂点に君臨する熊だ。突如現れた輩に警戒をありありと膨らませて、唸っている。いまここで迂闊に動けば、目の前の熊は容易く襲いかかってくる。そう悟った。
おそらく獲物の血を辿ってきて、ここまできたのだが、既に獲物は獲られていたのだろう。獲物が消え去っていることに、気が立っているのかもしれない。険しい形相で低く脅すように、こちらに首を動かしている。口のまわりから、湿った音が聞こえて来て、震えそうになる腕を必死に抑えた。
刺激を与えないように、静かにしているべきだ。少しでも動けば、死ぬ。そこまで考えながら、鳩子は微動だにせずそこに立ち止まった。
ここが分かれ目だった。このまま後ずさっていけば良かったのか、それとも諸手を上げて威嚇をすれば良かったのか。じりじりと迫って来る熊に、背筋が凍り付いていく。冷えきった指は急速に力を無くしていく。指がカタリと震えて手籠に入っていた罠がすり抜けていった。
地面に向かってそれは落ちていき、コン、と硬質な音が響く。それがいらぬ刺激を与えたのか。それに気をとられて、一瞬だけ眼を離したのが悪かったのか。目線を小さく地面に落とした刹那、体中に泡立つような風を感じて、瞬時に熊を見た。生温い息が顔中に吹きかかり、肩に激痛に走る。身体が地面へと倒れていく。
熱さと痛みの感覚は同じらしい。背筋に勢いよく熱湯が駆け上がっていくようだった。あまりの衝撃に、目の前を白い火花が散った。声が出ないほどの驚愕に、息も出来ない。
ゆったりと、跳ね上がった腕が視界に映る。執拗に前足を振り上げ、身体を切り裂いてく熊の顔が掠れた視界を埋め尽くす。まるで耳の奥に心臓があるかのようにやけに大きく鼓動が響く。熊の腕が振り上がり、腹部に鋭い痛みが走ったかという瞬間に、意識は敢えなく途絶えた。
***
式には身内と近所の人間が十数人ほど集まった。遺影も遺体もなく、ただ故人の名前に花を添えてあるだけの、簡素な葬式だった。人が集まるだけの葬式で、どこか異質な空気が漂っていても、式は滞りなく最後まで行われた。
「美子ちゃんとこのお母さん、遺体見つかんなかったって」
「山に住んでたもんねぇ」
「熊に食われたんだとよ。むごいことだなぁ」
「美子ちゃんは父親も幼い頃に亡くして ……まだ若いのに、可哀想になぁ」
「でも、美子ちゃんのお母さん、お金使わず暮らしてたから、遺産が沢山入ったって」
「ああそれなら、美子ちゃんも少しは楽になるなぁ」
黒い喪服に身を包んだ人間たちでの、慎ましやかな葬式だった。故人とその家族の話題に包まれた葬式場で、妙齢の女性は子供の頭に手を乗せて撫でた。その手に動揺はなく、その目に涙は光っていなかった。
子供はただ不安そうに、女性の喪服を握りしめるばかりで、なにも言えなかった。
「あの人は、結局こんなことしかしないのね」
女性は無感動な顔の通りに頑な声を呟いた。子供の撫でる手のもう片方で、自分名義の通帳を握りしめる。通帳に皺が寄り、カタリと細い指が震えた。
「勝手な人」
子供は女性の吐き捨てたその言葉に、一度だけ連れられていった山にある小屋を思い浮かべた。そこで紹介されたどこか固い雰囲気の女性に、子供は挨拶されたのだが、怖くて自分の母親の背中に隠れてしまったのだ。
ふと思い当たって、子供は葬式場の最奥部に置かれた故人の名前を見た。
「ばあさま」
すすり泣く声も、故人の名前も呼ぶ人は無く、ぽつぽつと集まった人間は、気付くごとに減っていった。葬式は、静かにはじまり、静かに終わった。ただその子供だけは小さく自分の祖母を呼んだ。
木下鳩子。熊に襲われて死亡。齢55歳のことだった。