Letters
どれだけの涙、どれだけの嗚咽を以ってすればこの痛みは癒えるのか。
そんなことを思う最中も涙は、嗚咽は止まらない。
涙というものは、いったい何をこの体から出そうとするものなのか・・・この体には何も無いのに。
あの人が満たしていたものは全て持ち去られた。
「さよなら」
その一言があまりにも強い力を持っていて・・・。
わたしは何も言えず・・・頷くことも、あの人の最後の後姿を見送ることすらできなくて・・・。
「あ・・・やだ・・・」
目覚めて気づいたことは、自分が涙を流していたことだった。
いつものように夢の内容は靄がかかったかのようにおぼろげであったが、予想はつく。
あのときの夢・・・三年付き合った孝司との別れの場面。
もうあの瞬間から随分・・・約一年近くが過ぎていた。
突然別れを告げられたあのころは寝ても覚めても泣いていた。
『何故』を繰り返し、自分の中の彼にふさわしくなかった部分を探していた。
・・・あまりにも多くて余計に泣けた・・・。
最近ではもうあまり思い出すことも無かったのに・・・。
ぐしゅ・・・
枕元に置いたティッシュで涙を拭き、鼻をかむ。
少し目元が痛かった。
強く拭いすぎた。
孝司はわたしよりも三歳年上だった。
出会った当時大学生だったわたしにはとても大人びて見え、憧れると同時にある種の嫉妬も覚えた。
彼は幼稚園の保父をしていた。
それだけに優しく笑う時にできる笑い皺がとても印象的だった。
冴えない眼鏡をかけ、美男子という顔立ちではなかったが、人当たりのよさそうな人だな、と思ったのを覚えている。
「・・・なんだか早く目が覚めちゃったなぁ・・・」
枕元、ティッシュの箱の横に置いてあるアラーム機能付きの時計を見て呟く。
時計は朝の9時を指していた。
今日は休日。
彼との出会いから約四年、わたしは平凡な会社の、平凡なОLをしている。
今日は昼まで寝て、のんびりしようと決めていたのに予定よりも三時間あまり早く目が覚めてしまった。
孝司のせいだ。
などと冗談めいた考えが浮かぶようになった自分が少し可笑しかった。
ベッドと平行する形で部屋の対面にあるテレビの電源をリモコンで入れる。
リモコンの置き場所ももちろん枕元。
わたしはついついよく使うものを手元に置いてしまう。
おまえの周りは地雷原みたいだな、と言って苦笑した孝司を思い出す。
あれは確か気づかず座って、CDコンポのスイッチを入れてしまったときだったっけ。
テレビはニュース番組の時間帯。
ふぁ・・・
誰も見ていないことをいいことに、盛大にあくびをし、伸びをする。
左耳から右耳へ抜けていくニュース。
ベッドから下り、冷蔵庫へ向かう。
ひんやりとしたフローリング床の感触が、寝ぼけて体温の高い体には気持ちよかった。
冷蔵庫を開け、野菜ジュースのペットボトルを取り出す。
キャップを開け、そのまま飲む。
男前な飲み方すんな、と明るく笑った孝司を思い出す。
『・・・なんで孝司のことばっかり思い出すかな、今日は・・・』
私は苦笑する。
夢見が悪い、とはこのことだ。
食道を滑り落ちた冷たい液体が胃に達する。
「お腹空いた・・・」
起きてすぐ食欲を感じるのは珍しいと言われたことがある。
本当に珍しいのかどうかはわたしにはわからない。
わたしは小さいころからこうだったから。
『おまえは食欲魔人だ』
記憶がよみがえる。
『・・・孝司め・・・ほかに言いようってものがあるでしょうが・・・!』
とりあえずインスタントのスープを飲もうと、小さなヤカンに水を入れ、火にかける。
ちちちち・・・ぼっ!
いつも思うが、この電気着火式のコンロは好きじゃない。
点火までの音がなぜか気に入らない。
ベッドまで戻って腰掛ける。
自分の膝に肘をついてテレビを眺める。
知り合ったきっかけはほんの些細なものだった。
授業を一つ二つサボって帰っていたときのこと、彼が勤める保育園の前を通りがかったのだ。
無邪気に遊ぶ子供たち。
その中で鬼ごっこの鬼役だったのか、追い掛け回す彼の姿があった。
もちろん本気ではない。
子供たちが捕まるか捕まらないかを見極め、適度な速さで追いかけていた。
その姿になんとなく目を奪われた。
『この人・・・自分が子供みたい』
弾けるような笑みを浮かべるその表情は、周囲の子供たちと同種の無邪気さが見てとれた。
ふと目が合う。
その瞬間、わたしはきっと彼に恋してしまったんだろう。
そこには『大人の男の笑み』を浮かべる彼がいた。
『子供、お好きなんですか?』
明らかに先ほどまでと違う表情、でもそれは嘘とか取り繕ったものではなく、人を安心させる笑顔だった。
薄い唇、高くも低くも無い鼻、そこに乗る黒縁の眼鏡。
何もかも平凡なはずなのに、わたしの心臓は高鳴った。
ピィィィィィ!
びくっと自分の体が震えるのがわかった。
ヤカンが湯が沸いたことを知らせる音を立てただけだったのに、遠い過去まで意識が飛んでいたわたしには少し刺激が強すぎだ。
どっ・・・どっ・・・どっ・・・
耳元で鼓動が聞こえる。
『驚きすぎだよ、自分・・・』
苦笑しながら火を止め、スープカップとインスタントスープの子袋を用意する。
しゅわ・・・
ヤカンの内部にお湯が触れて小さく音を立てる。
粉末スープを入れたスープカップにお湯を注ぎ入れ、スプーンでかき回しながら再びベッドまで戻る。
陶器のカップと金属のスプーンがこすれる特有の音がワンルームの部屋に響く。
この音はなんとなく落ち着く気がする。
そう言うと孝司は、
『そりゃ食い物にありつけた安心感だな』
と笑った。
まったく失礼な話だ。
最初の出会いから、わたしはしばらくその保育園へ足を運んだ。
彼と子供が遊んでいる時間を選んで。
・・・その結果・・・同じ時間に行われた講義は軒並み単位を落としたが・・・まぁ、それは卒業した今、もう時効だ。
なんとなく幸せな気持ちになれた。
わたしにもあの子供たちくらいの年のときには、お気に入りの保父さんがいたことを思い出して。
初老くらいの年齢で、おんぶをせがんでは腰痛の種になっていた。
いつものように孝司はわたしに気づいて、声をかけてくる。
そんな様子を見て、一部のませた子供たちが野次る。
その度に彼は顔を赤く染めていた。
名前も年齢もすでに知っていたわたしは、
『孝司おじちゃん借りるね?』
とその子供たちに言ってやる。
すると舌足らずな声で返してくるのだ。
『ごゆっくり〜』
と。
孝司は孝司で、
『おじちゃんはひどいな、由美ちゃん・・・』
って唇をへの字にしていた。
とにかく彼は表情が豊かだった。
ずぞ・・・
熱々のスープをすする。
お気に入りのコーンポタージュの優しい香りと味が広がる。
本当に今日は妙な日だ。
やたらと孝司のことを思い出す。
窓から見える空は、青八割、白二割。
天気はいい。
気温も秋口らしく、心地いい。
「よし、買い物行くか」
わたしはそう決意し、スープをすすった。
「ただいま、っと・・・」
家に帰り着くなり、わたしは荷物を床に放り出した。
買い過ぎてしまった。
二、三時間の買い物で五万円あまりを使った始末。
五つくらいの手提げ袋の中身を開けることもせず、ひとまず冷蔵庫を開ける。
野菜ジュースのキャップを開けたところで、
かたん・・・
ドアに備え付けの郵便受けに投函される音がした。
野菜ジュースをラッパ飲みしながら郵便受けの蓋を開ける。
そこには一つの封筒。
「だれからだろ?」
携帯電話でメールができるこのご時勢、手紙というのは珍しい。
私は不思議に思いながらも手にとる。
「・・・!!」
その薄茶色の封筒に記された名前に、わたしは体を強張らせた。
野菜ジュースのボトルを取り落としそうになるのを、なんとか防ぐのが精一杯だった。
『高島 有子』
その名はわたしにとって特別な名前だった。
孝司の・・・母親の名前だ。
急ぎ足でベッドと対面にある机へ向かう。
どん、と中身が跳ね上がるくらいの勢いで野菜ジュースのボトルを置き、鋏を手に取る。
封筒を光にすかし、中身を傷つけないように封を切る。
心臓が痛いほどに高鳴っている。
なぜ今になって彼の母親から手紙が送られてくるのか・・・まったく心当たりが無い。
耳元で響くうるさい鼓動を聞きつつ、封筒の中を見る。
そこには一枚の便箋と・・・もう一回り小さい、無地の封筒。
「また、封筒・・・?」
首をひねりながらその封筒を見つつ、わたしはひとまず便箋の方を先に読むことに決めた。
二つ折りのそれを開く。
そこには年配の女性らしい、達筆な文字。
『拝啓、安田由美様』
そんな始まりだった。
『突然のお手紙、驚かれていることでしょう』
文章は続く。
『この度お手紙差し上げたのは、息子、孝司がわたくしのほうから、自分の手紙を貴女に送って欲しいとのことで、送らせていただきました』
そこまで読んで、手紙に触れる親指に違和感を感じた。
親指を離し、見てみると直径一センチほどのしみがある。
紙が波打っているところを見ると、どうやら水滴が落ちた痕のようだ。
『同封した封筒は孝司からの貴女への手紙です。どうぞお目通しください』
わたしは嫌な予感と共に、まだ言葉の続く孝司の母親からの手紙を放り出し、封筒から孝司からの手紙を取り出す。
呼吸が浅くなり、胸が苦しい。
その封筒は白かったようだが、少し色がくすんでいる。
先ほどのように中身を傷つけないように封を切る。
『由美、久しぶりだね』
孝司からの手紙はそんな軽い始まりからだった。
『俺から強引に別れてからどれくらいが経ったんだろう?
わからないけど・・・まぁ、久しぶり、なんだろうな。
突然の手紙に戸惑ったことだと思う。
でも落ち着いて聞いて・・・いや、読んでくれ』
ここから数行は空白だった。
『俺は今・・・病魔に侵されている』
数行のあと、そんな言葉が目に入った。
全身を冷たい震えが駆け抜けた。
総毛立つ、とでも表現されるのだろうか・・・鳥肌が立ち、髪の毛も逆立っているような感覚が生まれた。
『この病気、少々厄介で・・・治る見込みはほぼ無い、と医者に言われた』
先ほど潤したはずの喉はカラカラに渇き、
ゴクリ・・・
堅くなった唾液を飲み下す際には痛みすら覚えるほどだった。
『でもな、俺って諦め悪いだろう?
足掻いてみるつもりだ』
まるで孝司のへへへ、という笑い声が聞こえてきそうな、そんな文面。
『ついてないよな・・・“がん”だってさ。
由美はおじさんおじさんって言ってたけど、俺も若い部類に入るらしい。
進行がやたら早くて・・・見つかったときにはすでに末期に近かったそうだ』
震えは手紙に添えられた手に集まり、わたしは手紙を握りつぶしそうになった。
そんな馬鹿な・・・何かの冗談に違いない・・・そんな思いが頭を埋め尽くす。
だが・・・孝司の手紙はそれを真っ向から否定する。
『抗がん剤、っていうのか?強い薬を使うことになるそうだ。
テレビドラマとかで見るけど、あれって辛いらしいな・・・何が辛いって、この若さでハゲることかな?』
冗談めかした文面だが、確実に真実を書き連ねている。
わたしはわかった。
孝司はいつも受け止め切れないくらい辛い出来事をいつも冗談めかして言う。
それが癖だ、とわたしは知っていたのだ。
『頬もこけて死人みたいになるらしい・・・そんな姿、おまえには見せたくない。
だから俺はおまえと別れる。
・・・きっとおまえは俺を責めるだろう。
そんなことで、と・・・でもな・・・俺にとっては重要なことなんだ』
「ぅ・・・」
わたしの喉から声とも言えない奇妙な音が響いた。
駄目だ。
今泣いちゃ・・・手紙が読めなくなる。
わたしは痛みを感じるほど下唇を噛み締め、涙を、嗚咽を耐える。
孝司の手紙は数行空白が挟まれていた。
そして・・・
『この手紙は・・・母さんに託す。
・・・俺が死んだ後に、君に届けてもらうように・・・』
その一文がわたしの堰を切った。
「ぐっ・・・うっ・・・うぅ・・・!」
視界が滲む。
もれる嗚咽と共に体が震える。
手に感じる紙の感触が、どこか非現実的なものに変わる。
“死んだ後に”・・・それはつまり孝司がすでに他界してしまっていることを示していた。
その事実はあまりにも重過ぎる。
信じられない。
信じたくない。
でも・・・ただ涙が溢れる。
どうしようもなく溢れる。
とめどない涙で滲む世界の中、わたしはただ、泣き続けた。
とりあえず落ち着いたそのときにはすでに夜。
夕食の時間なのか、周囲の家々から食べ物の匂いが漂い始めた。
涙を手のひらで拭う。
そして過剰に力をこめてしまったために、皺のよった孝司の手紙を封筒に戻す。
やたらと丁寧に。
皺を伸ばし、折り目を正確になぞって折り直し・・・。
まるで封を切る前の状態に戻した封筒を置いたとき、
ぐぅぅ・・・
わたしのお腹が突然鳴る。
その音にわたしは動きを止める。
きゅぅ・・・
自分のお腹を見下ろしていると、さらに音が続いた。
「は・・・ははは・・・」
笑いの衝動がこみ上げる。
「あははははははははは!」
わたしはその衝動を過剰に開放する。
何が可笑しいのか、自分にもわからない。
でも笑う。
ただ笑う。
こすりすぎた目元に鈍い痛みが走るが、そんなことも無視する。
しばらく笑った後、
「ほんとだね。わたしは食欲魔人だ」
苦笑して孝司の手紙に向かって呟く。
ふと。
また涙がじわり、と染み出てくる。
涙腺まではっきりと感じられる気がする。
あぁ・・・涙ってなんて痛いんだろう。
わたしは耐えられず手紙から視線をそらす。
そして両目を左手で覆い、天井を仰ぐ。
黒い影で覆われた視界に、人影が浮かぶ。
その人物は笑顔でわたしにこう語りかける。
『飯食いに行こう。おまえの好きなものを、たらふく、な』
あぁ・・・あぁ・・・なんてなんて・・・魅力的。
今ここで、ここでわたしにそう囁いて。
孝司、孝司・・・わたしはここに居るから。
変わらず居るから・・・!
両目を覆う左手に力をこめても涙は止まってくれない。
手と頬の間に染み渡り、なおも溢れ・・・頬を伝う。
噛み締めた唇をこじ開けて嗚咽が漏れる。
止まらない。
止められない。
何かに押しつぶされるように膝が折れる。
ごっ・・・
フローリングが膝とぶつかって鈍い音を立てる。
膝から伝わる痛みですら、今のわたしからは『遠かった』。
「ああああああ!!」
唇が大きく開き、意味を成さぬ・・・いや、ただひたすらの悲しみをこめた声が溢れ出した。
目を押さえていた左手がずるり、と滑り落ちる。
目の周りと頬、そして左掌が冷たい。
そんなことを呑気に感じている自分と、ただ泣き叫ぶ自分とに分かれている。
「なんで・・・!なんで・・・!なんで・・・っ!」
なんであなたじゃなきゃいけないの・・・!!
あなたじゃなくてもよかったじゃない!
他の誰かでも・・・!
そう・・・わたしでもよかった!
両手で頭を掴む。
そしてかきむしる。
数回で爪で皮膚が破れる感触。
痛い。
痛いけど・・・足りない。
この・・・この悲しみを隠すにはまだまだ足りない。
誰か、誰かこの悲しみを隠して・・・!
この辛さを・・・消して・・・!
「うぅ・・・ぅ・・・」
嗚咽の苛烈さは消え、喉の奥からゆっくりと息がせり上がってきた。
かきむしった頭よりも胸が痛い。
わたしは無意識に両手で胸を押さえた。
鼓動が強く、速く、わたしの手を叩く。
生きている、証。
孝司の心臓は今ごろ・・・。
そう思うとこのままこの心臓を握りつぶしたくなる。
彼と同じになって・・・そして・・・。
ごん!
わたしは胸を押さえたまま床に上体を倒し、額を打ち付けた。
額から伝わる無機質の冷たさ。
そして耳の後ろまで痺れるような痛み。
「冷たい・・・痛い・・・」
わたしは感じたまま呟いた。
うん、感じる。
感じる。
「生きてるから、だよね・・・孝司」
その名を声にして呟いた瞬間。
再び涙が溢れた。
きゅぅ・・・
その言葉に答えたのは他でもない。
わたしの腹の虫だった。
「・・・はいはい・・・わたしはどうせ食欲魔人ですよ・・・」
溢れる涙もそのままに、わたしは笑顔を浮かべた。
涙の乾いた場所が、かすかにひきつった。
がむしゃらに食べた。
お腹が苦しい。
ぐしゅ・・・
料理と満腹感からの熱で鼻水が分泌される。
大量のそれを、垂れてくる寸前でティッシュで受け止める。
すびび・・・!
お世辞にも上品とはいえない音とともに力強く鼻をかむ。
・・・少し耳が痛くなった。
「ごちそうさま」
湿って丸まったティッシュを、黒いプラスチックのゴミ箱に投げ込んで呟く。
その声はさほど広くない部屋に散り散りになって響いた。
空いた食器もそのままに、ベッドに深く腰掛け、壁に背を預ける。
白い壁紙を浸透した冷たさがじんわりと広がっていく。
ふと、カーテンも閉めていない窓を見た。
見えるのは青を極限まで濃縮したような黒に沈む町並み。
そこに散らばって輝く電灯が星のように遠く感じた。
あの煌々と輝く電灯の下に無数の人が居る。
・・・でも、こんな気持ちの人が一体何人いるんだろう?
「ん・・・」
鼻の奥がつん、となる感覚を覚え、素早く目頭を指で押さえる。
また涙腺を通って溢れ出そうとする涙を先回りして止めてやった。
親指と人差し指で目頭を押さえたままの姿勢で、深い呼吸を数回。
涙はなんとかそこで留まった。
視線を上げ、再び窓を見る。
今度は遠くの光よりも先に人影が映った。
黒を背にした、窓の姿見。
そこに映る自分の姿のなんと頼りないことか・・・。
「なんて顔・・・してるんだろうね・・・」
そっと目の下の皮膚を指先でなぞる。
指から伝わる熱っぽさ、皮膚から伝わるひりついた痛み。
『おまえって泣き顔不細工だな』
そんな風に言われたのはいつだったか・・・わたしのお気に入りの感動系の映画のビデオを借りてきて一緒に見たときだったか。
酷い言い草に怒るわたしに慌てて、
『だから、いつも笑ってろよ』
ちょっと困った笑顔でそう続けた。
『俺はおまえの、由美の笑顔を見ていたいよ。ずっとな』
詰め寄る動きを止めたわたしにさらに続けて言った。
そんなくさいセリフにわたしは思いっきり赤面してしまった。
そしたら・・・
『乙女みたいに真っ赤になったな』
鬼の首を取ったような笑顔でわたしの頭を優しく叩いたんだ。
薄い唇から覗く白い歯が、妙に眩しかった。
かと思えば・・・
『・・・なんか、プロポーズみたいだったな・・・!』
自分で言ったセリフで照れて、慌てて・・・。
わたしはなんだか幸せで、嬉しくて・・・
『馬鹿じゃないの?』
そんな憎まれ口しか返せなかった。
今度は先回りも何も無かった。
唐突に、急激に、大量に・・・吹き出すように涙が溢れた。
「馬鹿・・・ずるいよ・・・こんなにたくさん・・・」
わたしは想いを『音』に変える。
「こんなにたくさんの思い出・・・どうしろって言うのよ・・・!」
届くかな?
届くわけないかな・・・?
届いたって困るか・・・。
「孝司・・・会いたい。会いたいよ・・・」
あの人を食ったような笑顔、あの顔をくしゃくしゃにする子供みたいな笑顔、あの目尻を下げた優しい笑顔・・・。
記憶の中の孝司は笑顔が多い。
人に笑っていろと言うだけのことはある。
『会いたいから来たに決まってるだろ?』
不意に甦る言葉が一つ。
季節はそう・・・冬。
急な仕事でクリスマスを一緒に過ごすことができなくて・・・でも深夜に突然部屋の呼び鈴が鳴ったんだ。
半分雪だるまみたいになってたね。
三時間バイクを飛ばした、って言ってがちがちに冷えた身体で抱きついてきて・・・
『メリークリスマス』
なんて・・・こっちはパジャマ濡らされた上に睡眠時間まで削られたってのに・・・喜んじゃったじゃないか・・・。
「うん、そうだ・・・」
ぽつり、と声がまた部屋に散りながら響いた。
「会いたいなら会いに行けばいいんだね・・・」
その声は部屋ではなく、わたしの中に力強く響いた。
窓に映る小さな人影は微笑を浮かべていた。
深い、深い一礼。
言葉はなく、どこかぎこちない時間が数十秒流れた。
「ご無沙汰、しております」
蝶番の錆びた扉を開ける、そんな気分だった。
驚きで目を見開いて、一礼を返してきたのは女性。
年のころは六十代・・・だったはずだが、その年齢よりも老けたような印象を受けた。
以前対面したときには緊張や先行したイメージがあってそうだったのかもしれないが、もっと明るくて大きくてしっかりしていたように思う。
髪の毛ももっと艶があり、黒かったはずだ。
「いらっしゃい、由美さん・・・」
声ももっと・・・あぁ・・・張りがあったはずなのに。
わたしを迎えてくれたのは高島有子さん。
わたしに手紙を送ってくれた、孝司の母親だった。
目を細め、どこかわたしを眩しそうに見つめるその目は・・・まぶたが少し腫れ、充血していた。
きっと・・・わたし以上に涙を流したのだろう。
突然の訪問だったにもかかわらず、玄関先の掃除を中断してわたしを家の中へ案内してくれた。
古い時代を思わせる、落ち着いた雰囲気の玄関。
だが、わたしの心臓は落ち着いてなど居なかった。
今にも逃げ出したくなる気持ちと・・・お母様を押しのけてでも駆け込みたい気持ち。
以前・・・そう孝司と付き合い始めて二年目の年始のご挨拶だっただろうか・・・訪れたときもこんな風に気持ちがざわめいていた。
もっとも、抱える気持ちも事情も全くの別物で・・・一番大きな違いは・・・
『誰も取って食いやしないよ』
そんな風に茶化すように言って、その笑顔で緊張をほぐしてくれた者が居ないこと。
ぐ・・・
唇を噛み締める。
鼻の奥がつん、となる。
「お邪魔します・・・」
先に靴を脱いで上がったお母様の背にとも凛と静まる家の空気にともなく声をかけ、靴を脱ぐ。
なんて静か・・・。
静寂がまるでこの身を締め付けてくるような感覚を覚えながら靴をそろえる。
ふと、足が止まった。
土間の脇に備え付けられた大き目の靴箱の上に置かれた・・・写真立て。
きっと長い間使ってきたのだろう、木製のそれはニスの色に深みがあった。
つい、眺めてしまった。
想像をしてしまった。
『伏せられた』その写真立てにどんな写真がはめ込まれているのか、と。
「こちらへどうぞ」
ゆっくりと押し出すような、穏やかな声で我に返った。
穏やか・・・違う。
弱い・・・。
二年前、お母様はもっと・・・そう、まるで撃ち出すように元気に話されていた。
二周り半ほどの年齢差を感じないくらいに元気に。
案内されるままに居間に通じる敷居をまたぐ。
刹那。
わたしの鼻腔に、玄関からここまでずっと漂っていた匂いがより強く届いた。
小さいころ祖母の家に遊びに行ったとき以来、どうにも苦手だった匂い。
線香の匂い。
どっ・・・
遠くから響いた鈍い音。
それが左手に持っていたバッグが落下した音だと分かったのは、無意識に両手で胸を押さえた後だった。
古くはあったが艶があり、黒く・・・そして金で装飾を施された、箪笥大の家具。
仏壇。
そこに並ぶ数枚の写真のうちの一枚。
新しい、真新しい写真。
「孝司・・・!」
わたしはなんて浅はかだったんだろう。
『会いたいから』なんて・・・なんて早まったことを思ってしまったんだろう。
そこには孝司の、少しはにかんだ笑顔があった。
・・・白黒の。
・・・小さな。
細い息が震える唇をこじ開けて体内から抜けていく。
『孝司・・・!』
その呼びかけは声にはならず、わたしはただひたすらに息を吐き続けた。
やがて・・・肺の中が空になり、大きく息を吸い込んだ。
胸が押し上げられるように膨らんでいく感覚と同時に・・・涙が湧き出した。
涙腺が押し広げられてゆく感覚・・・繰り返し過ぎたその刺激はすでに痛み。
孝司は死んだ。
そんなこと、あの手紙で分かっていたはずなのに・・・今更に実感した。
胸を押さえる手に力が篭る。
死んだ・・・そう、死んだ。
その事実の重さに膝が崩れた。
フローリングより柔らかな畳が膝を受け止める。
「由美さん・・・!?」
お母様の驚いた声。
それすらどこか遠い。
泣き声すら出ない。
苦しい。
「由美さん・・・」
お母様がそっとわたしの身体を抱きしめる。
その優しい感覚に、崩れるようにお母様の腕の中へ飛び込んだ。
わたしは事実というものの重みを甘く見ていた。
これほどまで鮮明に実感させられて初めてわかった。
事実とは、どれほどの力を振り絞ったとしても当事者には動かせない岩のようなものだと。
その大きさと重さを勘違いしてぶつかればとんでもない痛手を負う。
と、
ぽた・・・
わたしの頬に何か液体が落ちてきた。
涙にかすむ目を凝らし、見上げてみれば・・・お母様も泣いていた。
歯を食いしばり、嗚咽をかみ殺しているその表情は見ているこちらの胸をさらに強く締め付けた。
「ごめんなさい・・・」
突如その口から出た言葉に驚いた。
「ごめんなさい・・・あの子を、孝司を病気をしない体に産んであげられなくてごめんなさい・・・」
お母様の体から、ぬくもりと同時に震えが伝わる。
あぁ・・・この人もまた、自分を責めていたのだ。
先天性の病気ならともかく、後天的な病気などどうしようもないのに・・・自分を責めて・・・。
「それは違います。違います、お母様・・・お母様のせいじゃないです・・・」
わたしはやっとの思いで震える唇から言葉を紡ぎ出す。
「違いますよ・・・!」
わたしはお母様の身体を抱きしめ返す。
お母様の腕にもさらに力が篭る。
「ごめん、ごめんね、孝司・・・ごめんなさい、由美さん・・・」
謝罪の言葉は止まらない。
「違います・・・違います・・・」
その言葉にわたしの涙もまた、止まらない。
わたしたちは抱き合った姿勢のまま、しばらく泣いた。
謝罪と否定の言葉を繰り返しながら・・・。
こと・・・
小さな音とともに湯気をあげる茶碗が卓袱台に置かれる。
「ありがとうございます」
礼を述べてからそれを手に取る。
口元まで運ぶと、立ち上った湯気が、泣き腫らした目に心地よく届いた。
少量すすって、戻す。
そこでふとお母様と視線が合う。
挨拶もそこそこに突然泣き出してしまった手前、少し恥ずかしく思った。
「由美さん、この度は孝司がご迷惑をおかけいたしまして・・・」
お母様はわずかにくちごもりながらそう言って頭を下げた。
その顔は、篭る感情が多すぎて無表情に見えた。
「いえ・・・そんなことは・・・わたしの方こそ突然の訪問、失礼しました」
わたしも慌てて頭を下げる。
「いえいえそんな・・・どうぞ顔を上げてくださ・・・」
さらに慌てたお母様が言いかけ・・・言葉を止めた。
そして、
「ふふ・・・」
小さく笑った。
一瞬どうしたのか、と思ったが・・・
「ふふふふふ・・・」
わたしも笑ってしまった。
「何年前になるんでしょうかね・・・あなたが初めてうちにいらっしゃったときもこんなやり取りをしましたね」
お母様が懐かしそうに言い、笑みを深くした。
笑い皺が・・・以前より深かった。
「ええ、そしたら孝司・・・あ。孝司さんが・・・」
二人のときの癖で呼び捨てにしそうになって慌てて言い直す。
「何二人でへこへこ頭下げあってるんだよ、って」
あのときの孝司の盛大な笑い声は鮮明に記憶に残っている。
「ええ、本当にあの子は・・・親も由美さんも馬鹿にして・・・」
嫌な子ね、と言いながらもお母様の表情は先ほどと打って変わって明るくなっていた。
自然とわたしたちの視線は、仏壇の孝司の写真に送られた。
「・・・父を早くに亡くしたあの子はそれはもう、よくしてくれました」
数瞬の沈黙の後、ぽつり、と呟くようにお母様が口を開いた。
「その頑張りが・・・あの子の寿命を縮めたかもしれない、なんて考えたりもしてしまいます」
わたしも孝司の写真を見ていて、お母様の表情は見えなかったが、唇を噛み締めているのはわかる。
「・・・なんでもあの子の死に、つなげてしまいますね・・・」
なぜならわたしも必死に唇を噛み締めていたから。
「孝司の死は・・・誰のせいでもないですよ・・・」
言ってしまってから、呼び捨てにしてしまっていたのに気づいた。
だがわたしはそのまま言葉を繋げた。
「孝司は言ってました。母さんは俺の誇りだって。あの人が居たから俺はここまで生きてこれたんだ」
再び唇を噛み締める。
「女手一つで俺を育てることにどれだけの苦労があったか・・・働くようになってみてようやく少しわかってきた。まだまだ孝行し足りないよ、って」
わたしの後ろで小さなうめき声が生まれた。
押し殺した、嗚咽。
わたしはあえて視線を孝司の写真に向けたまま、話す。
「ですからどうかご自分を責めないでください。孝司はお母様に感謝はしても、恨んだりはしない人間でしたから」
でした、そう過去形で言った後・・・結局わたしも堪えきれなくなった。
耐えようとすればするほど、意思に反して涙がこぼれた。
頬を伝って涙が食いしばった唇まで届く。
それはじんわりとしみこんで・・・塩味を口の中に広がらせた。
「わたしも、お母様に感謝しています」
大きく息を吸って言う。
これだけははっきりとした言葉で言いたい。
伝えたい。
「わたしを孝司に逢わせてくれました。あなたが彼を産んでくれたから。あなたが彼を育ててくれたから・・・」
おかげでわたしは幸せを味わえた。
人を愛する喜びを、人に愛される喜びを。
大きな大きな喜びを。
それは何物にも代えられない素敵なもの。
「ありがとう・・・ありがとう、由美さん・・・」
嗚咽交じりのお母様の声。
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます。お母様・・・」
嗚咽交じりのわたしの声。
『ありがとうな』
それは些細なことだった。
疲れた様子の孝司に、
『頑張ってるのはちゃんとわたしが見てるよ』
って言ったときのこと。
実際彼が頑張っていたのは知っていたし、その部分である種の尊敬の念も持っていた。
だから、わたしには些細なこと。
でも彼は、
『由美がわかっていてくれるなら、俺はもっと頑張れる。だから、ありがとう』
そんな風に言って、優しく笑った。
そして続けたんだ。
『人って・・・何かや誰かに感謝するために生きてるんだろうな。だって、ありがとうって言うとこんなに優しい気持ちになれるんだから』
って。
うん、今ならわかる。
わかるよ、孝司。
できるなら・・・あなたが生きている間にわかりたかった。
あなたに逢えた事、あなたがくれたこの気持ち・・・ありがとう。
「ありがとう、ございます・・・」
わたしはもう一度、笑顔でそう言った。
帰り道は厚い雲に覆われていた。
けれど不思議と暗い気分ではなかった。
いつだってあの雲の向こうには青い空がある。
「孝司、あなたに逢えて・・・よかったよ」
わたしはその雲を見上げて微笑んだ。
あなたは『そこ』にいるのだろうか?
・・・いてもいなくてもいいや。
だけど、この声だけは届くといいな。
「今でも、あなたを・・・愛しているよ」
そっと呟いたその言葉は、突然落ちてきた大量の雨粒にまぎれた。
わたしの髪に、顔に、身体に降り注ぐ、雨。
「それが返事か・・・ばかっ!」
わたしは笑いながら全身に雨を受け、雲に向かって思いっきり舌を出してやった。
悲しい思い出は誰にもあるもの。
けれど、人はそれを抱えて生きていく。
いつか忘れる時もくるだろう。
しかし心のどこかに、それは記憶とは違った形で残っていく。
そういうものだと、私は思います。