竜便配達員の少女は、百年前に出された手紙を届ける
アステリア王国には、竜便という仕事がある。
人の足では何日もかかる場所へ、飛竜に乗って手紙や小さな荷物を届ける仕事だ。
二十一歳のフィアは、その竜便で働いて三年になる。
相棒は、白い飛竜のルル。
少し食いしんぼうで、雨がきらいで、でも空を飛ぶ速さだけはだれにも負けない。
「今日も頼むよ、ルル」
「きゅる」
朝の王都セレスティア。
竜便中央局の発着塔で、フィアはルルの背中に荷物を積んでいた。
今日の配達は七通。
どれも王都の西側にある町や村へ届けるものだ。
「これで全部かな」
そう言って袋を閉じようとした時、後ろから声がした。
「フィア、待ってくれ」
振り返ると、年配の局員が小走りでやってきた。
手には一通の古い手紙を持っている。
「これも頼みたい」
「追加ですか?」
「ああ。ただし、少し変わった手紙でな」
フィアは受け取った。
紙は黄ばんでいた。
封の部分も古い。
宛先には、こう書かれている。
『西の森、石の谷に住む青竜セイルへ』
「……竜あて?」
「そうだ」
「差出人は?」
裏を見る。
『エルド・ハイン』
知らない名前だった。
「いつの手紙ですか?」
「百年前だ」
フィアは顔を上げた。
「百年前?」
「倉庫の整理中に見つかった」
「そんなに昔の手紙が?」
「昔の竜便局は、今ほどきちんとしていなかったらしい。古い箱の底にはさまっていたそうだ」
フィアは手紙を見つめた。
「でも、百年前ですよ」
「竜なら生きているかもしれない」
「人は?」
「たぶんな」
その言い方でわかった。
差出人のエルドは、もう生きていない可能性が高い。
「届けるんですか」
「手紙は届いてこそ手紙だ」
局員は言った。
「もしセイルという竜がまだ石の谷にいるなら、渡してやってくれ」
フィアは少し迷ったあと、うなずいた。
「わかりました」
午前中の配達は順調だった。
町の薬屋。
小さな村の役場。
農場。
街道沿いの宿。
七通すべてを届け終えるころには、太陽が高くなっていた。
「さて」
フィアは地図を広げた。
「最後が石の谷」
王都から西へさらに飛んだ先。
森の中にある古い谷だ。
今はほとんど人が近づかない。
「行けそう?」
「きゅる!」
「元気だね」
ルルは翼を広げた。
二人はまた空へ上がった。
石の谷へ着いたのは、昼を少しすぎたころだった。
谷は静かだった。
高い岩の間に細い川が流れている。
人の家は一つもない。
「セイルー!」
フィアは大きな声で呼んだ。
返事はない。
「青竜のセイルさーん!」
また呼ぶ。
しばらくして、岩山の奥から低い声がした。
『うるさい』
フィアはびくっとした。
大きな岩のかげから、青い竜が姿を見せた。
体は大きい。
けれど動きはゆっくりしている。
うろこの一部は白くなっていた。
「セイルさんですか?」
『そうだが』
「竜便です」
『今さら何の用だ』
フィアは古い手紙を取り出した。
「お手紙です」
『私に?』
「はい」
『だれからだ』
「エルド・ハインさんという方から」
その名を聞いた瞬間、セイルの目が大きく開いた。
『……何だと』
「エルド・ハインさんです」
『その名を、どこで聞いた』
「手紙に書いてあります」
フィアはそっと差し出した。
「百年前に出された手紙です」
セイルは動かなかった。
長い間、手紙だけを見つめていた。
『百年』
「はい」
『今になって?』
「倉庫から見つかりました」
フィアは頭を下げた。
「とても遅くなってしまって、すみません」
セイルは何も言わなかった。
やがて大きな前足を動かした。
『そこへ置け』
フィアは平らな石の上へ手紙を置いた。
セイルはそれをじっと見つめた。
『私は、人の文字が読めぬ』
「え?」
『昔から苦手だ』
フィアは少し困った。
「読んでもいいですか?」
『……頼む』
フィアは手紙を手に取った。
古い封を、できるだけていねいに開く。
中には一枚の紙が入っていた。
文字は少しかすれている。
それでも読めた。
「では、読みますね」
セイルは黙っていた。
フィアはゆっくり読み始めた。
「セイルへ」
最初の一行。
それだけで、セイルの顔が少し動いた。
「この手紙を読むころ、私はもう西の町にはいないと思う」
フィアは続ける。
「南の港へ行くことにした。ずっと話していた船大工の仕事を、やっとやってみる」
セイルは目を閉じた。
「お前は、また失敗するぞと言うだろう。でも、失敗してもいいと思えるようになったのは、お前のおかげだ」
フィアは一度、息を入れた。
「十八の時、森で道に迷った私を助けてくれたこと。二十の時、父とけんかして家を飛び出した私を一晩だけ谷に置いてくれたこと。二十五の時、結婚を迷っていた私に、好きなら行けと言ったこと」
フィアは思わず少し笑った。
「セイルさん、ずいぶん相談されていたんですね」
『あいつはよくしゃべる人間だった』
その声は、さっきよりやわらかかった。
フィアは手紙へ目を戻す。
「私は、お前よりずっと早く年を取る。たぶん、お前が少し昼寝をしている間に、私はおじいさんになる」
セイルが鼻を鳴らした。
『あいつらしい』
「だから、いつか会えなくなる前に言っておく」
フィアは次の一文を読んだ。
「友達になってくれて、ありがとう」
谷が静かになった。
川の音だけが聞こえる。
フィアは続きを読んだ。
「いつかまた谷へ行く。南の海で見たものを全部話す。その時は、前みたいに魚を一匹くらい分けてくれ」
最後には、こう書かれていた。
「では、またな。エルド」
フィアは紙を下ろした。
「……以上です」
セイルは何も言わなかった。
フィアも、しばらく黙っていた。
やがてセイルが聞いた。
『エルドは、いつ死んだ』
「わかりません」
『調べられるか』
「たぶん」
『頼む』
「はい」
フィアはすぐに返事をした。
王都へ戻ったその日の夕方。
フィアは竜便局の古い記録を調べた。
エルド・ハイン。
南の港町。
船大工。
時間はかかったが、記録は残っていた。
エルドは南の港で船大工になった。
結婚し、三人の子どもを育てた。
七十二歳で亡くなっていた。
今から五十二年前。
そのことを知ったフィアは、次の日、また石の谷へ向かった。
「そうか」
話を聞いたセイルは、短く言った。
「南の港で、ちゃんと船大工になったみたいです」
『そうか』
「家族もいたそうです」
『そうか』
セイルはそれだけ言った。
フィアは何を言えばいいのかわからなかった。
人間なら、五十二年前に死んだ友人のことを今日知るなんてことは、ほとんどない。
でも竜にはある。
長く生きるということは、たくさんの人を見送るということでもある。
「セイルさん」
『何だ』
「手紙、遅すぎましたよね」
セイルは少し考えた。
『そうだな』
「すみません」
『なぜお前があやまる』
「竜便の人間なので」
『百年前、お前は生まれていないだろう』
「それはそうですけど」
『なら、お前のせいではない』
セイルは手紙へ目を向けた。
『だが』
「はい」
『届かぬよりはよかった』
フィアは顔を上げた。
『私は、あいつが何も言わずに消えたと思っていた』
「……」
『人間は短い。少し待っているつもりが、十年になる。二十年になる。気がつけば、もう会えぬ』
セイルは静かに言った。
『私はずっと、あいつが私を忘れたのだと思っていた』
フィアは何も言えなかった。
『だが違った』
セイルの前には、百年前の手紙がある。
『それがわかっただけで十分だ』
帰ろうとした時、セイルが言った。
『待て』
「はい?」
『港は、どちらだ』
フィアは空を見る。
「ここからだと南です」
『遠いか』
「飛べば半日くらいです」
『そうか』
セイルはゆっくり立ち上がった。
「行くんですか?」
『あいつが見た海を見てみる』
大きな翼を広げる。
『百年も待った。今さら半日くらいどうということはない』
フィアは笑った。
「港の人をびっくりさせないでくださいね」
『考えておく』
「考えるだけですか」
セイルは大きく翼を動かした。
風が谷をぬける。
そして青い竜は、南の空へ飛び立った。
フィアとルルは、その姿を見送った。
「手紙って、すごいね」
「きゅる」
「百年たっても、ちゃんと届くんだ」
もちろん、本当はもっと早く届けるべきだった。
竜便の仕事としては、大失敗だ。
でも、遅すぎる手紙にも意味がある。
言えなかった言葉。
伝わらなかった気持ち。
もう会えない相手からの「ありがとう」。
それらを届けることができるなら、この仕事も悪くないとフィアは思った。
数日後。
竜便中央局に、一通の変わった手紙が届いた。
差出人は、南の港町に住む老人。
宛先は、石の谷の青竜セイル。
その老人は、エルドの孫だった。
港へ現れた青竜から祖父の名前を聞き、家に残っていた古い話とつながったらしい。
手紙には短く、こう書かれていた。
『祖父の友人へ。会いに来てくれて、ありがとう。今度は私たちが谷へ行きます』
フィアはその手紙を見て、笑った。
「ルル」
「きゅる?」
「また石の谷まで配達だよ」
白い飛竜が元気よく翼を広げる。
今度の手紙は、百年も待たせない。
竜と人が暮らすアステリア王国の空を、一人と一頭の配達員が飛んでいく。
だれかの言葉を、待っているだれかへ届けるために。




