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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

竪眼は泣いている

作者: たっこ
掲載日:2026/02/04

 まだ海が魔の領域であった時代。

 大陸を支配していたのは、華陽(ファヤン)という帝国だった。


 太陽を名乗るこの国は、無数の小国を従えていた。

 そして、北から迫る蛮族『(ほく)(てき)』を征伐することで、大国としての務めを果たしてきた。


 ところが、ある時。

 皇帝は、北征をやめると言い出した。

 「北の異民族と和睦を結ぼう」と。


 国は揺れた。

 第一皇子が怒り狂い、父を(しい)して、即位した。

 兵に人気の、庶出の王子だ。


 新帝がくだした最初の勅命は、二つ。


 一つは、今夏の大規模北征。

 いま一つは、父帝を惑わした妖魔の始末。


 二つ目の命令を任じられたのは、皇弟にして西梁(シーリャン)公国の主、(チェン)であった。





 即位祝いを終えて西梁に戻るなり、倩は城門前で深々とため息をついた。


(……あの土産さえ無ければ、よかったのに……)


 兄帝から賜った(こう)()には、妖魔が一匹。

 「父を惑わした元凶だ。始末せよ」と、命じられた。


 女の上半身に、(ふか)の尾。

 両腕は(ひぐま)のごとき太さ。

 髪かと思ったものは、肉の(ひだ)

 額の中央は(たて)に割れ、そこには真っ赤な眼が一つきり。


「……これが、『陵魚(リンユー)』か……」


 聞きしに勝る、おぞましの姿。

 倩は、刀を抜くことも忘れ、思わず後ずさった。


 『妖魔を斬れば、祟りを受けて、家が滅ぶ』。

 そんな言い伝えは、よく知っている。

 いくら皇帝の命令とはいえ、勘弁してほしかった。


 倩は結局、陵魚を牢に放り込んだ。


「水も餌もやらなければ、そのうち死ぬだろう」


 だが、四十九日が経過しても、陵魚は一向に弱らない。

 乾いた石の床の上で、じっとしている。

 鳴きもせず、身動きもしない。


「妖魔は、飢えでは死なぬのか……?

 どうしろというのだ、兄上は……」


 倩は、ひとり頭を抱えた。


 西梁の民は、華陽から来た『優しい婿殿』に期待している。

 万が一にも妖魔を斬って、祟りを受けるわけにはいかない。


 華陽の兄は、皇弟として、臣下として、務めを果たせと強いてくる。

 今さら「無理でした」などと言えようはずがない。


 息が詰まる思いだった。


 そんな中、北狄と通じたという寒村の噂が届き、皇帝は北征の規模をさらに拡大すると発表した。

 西梁は軍の中継地となる。

 城中に、兵たちがあふれることになる。


(まずい。

 陵魚がまだ生きていると知られれば……)


 西梁公国王が、皇帝の(みことのり)に背いた。

 そう評されれば、致命的だ。


 倩はあわてて、陵魚を牢から出し、秘密裏に城の地底湖へ運んだ。


(ここならば、誰にも見つかるまい)


 翡翠色の湖面に、赤い(じゅ)(がん)がぼんやりと光った。





 夏になった。

 即位後初の北征は、満を持しての親征だ。


 征伐軍が西梁の城に着き、歓待の宴が開かれた。

 兵たちは、勝ち戦を前に、大いに酒を煽る。

 官たちは、へりくだって盃を満たして回る。


 宴の最中、兄帝は倩に尋ねた。


「そなたに任せた妖魔の始末は、如何にした?」


(なます)に斬って、川に流して捨ててございます」


「ふむ。そうでなくてはな」


 帝はにやりと笑い、朱塗りの盃をぐいと干した。

 そして、手の甲で口元を拭った。

 わざとらしいほど粗野な仕草だった。


「王たるものに必要な資質は、剛毅さよ。

 父は柔弱だった。

 倩、そなたもそう思うだろう?」


 倩は無言で、ただかしこまって頭を下げた。


 兄は西梁に長居せず、兵站を整えるとすぐに発った。

 ひと月もしないうちに、北狄どもの拠点を二つと、内通していた村落を三つ滅ぼしたと、報が入った。


 凱旋する華陽軍は、槍先に朝敵の首級を掲げ、臣従国の町々を巡った。

 首の中には、村人のものも混じっていた。

 西梁の民は、無表情でそれを見送った。


「華陽に背いたなら、当然だ」


 平坦な声で、誰かが言った。

 哀れむ者は、誰もいなかった。





 かくして、北征は大成功に終わった。

 帝はすぐさま第二回を計画した。

 民は大いに期待を寄せた。


 その喧騒が落ち着いた頃、倩はふと、陵魚のことを思い出した。


(……あれから、どうしている?)


 夜更けに、倩はひとり、秘密の階段を降りた。


 白い岩壁に囲まれた鍾乳洞。

 その奥にある、翡翠色の湖。

 あれは、今もそこにいるはずだ。


 果たして、陵魚はいた。

 人の来訪を予期していたように、半身を岸に寄せ、待ち構えていた。


 倩はどきりとして立ち止まった。

 陵魚の額の竪眼からは、とめどなく涙が伝い落ちていた。


(なぜ……泣いている?)


 倩は一瞬たじろいだ。

 しかし、何も不思議ではない。

 捕らわれて、閉じ込められて、餌食もない。

 泣いて当然だ。


(……では、なぜ、今まで泣かなかった?)


 石牢から地底湖に移しただけだ。

 環境はほとんど変わっていない。


 陵魚の尾が、弱々しく水を跳ねさせた。

 倩は、ようやく思い当たった。


(……そうか、水か。

 渇いていたのか。

 涙さえ、流せぬほどに……)


 倩は、よろめいて、岩壁に手をついた。

 陵魚の涙が、ぽたり、ぽたりと落ちていく。


 胸の奥に、罪悪感が急速に膨らんでいった。





 年に一度の、朝貢の季節が来た。

 西梁からも、使者が都へ向かう。

 これには、君主が同行する必要はない。だが、倩は「兄に会いたい」と家臣たちを説き伏せた。


 儀式はあっという間に終わった。

 華陽に従う国は多すぎる。

 一国に時間を割いてはいられない。


 その日の謁見の後、倩は兄と二人きりで会った。


「頼みがあるそうだな。申してみよ」


「……北の村々を、どうかもう殺さないでください」


 あれから、倩は調べたのだ。


 内通したとされる村は、どれも極貧の寒村ばかり。

 助けを求める力も、逃げる力も、戦う力もない。

 生き延びるために、わずかな財を、北狄に差し出すしかなかったのだ。


「彼らは、追い詰められていただけです。

 もっと、別の道があるのでは……」


 うつむいたまま言い募る倩は、兄の表情に気づかなかった。


「……言いたいことは、それで終わりか」


 倩ははっとして顔を上げた。

 帝の眉間に、深い怒りが刻まれていた。


 倩は、知らなかった。

 皇帝の現状を。


 正妻ではなく、下女の腹から生まれた王子。

 本来、継承とは無縁の立場。

 弑逆で即位し、「(せん)(しゅ)」と呼ぶ者さえいる。


 いま、宮中で彼を支えているのは、北狄殲滅を望む強硬派だけだ。

 弱くあることなど、許されなかった。


 皇帝は、怒鳴った。


「皇家の者が、蛮族どもを庇い立てするか。

 よもや貴様、賊と通じておるのではあるまいな!」


「いいえ、断じてそのようなことは……!」


「口では何とでも言える。

 まこと西梁が華陽の臣だというのならば……。

 来夏の北征、軍資を此度の倍、供出せよ!」


 倩は、絶句した。

 無茶な要求だった。

 しかし、うなずくしかなかった。

 兄の腰には、父を殺した剣が下げられていた。





 西梁へ帰る道すがら、倩は悔いた。


(……兄上は、この先、父上を否定し続けるしか、道が無いのだ。

 私が愚かだった。

 兄上の立場を、もっと慮っていれば……)


 城に戻った倩は、家臣を集め、頭を下げた。


「……すまぬ。帝の不興を買った。

 来夏の軍資は、倍だ」


 だが家臣たちは、意外にも穏やかにほほえんだ。


「陛下。西梁は、あなたに救われた国です」


 この国は、もとは異民族の国だ。

 疫病で滅びかけ、華陽に膝を屈した。


 そうして送り込まれたのが、第九皇子、倩。

 婿として迎えられた彼は、民の暮らしを乱さぬよう、慎ましく西梁を治め、国を立て直した。

 四年前には、世継ぎも生まれた。


「我らはみな、陛下への御恩を忘れません。

 こたびの苦境も、ともに乗り越えましょう」


 倩は、熱い涙をこらえた。

 互いに励ましあい、私財をなげうちもして、彼らは来夏に備え始めた。





 夜、倩はまた一人で地下湖を訪れた。

 腰には小さな魚籠(びく)を提げている。


 湖面には、いつものように陵魚が顔を出していた。

 額の竪眼も、また泣いている。


 倩の胸の奥が、ざわついた。


(……北の民は、私には救えない。

 それでも……せめて、この者だけは……)


 倩は籠から小魚を取り出して、湖に放り投げた。

 ぼちゃん、と大きな水音がした。

 陵魚はしばらく魚を目で追い、やがて飛びついた。


 口の周りを真っ赤に濡らして、獲物の頭を齧る陵魚を、倩はじっと見つめていた。





 陵魚には、小梅(シャオメイ)という名を付けた。


 倩はできるだけ毎日地底湖に通った。

 釣ってきた魚を餌に与えた。

 体に苔や水草が付いていれば、洗ってやった。


 小梅は二十日ほどで人馴れした。

 倩が来れば泳ぎ寄り、手から直接小魚を食べるようになった。

 喉から狐のような甘えた声を出し、手のひらに頭を押し付けてきたりもした。


 しかし、額から涙が流れぬ日は、一度も無かった。


 ふたりが親しくなってさらに数十日後の夜、小梅は不思議な声を発し始めた。


 岩窟の天井まで響く高音。

 腹の底を揺さぶるような低音。

 寄せては返す波のように、二度、三度と繰り返す。


(歌だろうか。

 私のために、歌ってくれているのか……?)


 歌い終えた小梅を撫でてやると、ふいに腕を掴まれて、水中に引きずり落とされた。


 全身ずぶ濡れだ。

 倩はあわてて水面まで浮き上がった。


「梅、小梅! どうしたのだ、いきなり⋯⋯」


 見渡しても、じゃじゃ馬の姿は見えなかった。

 と思いきや、水中から軽く体当たりして、鱶めいた魚体を擦り付けてきた。

 しつこく、何度も。


(まさか……私を、求めている?)


 海沿いの出身の部下が、言っていた。

 鯨は、恋の歌を歌うと。


 体の芯が、甘く疼いた。

 倩は、あわてて頭を振った。


(違う、そんなはずは。これはきっと……。

 そう、きっと、求めているのは、私のほうだ)


 その考えは、驚くほどしっくりとなじんだ。

 倩の浮ついた心が、再びゆっくりと沈む。


 小梅が己を必要としてくれたら、嬉しい。

 許された気持ちになれるから。

 無力ではないと、思い込めるから。


 小梅が、浮かび上がってきた。

 倩をじっと見つめている。

 涙に濡れた、赤い眼で。


(私は……。

 『優しい王』で、ありたいだけだ。

 本当は、優しくも、強くもない。

 兄を思いやれず、民も救えない。

 彼女を泣きやませたことさえ、まだ、一度も無いではないか……)


 キュルル、と小梅が鳴き、寄ってきた。

 倩は、彼女を撫でながら、「私は、お前の仲間ではないよ」と、その尾を静かに押しやった。





 しかし、それからも、小梅はしきりに倩との距離を詰めようとした。


 倩が与えた魚を、半分食いちぎって、半分は倩に返してくる。

 拾い集めた貝殻を、倩へと持ってくる。

 倩の膝の上にもたれかかる。

 倩が帰ろうとすると、甲高い声で何度も鳴く。


 一度、岸から離れようとする倩の背中に、小梅が手を伸ばしてきたことがあった。

 その爪が、倩の背を掻いた。

 彼女の爪は、とても鋭い。

 倩の服は破け、うっすらと血が染み出した。

 痛がる倩の姿を見て、小梅は水面を泳ぎ回った。

 おろおろと戸惑うように。


 どうやら、相手は自分よりずっと弱いようだ。

 そう気づいたのか、小梅はそれ以来、自分の爪の扱いに慎重になった。

 そのいじらしさが、倩を堪らない気持ちにさせた。


(勘違いするな。

 私は看守で、彼女は囚人ではないか。

 驕ってはならぬ。

 ……私は、愛されているのだ、などとは……)


 倩は、必死に自分に言い聞かせた。

 そうしなければ、溺れてしまいそうだった。





 倩は、それからも小梅の望みを拒み続けた。

 しかし、心は否応なく彼女に寄りかかっていった。

 一日とおかず地底湖に訪れ、時には共に泳いだ。


 そんな春の夜、終わりは突然に訪れた。


 水から出た倩が服を着直していると、ふいに小梅は顔を上げた。

 地底湖の入り口をじっと凝視している。

 大粒の涙をぽろぽろと溢れさせ、押し黙っている。

 つられて、倩も同じ方向を見た。


 兄帝がいた。


 頭の中が真っ白になった。

 訪問の予定など無かったはずだ。


 洞窟に、靴の音が冷たく響いた。


「やはり、そういう事であったか」


 おそろしい声だった。

 倩は後ずさる。

 裸足の足裏に、濡れた小石がくい込んだ。


「おかしいと思ったのだ。

 そなたの最近の振る舞い、調べさせたぞ。

 夜な夜な姿を消す、と。

 城の者が、妙な鳴き声を聞いた、と。

 まさか、妖魔を匿っていたとはな」


 皇帝は、小梅を鋭くにらんだ。


「父も……こうして惑わされたのだろうよ」


 倩は、震える声で言った。


「違います兄上、これは」


「何が違う。そこにいるのは何だ。朕の目を誤魔化せるとでも思ったか」


「違うのです……」


「黙れ! 妖魔に魅入られ、皇族の本分を忘れた愚か者めが!

 貴様も、父と同じだ!」


 帝は腰の剣を抜き放った。

 小梅をにらむと大股で向かってきた。

 倩は駆け寄った。


「お待ちを! どうか剣をお納めください!」


「邪魔だ、退け!」


 突き飛ばされて、倩はしたたかに腰を打った。

 息が止まるような衝撃に目眩がする。


 帝が剣を振り上げた。

 銀の刃が光る。

 小梅は逃げない。

 倩は掠れた声で叫んだ。


「小梅!」


 キン、と硬い音がした。

 地面に落ちてカラカラと鳴る、それは剣だ。


 帝は痛む手を押さえている。

 小梅の仕業だ。

 その爪で、剣を薙ぎ払ったのだ。


 竪眼から涙が流れ、ぽたりと地面に落ちる。


 次の瞬間。

 ざばり、と音がした。

 凄まじい勢いで、小梅は水から這い上がった。


 帝に飛びかかる。

 風を切るにぶい音。

 羆のように太い腕が、二度、三度、唸りを上げる。


 悲鳴が聞こえた。

 赤いものが見えた。

 しかし、小梅の体の陰になって、何が起こっているのか、はっきりとは見えなかった。


 洞窟に、人間の叫び声が、切れ切れに響いた。

 倩は、つぶやいた。


「や……やめろ……」


 音は止まない。

 小梅の足元に、影が広がる。

 赤黒い影が。

 倩は、叫んだ。


「やめろ……やめろ、小梅!」


 小梅が、ゆっくりと振り向いた。

 何かを咥えたまま。

 悲鳴は、とうに止んでいた。


 小梅は泣いていた。

 倩にはそれが堪らなく怖かった。


 その時、地底湖が大きく揺れた。

 地震であった。

 大地が砲のように鳴り、岩壁が崩れ始めた。


 壁の地層にヒビが入る。

 洞窟の天井から破片が落下してくる。

 水面が跳ねる。

 呼吸が止まる。


 逃げたかった。

 だが、倩は恐怖で立ち上がれなかった。

 押し寄せる土石流が、倒れている兄を呑み込んだ。

 小梅の姿は、もう見えない。

 先程まで、そこにいたのに。


 彼は叫んだ。


「小梅! ……小梅、小梅!」


 なぜ彼女を呼んだのか、判らなかった。

 未だ小梅を案ずる気持ちがあったのか。

 それとも、助けてほしかったのか。


 倩は、泣きながら、同じ名を呼び続けた。


 土煙がひどく、何も見えない。

 絶え間なく落石が降り注ぐ。


 ひときわ大きな水の音が聞こえたのを最後に、倩は意識を失った。





 その後、家臣たちの尽力で、倩は奇跡的に助け出された。


 帝は、不運にも落石で亡くなった、と告げた。

 西梁の官らは、それに誰も猜疑を差し挟まなかった。

 遺体らしきものは原型をとどめず、華陽の民は大いに嘆き悲しんだ。


 崩落に巻き込まれて両足を失った倩は、幼い息子に王位を譲り、信頼できる大臣を摂政に任命したのを最後に、俗世を捨てて仏門に入る。

 その最期は明らかでないが、一説によると、海から遠く離れた山寺に篭って余生を過ごし、ある晩、井戸に身を投げて亡くなったという。





 ミンファマナイーは哺乳綱食肉目マナイー科アカマナイー属に分類される鯨類。体長1.4メートル~3.5メートル、体重60キログラム~400キログラム。大型の水生哺乳類で、雌雄同体。

 主に沿岸部の表層付近を泳ぐ。額の赤色の発振器官を微細動させることで反響定位エコロケーションを行う。この気管の横には塩類腺があり、濾過した塩水を排出して体内の塩分濃度を一定に保っている。

 独特な形状の肉瘤を持つことから、各地の人魚伝説の起源とも考えられている。古代明華(ミンファ)では陵魚の別名で呼ばれ、妖魔の一種として史記にも記述が残っている。

――イョルジュ=デナン・(ヤン)明苑(ミンユエン)(編)(整暦2307年). 改訂・海洋生物図鑑 培光社 p461

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