竪眼は泣いている
まだ海が魔の領域であった時代。
大陸を支配していたのは、華陽という帝国だった。
太陽を名乗るこの国は、無数の小国を従えていた。
そして、北から迫る蛮族『北狄』を征伐することで、大国としての務めを果たしてきた。
ところが、ある時。
皇帝は、北征をやめると言い出した。
「北の異民族と和睦を結ぼう」と。
国は揺れた。
第一皇子が怒り狂い、父を弑して、即位した。
兵に人気の、庶出の王子だ。
新帝がくだした最初の勅命は、二つ。
一つは、今夏の大規模北征。
いま一つは、父帝を惑わした妖魔の始末。
二つ目の命令を任じられたのは、皇弟にして西梁公国の主、倩であった。
即位祝いを終えて西梁に戻るなり、倩は城門前で深々とため息をついた。
(……あの土産さえ無ければ、よかったのに……)
兄帝から賜った行李には、妖魔が一匹。
「父を惑わした元凶だ。始末せよ」と、命じられた。
女の上半身に、鱶の尾。
両腕は羆のごとき太さ。
髪かと思ったものは、肉の襞。
額の中央は竪に割れ、そこには真っ赤な眼が一つきり。
「……これが、『陵魚』か……」
聞きしに勝る、おぞましの姿。
倩は、刀を抜くことも忘れ、思わず後ずさった。
『妖魔を斬れば、祟りを受けて、家が滅ぶ』。
そんな言い伝えは、よく知っている。
いくら皇帝の命令とはいえ、勘弁してほしかった。
倩は結局、陵魚を牢に放り込んだ。
「水も餌もやらなければ、そのうち死ぬだろう」
だが、四十九日が経過しても、陵魚は一向に弱らない。
乾いた石の床の上で、じっとしている。
鳴きもせず、身動きもしない。
「妖魔は、飢えでは死なぬのか……?
どうしろというのだ、兄上は……」
倩は、ひとり頭を抱えた。
西梁の民は、華陽から来た『優しい婿殿』に期待している。
万が一にも妖魔を斬って、祟りを受けるわけにはいかない。
華陽の兄は、皇弟として、臣下として、務めを果たせと強いてくる。
今さら「無理でした」などと言えようはずがない。
息が詰まる思いだった。
そんな中、北狄と通じたという寒村の噂が届き、皇帝は北征の規模をさらに拡大すると発表した。
西梁は軍の中継地となる。
城中に、兵たちがあふれることになる。
(まずい。
陵魚がまだ生きていると知られれば……)
西梁公国王が、皇帝の詔に背いた。
そう評されれば、致命的だ。
倩はあわてて、陵魚を牢から出し、秘密裏に城の地底湖へ運んだ。
(ここならば、誰にも見つかるまい)
翡翠色の湖面に、赤い竪眼がぼんやりと光った。
夏になった。
即位後初の北征は、満を持しての親征だ。
征伐軍が西梁の城に着き、歓待の宴が開かれた。
兵たちは、勝ち戦を前に、大いに酒を煽る。
官たちは、へりくだって盃を満たして回る。
宴の最中、兄帝は倩に尋ねた。
「そなたに任せた妖魔の始末は、如何にした?」
「膾に斬って、川に流して捨ててございます」
「ふむ。そうでなくてはな」
帝はにやりと笑い、朱塗りの盃をぐいと干した。
そして、手の甲で口元を拭った。
わざとらしいほど粗野な仕草だった。
「王たるものに必要な資質は、剛毅さよ。
父は柔弱だった。
倩、そなたもそう思うだろう?」
倩は無言で、ただかしこまって頭を下げた。
兄は西梁に長居せず、兵站を整えるとすぐに発った。
ひと月もしないうちに、北狄どもの拠点を二つと、内通していた村落を三つ滅ぼしたと、報が入った。
凱旋する華陽軍は、槍先に朝敵の首級を掲げ、臣従国の町々を巡った。
首の中には、村人のものも混じっていた。
西梁の民は、無表情でそれを見送った。
「華陽に背いたなら、当然だ」
平坦な声で、誰かが言った。
哀れむ者は、誰もいなかった。
かくして、北征は大成功に終わった。
帝はすぐさま第二回を計画した。
民は大いに期待を寄せた。
その喧騒が落ち着いた頃、倩はふと、陵魚のことを思い出した。
(……あれから、どうしている?)
夜更けに、倩はひとり、秘密の階段を降りた。
白い岩壁に囲まれた鍾乳洞。
その奥にある、翡翠色の湖。
あれは、今もそこにいるはずだ。
果たして、陵魚はいた。
人の来訪を予期していたように、半身を岸に寄せ、待ち構えていた。
倩はどきりとして立ち止まった。
陵魚の額の竪眼からは、とめどなく涙が伝い落ちていた。
(なぜ……泣いている?)
倩は一瞬たじろいだ。
しかし、何も不思議ではない。
捕らわれて、閉じ込められて、餌食もない。
泣いて当然だ。
(……では、なぜ、今まで泣かなかった?)
石牢から地底湖に移しただけだ。
環境はほとんど変わっていない。
陵魚の尾が、弱々しく水を跳ねさせた。
倩は、ようやく思い当たった。
(……そうか、水か。
渇いていたのか。
涙さえ、流せぬほどに……)
倩は、よろめいて、岩壁に手をついた。
陵魚の涙が、ぽたり、ぽたりと落ちていく。
胸の奥に、罪悪感が急速に膨らんでいった。
年に一度の、朝貢の季節が来た。
西梁からも、使者が都へ向かう。
これには、君主が同行する必要はない。だが、倩は「兄に会いたい」と家臣たちを説き伏せた。
儀式はあっという間に終わった。
華陽に従う国は多すぎる。
一国に時間を割いてはいられない。
その日の謁見の後、倩は兄と二人きりで会った。
「頼みがあるそうだな。申してみよ」
「……北の村々を、どうかもう殺さないでください」
あれから、倩は調べたのだ。
内通したとされる村は、どれも極貧の寒村ばかり。
助けを求める力も、逃げる力も、戦う力もない。
生き延びるために、わずかな財を、北狄に差し出すしかなかったのだ。
「彼らは、追い詰められていただけです。
もっと、別の道があるのでは……」
うつむいたまま言い募る倩は、兄の表情に気づかなかった。
「……言いたいことは、それで終わりか」
倩ははっとして顔を上げた。
帝の眉間に、深い怒りが刻まれていた。
倩は、知らなかった。
皇帝の現状を。
正妻ではなく、下女の腹から生まれた王子。
本来、継承とは無縁の立場。
弑逆で即位し、「僭主」と呼ぶ者さえいる。
いま、宮中で彼を支えているのは、北狄殲滅を望む強硬派だけだ。
弱くあることなど、許されなかった。
皇帝は、怒鳴った。
「皇家の者が、蛮族どもを庇い立てするか。
よもや貴様、賊と通じておるのではあるまいな!」
「いいえ、断じてそのようなことは……!」
「口では何とでも言える。
まこと西梁が華陽の臣だというのならば……。
来夏の北征、軍資を此度の倍、供出せよ!」
倩は、絶句した。
無茶な要求だった。
しかし、うなずくしかなかった。
兄の腰には、父を殺した剣が下げられていた。
西梁へ帰る道すがら、倩は悔いた。
(……兄上は、この先、父上を否定し続けるしか、道が無いのだ。
私が愚かだった。
兄上の立場を、もっと慮っていれば……)
城に戻った倩は、家臣を集め、頭を下げた。
「……すまぬ。帝の不興を買った。
来夏の軍資は、倍だ」
だが家臣たちは、意外にも穏やかにほほえんだ。
「陛下。西梁は、あなたに救われた国です」
この国は、もとは異民族の国だ。
疫病で滅びかけ、華陽に膝を屈した。
そうして送り込まれたのが、第九皇子、倩。
婿として迎えられた彼は、民の暮らしを乱さぬよう、慎ましく西梁を治め、国を立て直した。
四年前には、世継ぎも生まれた。
「我らはみな、陛下への御恩を忘れません。
こたびの苦境も、ともに乗り越えましょう」
倩は、熱い涙をこらえた。
互いに励ましあい、私財をなげうちもして、彼らは来夏に備え始めた。
夜、倩はまた一人で地下湖を訪れた。
腰には小さな魚籠を提げている。
湖面には、いつものように陵魚が顔を出していた。
額の竪眼も、また泣いている。
倩の胸の奥が、ざわついた。
(……北の民は、私には救えない。
それでも……せめて、この者だけは……)
倩は籠から小魚を取り出して、湖に放り投げた。
ぼちゃん、と大きな水音がした。
陵魚はしばらく魚を目で追い、やがて飛びついた。
口の周りを真っ赤に濡らして、獲物の頭を齧る陵魚を、倩はじっと見つめていた。
陵魚には、小梅という名を付けた。
倩はできるだけ毎日地底湖に通った。
釣ってきた魚を餌に与えた。
体に苔や水草が付いていれば、洗ってやった。
小梅は二十日ほどで人馴れした。
倩が来れば泳ぎ寄り、手から直接小魚を食べるようになった。
喉から狐のような甘えた声を出し、手のひらに頭を押し付けてきたりもした。
しかし、額から涙が流れぬ日は、一度も無かった。
ふたりが親しくなってさらに数十日後の夜、小梅は不思議な声を発し始めた。
岩窟の天井まで響く高音。
腹の底を揺さぶるような低音。
寄せては返す波のように、二度、三度と繰り返す。
(歌だろうか。
私のために、歌ってくれているのか……?)
歌い終えた小梅を撫でてやると、ふいに腕を掴まれて、水中に引きずり落とされた。
全身ずぶ濡れだ。
倩はあわてて水面まで浮き上がった。
「梅、小梅! どうしたのだ、いきなり⋯⋯」
見渡しても、じゃじゃ馬の姿は見えなかった。
と思いきや、水中から軽く体当たりして、鱶めいた魚体を擦り付けてきた。
しつこく、何度も。
(まさか……私を、求めている?)
海沿いの出身の部下が、言っていた。
鯨は、恋の歌を歌うと。
体の芯が、甘く疼いた。
倩は、あわてて頭を振った。
(違う、そんなはずは。これはきっと……。
そう、きっと、求めているのは、私のほうだ)
その考えは、驚くほどしっくりとなじんだ。
倩の浮ついた心が、再びゆっくりと沈む。
小梅が己を必要としてくれたら、嬉しい。
許された気持ちになれるから。
無力ではないと、思い込めるから。
小梅が、浮かび上がってきた。
倩をじっと見つめている。
涙に濡れた、赤い眼で。
(私は……。
『優しい王』で、ありたいだけだ。
本当は、優しくも、強くもない。
兄を思いやれず、民も救えない。
彼女を泣きやませたことさえ、まだ、一度も無いではないか……)
キュルル、と小梅が鳴き、寄ってきた。
倩は、彼女を撫でながら、「私は、お前の仲間ではないよ」と、その尾を静かに押しやった。
しかし、それからも、小梅はしきりに倩との距離を詰めようとした。
倩が与えた魚を、半分食いちぎって、半分は倩に返してくる。
拾い集めた貝殻を、倩へと持ってくる。
倩の膝の上にもたれかかる。
倩が帰ろうとすると、甲高い声で何度も鳴く。
一度、岸から離れようとする倩の背中に、小梅が手を伸ばしてきたことがあった。
その爪が、倩の背を掻いた。
彼女の爪は、とても鋭い。
倩の服は破け、うっすらと血が染み出した。
痛がる倩の姿を見て、小梅は水面を泳ぎ回った。
おろおろと戸惑うように。
どうやら、相手は自分よりずっと弱いようだ。
そう気づいたのか、小梅はそれ以来、自分の爪の扱いに慎重になった。
そのいじらしさが、倩を堪らない気持ちにさせた。
(勘違いするな。
私は看守で、彼女は囚人ではないか。
驕ってはならぬ。
……私は、愛されているのだ、などとは……)
倩は、必死に自分に言い聞かせた。
そうしなければ、溺れてしまいそうだった。
倩は、それからも小梅の望みを拒み続けた。
しかし、心は否応なく彼女に寄りかかっていった。
一日とおかず地底湖に訪れ、時には共に泳いだ。
そんな春の夜、終わりは突然に訪れた。
水から出た倩が服を着直していると、ふいに小梅は顔を上げた。
地底湖の入り口をじっと凝視している。
大粒の涙をぽろぽろと溢れさせ、押し黙っている。
つられて、倩も同じ方向を見た。
兄帝がいた。
頭の中が真っ白になった。
訪問の予定など無かったはずだ。
洞窟に、靴の音が冷たく響いた。
「やはり、そういう事であったか」
おそろしい声だった。
倩は後ずさる。
裸足の足裏に、濡れた小石がくい込んだ。
「おかしいと思ったのだ。
そなたの最近の振る舞い、調べさせたぞ。
夜な夜な姿を消す、と。
城の者が、妙な鳴き声を聞いた、と。
まさか、妖魔を匿っていたとはな」
皇帝は、小梅を鋭くにらんだ。
「父も……こうして惑わされたのだろうよ」
倩は、震える声で言った。
「違います兄上、これは」
「何が違う。そこにいるのは何だ。朕の目を誤魔化せるとでも思ったか」
「違うのです……」
「黙れ! 妖魔に魅入られ、皇族の本分を忘れた愚か者めが!
貴様も、父と同じだ!」
帝は腰の剣を抜き放った。
小梅をにらむと大股で向かってきた。
倩は駆け寄った。
「お待ちを! どうか剣をお納めください!」
「邪魔だ、退け!」
突き飛ばされて、倩はしたたかに腰を打った。
息が止まるような衝撃に目眩がする。
帝が剣を振り上げた。
銀の刃が光る。
小梅は逃げない。
倩は掠れた声で叫んだ。
「小梅!」
キン、と硬い音がした。
地面に落ちてカラカラと鳴る、それは剣だ。
帝は痛む手を押さえている。
小梅の仕業だ。
その爪で、剣を薙ぎ払ったのだ。
竪眼から涙が流れ、ぽたりと地面に落ちる。
次の瞬間。
ざばり、と音がした。
凄まじい勢いで、小梅は水から這い上がった。
帝に飛びかかる。
風を切るにぶい音。
羆のように太い腕が、二度、三度、唸りを上げる。
悲鳴が聞こえた。
赤いものが見えた。
しかし、小梅の体の陰になって、何が起こっているのか、はっきりとは見えなかった。
洞窟に、人間の叫び声が、切れ切れに響いた。
倩は、つぶやいた。
「や……やめろ……」
音は止まない。
小梅の足元に、影が広がる。
赤黒い影が。
倩は、叫んだ。
「やめろ……やめろ、小梅!」
小梅が、ゆっくりと振り向いた。
何かを咥えたまま。
悲鳴は、とうに止んでいた。
小梅は泣いていた。
倩にはそれが堪らなく怖かった。
その時、地底湖が大きく揺れた。
地震であった。
大地が砲のように鳴り、岩壁が崩れ始めた。
壁の地層にヒビが入る。
洞窟の天井から破片が落下してくる。
水面が跳ねる。
呼吸が止まる。
逃げたかった。
だが、倩は恐怖で立ち上がれなかった。
押し寄せる土石流が、倒れている兄を呑み込んだ。
小梅の姿は、もう見えない。
先程まで、そこにいたのに。
彼は叫んだ。
「小梅! ……小梅、小梅!」
なぜ彼女を呼んだのか、判らなかった。
未だ小梅を案ずる気持ちがあったのか。
それとも、助けてほしかったのか。
倩は、泣きながら、同じ名を呼び続けた。
土煙がひどく、何も見えない。
絶え間なく落石が降り注ぐ。
ひときわ大きな水の音が聞こえたのを最後に、倩は意識を失った。
その後、家臣たちの尽力で、倩は奇跡的に助け出された。
帝は、不運にも落石で亡くなった、と告げた。
西梁の官らは、それに誰も猜疑を差し挟まなかった。
遺体らしきものは原型をとどめず、華陽の民は大いに嘆き悲しんだ。
崩落に巻き込まれて両足を失った倩は、幼い息子に王位を譲り、信頼できる大臣を摂政に任命したのを最後に、俗世を捨てて仏門に入る。
その最期は明らかでないが、一説によると、海から遠く離れた山寺に篭って余生を過ごし、ある晩、井戸に身を投げて亡くなったという。
ミンファマナイーは哺乳綱食肉目マナイー科アカマナイー属に分類される鯨類。体長1.4メートル~3.5メートル、体重60キログラム~400キログラム。大型の水生哺乳類で、雌雄同体。
主に沿岸部の表層付近を泳ぐ。額の赤色の発振器官を微細動させることで反響定位を行う。この気管の横には塩類腺があり、濾過した塩水を排出して体内の塩分濃度を一定に保っている。
独特な形状の肉瘤を持つことから、各地の人魚伝説の起源とも考えられている。古代明華では陵魚の別名で呼ばれ、妖魔の一種として史記にも記述が残っている。
――イョルジュ=デナン・楊明苑(編)(整暦2307年). 改訂・海洋生物図鑑 培光社 p461




