トラウマ
今日も雨が降っている。自転車での通学が難しいので公共交通機関にお金を払うことになって財布が辛い。
『異世界研究会』でのゴタゴタから2週間経って、今は梅雨。
暇なときは長代先輩のいる講義室に顔を出したりもした。彼女は大体居て、コーヒーを飲んでいるかモニターを眺めているか私に異世界の疑問点を話すかをして時間を潰していた。どうやら今はB4らしくて、研究室の仕事は解析が大半だからこの部屋で作業するか論文を読むかして時間を潰しているらしい。ただ、先日彼女が発した「次の仮説を立証しましょう」の続きについては、何も教えてくれなかった。
『異世界研究会』の実態はまだ掴めていないけれど、大学生活に大きな目標のなかった私にとっては良い刺激であった。長代先輩は仮説を閃けば私を実験台として命令を送りたいらしい。それに従うのがなんだか、ゴールのない大学生活に降り注いだゲームのクエストみたいで、まだ1度しか経験していないのに、次の仮説を伝えられるのが密かな楽しみになりつつあった。少なくとも講義よりは何倍も楽しい。逆に講義は慣れてくると新鮮味を失って退屈になる。
そんな授業に飽きてくる時期が、雨の多くなる時期と重なる。雨で家を出ることを渋っているうちに、授業に出ないことへの罪悪感が薄まってくる。結果的に出席しない授業が増えてくる。
そんな状況でも、出席点がある授業と、ドイツ語にだけは出席した。
そしてドイツ語の授業だけは、いつも開始10分前に席へ座る。長代先輩の実験のおかげで交流ができ、現在私にとって唯一の友達である梨琉と話す貴重な機会だったからだ。
「ねね、紗葵ちゃん紗葵ちゃん」
席に座るなり、隣の梨琉が私に話しかけた。グミを食べている。
「紗葵ちゃん、グミ好き?」
「好きだよ。普段はあんま食べないけど、たまにすごく欲しくなるんだよね」
「やったー。じゃあ、好きなだけ取っていいよっ」
梨琉はグミのパッケージを私たちの間に、どちら側からも手が届くように置く。
「ありがとう、嬉しい」
「普段食べないって言ったけど、甘いもの全般をあんまり食べないの?」
「好きなんだけど、太るのが怖くて」
「たしかに紗葵ちゃんスタイル綺麗だもんね〜っ」
大きな目を輝かせながら、梨琉は私の全身を見た。謙遜しようとしたけれど、嬉しすぎて言語能力が仕事しなかった。
「授業連続すると糖分足りなくて、私どうしても食べちゃうの!」
「あー、気持ちわかるなあ」
「だからグミとかチョコはついつい食べちゃう……。紗葵ちゃんチョコは食べる?」
「もらったら食べるかもしんないけど、普段は避けてる気がする。昔チョコ食べ過ぎたときに肌荒れしたことあって」
「ええーっ、可哀想……。チョコじゃなかったら大丈夫なの?」
「うん、なんだかんだ甘い物は好きだよ。この授業とかスピーキング多くて頭使うから、バイト前に欲しくなること多いし」
「そっかあ」
じゃあ授業後どっか行こっか、とここで提案できれば良かったのだけど、梨琉はなにかを考えているみたいで、私はそれ以上踏み入って会話ができなかった。
長代先輩のせいで男2人に絡まれたあの日から、結局、梨琉と一度も食事に行けていない。だから私にとってはドイツ語に出席することが貴重な梨琉との会話だったのだ。人ひとりにそこまで固執していると思われたら恥ずかしいけど、まあ、大学生活における貴重な友達だからこれくらいの楽しみは許してほしい。
この日も梨琉とは授業終わりにすぐ別れて、またバイト前まで暇な時間が生まれる羽目になる。1人になった瞬間満たされていた心は、底に穴でもあるのかと思うほどすぐに空になって、とっていたコミュニケーションが適切かどうかなんて反省会を1人脳内で行う。
たいてい、もっと喋れば良かったなあって反省してる。
しかし、かと言って積極的に梨琉を巻き込むことができるかと言われれば、それも私にとっては難しい所業であった。
中学の頃を思い出す。
––––。
『紗葵、私らしか友達いないの?』
『別に無理に誘わなくたって逃げないよ』
私は友達と仲良くなるのに必死だった。好きになってくれるのが嬉しくて、私も彼女らのことが好きだったから。向こうの個人情報はたくさん知ってるほうが占いや趣味の話ができると思って、何度も聞いた。同じ出来事を一緒にたくさん経験した方が多くの思い出を作れると信じて、共に行動することを心がけた。
『紗葵って距離感とか知らなさそうだよね』
私のいないところで偶然、そんなことを言っているのを聞いた中2の冬。今でも鮮明に覚えている。
受験で選別された後、高校で出会った友人はみな距離感を保つのが得意な人間だった。遊びを断っても理由は聞いてこないし、全く会話しない日があっても、それを気まずいと感じない。喋っていて不快にならないまま、表面上のやり取りをこなすうち、次第にお互いが分かってくることで、失敗することなく相手の深いところまで踏み入れるようになる。賢い連中だと思った。これが大人の付き合いなんだって感動した。高校の3年間を経て、私の中で強迫的なまでに距離を置いて接することが美徳と化していった。
特に、嫌われたくない相手には。
だから梨琉相手にはアクセル全開でコミュニケーションを取ることができなかった。同じ学部なら、院も含めて後6年は一緒に居るだろう。少しづつ仲良くなればよい。伝える情報は選別して、お互いに傷つかないことを第一として交流する。
そんな感じで、週一でしか会えない梨琉に対して慎重になりながら、ときどき先輩相手に暇つぶしをして過ごしていたような6月某日。
講義室でのことだ。
先輩がいきなり新しい仮説を提唱しはじめた。
「この世界に来るまで、彼は平凡な男子中学生だったの。勉強もスポーツも特に得意って訳じゃないけど、家族とは関係が良好で、友人もいた」
モニターの中でキャンプをし、パーティメンバーと会話を交わすいつもの少年を見ながら長代先輩は話し始める。
「知ってる人なんですか?」
「いや? あたしの推測」
ちなみにこの世界での彼は『マルト』と呼ばれているの、と長代先輩は付け加える。音が出ないのにどうして分かるのかと尋ねたら「読唇術よ」と返ってきた。なんて適当な人だろう。
「ところで、先日言っていた仮説だけど」
全身の細胞が一気に反応する。自分の思うより深層心理で待ち望んでいたみたい。
「そろそろ試してみようかと思って」
「『死』を経た急激な成長、とは別の話ですか?」
「ええ。理上さんが選ばれなかったことに関する話」
長代先輩は、私が急激な成長をしなかった、すなわちチートスキル獲得相当する何かを一切なし得なかったから、あなたは選ばれなかったと、そう主張している。にしても『理上さんが選ばれなかったことに関する話』というタイトルはあまり心地よくないが。
「彼が異世界でこうしてチートを獲得した一方で、理上さんがどうして成長できなかったか、」
「経験値が足りなかったからじゃないですか? 彼は死んだけど、私は拉致されて男に絡まれただけ」
私が話に割り込んだら、長代先輩のコーヒーを飲む動きが刹那停止した。
「まあ、最後まで聞きなさいな」
長代先輩は新しく買ったとみえるマーカーでホワイトボードに短い線(漢字の「一」のような)ものを2本、上下に並べて書く。そして上の線には「誕生」。下の線には、「死」と書き加えた。
「私は、『社会貢献ポテンシャル』というものが存在してるんじゃないかって、そう思うの」




