覚悟
調理担当内での会話が落ちついて、私も機戸も酒井も自分の仕事に集中し始めたころ、梨琉が私に声をかけた。
「紗葵ちゃん紗葵ちゃん」
その平坦な呼び方から彼女の感情は汲み取れない。それでもこちらを見て名前を読んでくれたことに落ち着きを覚えながら、彼女が黙って指さす方を見る。長代先輩が来ていた。
頭に溢れ出した噂の内容を押し殺して、私は先輩の方へ向かう。
「おつかれさまです。……どうしました?」
カウンター越しに挨拶する。久しくこの人と会ってなかったような。メンタルブレイクした自分が、どれだけ長い間引きこもっていたのか痛感する。
「あたし、12月1日は講義室にいないから」
私と目を合わせた先輩は、挨拶もなしに突然そんなこと言った。
「1日? わかりました……けど、どうして突然?」
「大事な予定があるの」
「あっ、すみませんそういう意味じゃないです。先輩の予定でお休みされることは承知なんですけど、どうしていまさら欠席連絡するのかなあ、って」
「あなたがいつ部屋に来るかわかんないから。部屋に行って、野郎どもしかいなかったら困るでしょ」
「あー……。お気遣いありがとうございます」
「2人だけだと何話すか分かんないし」
マルトくんの本名を彼らが漏らしたことを先輩はもう知っているのだろうか。カオル……だったけ。その後に大変なことがあったから、結局あれが何だったのか聞けていないままだ。漏らしていることを知っているとして、語ってくれないってことはやっぱり先輩は隠したいのだと思う。
どうして、隠してるんだろう。
「そうですね。その日は暇でも講義室に行かないようにします」
「よろしくね」
そのタイミングで酒井が彼女のクレープを持ってきて、先輩に渡す。カスタードクリーム3つだった。3人分だと思っていたオーダーは先輩1人分だったらしい。カフェインだけじゃなくて糖分も摂り過ぎな人。
「お話はそれだけですか?」
「そうだけど」
「……メッセージ送ってくれるだけでも問題なかったのに、わざわざ直接来てくださって、ありがとうございます」
「理上さんが定期的にあたしの顔を見たいんじゃないかと思って」
んなわけあるかいと、相変わらず適当なことを言う長代先輩の言葉を話半分で聞きつつ、私は彼女を見送った。一瞬、奥の梨琉を一瞥して、何か言いかけたけど結局何も言わないで先輩は帰った。
彼女の背中は、長い黒髪が綺麗に線を描いている。
––––この人が殺人なんて、するわけないじゃんか。
するわけないんだ。ちょっと変わっている人だってだけ。
頭の中で事実として刷り込まれるまで、私は自分に言い聞かせ続ける。
◆
「っしゃー、終わり!」
酒井が合図をする。時刻は16:00。一番忙しい時間帯のシフトが終わって、夜組のメンバーがちらほらやってくる。
「長かったなー!」
「ちょっと、まだ注文が途絶えていませんよ酒井くん。––––望野さん、理上さん、甘城さんは、ちょうど良いタイミングを見つけて次の人と変わってください」
「俺の交代タイミングは?」
「そもそも酒井くんの出番は次の時間帯からでしょう……。手伝ってもらったことには感謝してますけど」
「あっ、そうだった俺終わったつもりだったわ」
やり取りする2人を尻目に、私は作業する手を止めない。この時間からクレープを食べに来る人はどんどん減ってくるだろうし、実際いつでも次の子と交代できたのだけど。
今止めてしまったら気まずいから。
「それでは、私はお先に失礼します。……理上さん、無理せずとも残った仕事は機戸くんと酒井くんにおまかせして、理上さんは学園祭をフル満喫してくださいね」
俺らも気遣え、と不満げな酒井、機戸の声は聞こえていないみたいで、望野さんは微笑みながら受付の方を見る。目が「甘城さんと楽しくしてくださいね」と語っている。
望野さんの期待に応えられないのは辛い。これだけ応援してくれている人がいるのに、私は気持ちをロクにぶつけられてないどころか、彼女とは距離を置いた間柄である。今日だけでも復縁できそうな兆しはいくつもあったけど、結果としてはお互いまだあの日のことを精算できていないままだから。
梨琉が次のシフトの子と一言二言交わす。仕事の軽い引き継ぎをしているように思う。きっと梨琉はこのまま帰ってしまう。かつて一緒に巡ろうなんて約束したのは梨琉が私に呆れる前の話だ。彼女は何事もなく1人で帰って、私はワンテンポ遅れて別で帰る。
もう諦めはついているはずなのに、もしかしたら梨琉が私の方を向いてくれるんじゃないかって、さっき時雨さんの前で話したときみたいに、私に笑顔を向けてくれるんじゃないかって、心の片隅で期待している。一緒に学園祭を巡ることができたら、最高の4日間になったのになあなんて考えてる。
現実はそんなに甘くない。引き継ぎを終えた梨琉はそのままカウンターを出て、私は呆然と彼女を眺めていくだけ。きっと私はまた彼女が接近してくれるまで関係を修復することができない。
––––いいのかな、それで。
私は、ずっとそんなままでいいのだろうか。梨琉が指摘してくれたことを、自身が自覚し始めたその弱さを、ここで打ち破らなくていつ行動する。
『紗葵って距離感とか知らなさそうだよね』
過去の言葉が、美徳の皮を被って私の足枷となる。帰ろうとしている梨琉を捕まえるのは、また嫌われてしまう理由になるんじゃ? 彼女が落ち着くまで待ったほうが、お互い幸せなんじゃないだろうか?
焦燥で霞む視界のなかで、梨琉の影がどんどん遠くなる。正解が分かんない。誰か教えてくれたらいいのに。異世界みたいに女神様がいるなら、今日くらい進むべき方向を提示してくれたっていいのに。
『どうして誰も教えてくれないの?』
あの日の、梨琉の言葉を思い出す。梨琉の、歪んだ表情を思い出す。……そっか、彼女も私のことが分からなくて悩んでたんだ。私のことを教えてやれるのは、女神様じゃ無理で、私しかいないんだ。距離感がいつか解決してくれるのは間違いだって、あのとき学習したじゃないか。学習したなら、マルトくんのように成長していくべきだ。仮にかつての美徳が正解だったとしても、私は、ずっと抱えていた気持ちを梨琉に自ら伝える義務がある。彼女が私に見せてくれら幸せを、今度は私が還元してやる番。
「ごめん! 酒井、機戸。悪いけどこの続きお願いしていい!?」
手が止まっていた私は立ち上がって、残りの仕事を2人に任せる。そもそも交代しなきゃなんないし、タイミングは悪くなかったみたいで、すんなりと店を抜ける。
誤解を全部解こう。私が悪かった点は全て謝って、どういう価値観で歩んできたのかを梨琉に説明しよう。それでもう一度、『嫌っているわけないじゃん』って伝えてやりたい。
大した距離でもないのに、私は駆けていく。
視線の先にいる彼女が、何か思い出したみたいに立ち止まって、こちらに顔を向けた。
「さ、紗葵ちゃん……?」
目を丸くして驚く彼女の表情と声は、全部、私に違和感なく染み込んでいく。
とめどない安堵感に襲われる。やっぱり私は梨琉のことが好きなんだなって思う。
「梨琉……少し、時間ある? 話したいことがあって」




