ペパーミント
その日の夜。
長代先輩へのとっておきのプレゼントを買って、梨琉と軽いウィンドウショッピングをして、夕方くらいに解散した。家に着くと楽しさで紛らわせた疲れがどっと襲ってきて、私はしばらく部屋で動けなくなる。梨琉の勧めてくれたエッセンシャルオイルが原動力となって、ようやく動き出した私は、久しぶりに浴槽へお湯を張る。
「こんくらい……かな……」
水と油は直接混ざらない。だから、親水性と疎水性両方の性質をもつ界面活性剤を用いなければならない。洗剤とかはまさにその一例だ。そして、エッセンシャルオイルも同様に、お風呂に溶かしたければ乳化剤(界面活性剤だけど使用用途の都合で名称が違う)が必要らしい。もちろん、お店の可愛い店員さんは疎水性がどうのなんて全く言わなかった。私が授業のことを勝手に思い出しているだけだ。
「うーん」
紙袋に同封された使用法、ネット検索どちらも数滴で良いと教えてくれたけど、数滴じゃ香りは感じられなかった。これでは体を洗ううちシャンプーやボディソープの香りで上書きされてしまいそうである。もう5滴だけ追加して、ほどよくミントっぽいのを感じたことを確認したら、私は服を脱いだ。
「……いい匂い」
メイクを落として、髪と体を洗って、実家ぶりの湯船に浸かる。オイルは私の思うより根気強くて、洗ってる間もずっと浴室がペパーミントの香りに包まれた。
『紗葵ちゃんが買うんだったら、私もお揃いの買う!』
お店での梨琉の声、表情、身振りを思い出す。いつからこんなに好きになってしまったんだろう。明確な芽生えのタイミングも、原因も分からないまま、私は梨琉の選んだオイルに体を沈める。
ペパーミントのお湯は私の体全部を包んでいて、気化された香りが幸せだと私に錯覚させる。匂いに私は快楽を覚えて、居場所を見つけたみたいに、狭い浴室で、じっと、お湯と一体化する。
適量に5滴も追加したアロマは想定外に強烈であった。とめどないペパーミントは幾度となく私の体に侵入して、その度に彼女の顔が思い浮かぶ。この瞬間、梨琉も同じ香りに包まれて、こうして生の姿で今日のことを想起してくれたらな、なんて思う。オイルが、今日の思い出が、混ざり合わない私と梨琉をつなぐ乳化剤。
好きな人が、仲良くしてくれる人が、感覚で自分のために何かを選んでくれて、それが日常に溶け込むっていうのは、想定外に嬉しい。いろんなプレゼントを貰ってきたけど、それは私が欲しくて買ってもらったものだったり、祝うことに重きが置かれて買ってくれたもの。どれも嬉しいのは間違いないけど、このオイルは違うベクトルで私を幸せにする。
だから長代先輩へのプレゼントも日常に溶け込めそうなものをした。『女性上司に贈るのにピッタリ』という要望で店員さんに絞って貰った中から、私と梨琉で真剣に選んだマグカップ。店員さんには『可愛いものが好きな上司で』と嘘をついて、シンプルなデザインは候補から外しておいた。ちょっと崩れた猫の顔がデザインされていて、カップそれ自体が猫の顔を模している。先輩が普段使っているのは露骨に飲むための媒体でしかなさそうだったから、意外性も含んでいて面白い。
喜んでくれると嬉しいなあ。私は梨琉から勧められただけでこんなに幸せなんだから、その新鮮な気持ちを忘れないうちに、同じ動機で先輩にもプレゼントしてやりたい。
例の講義室には午前中に梨琉と2人で向かう。そのときに香りの感想を話し合おう。まだ使えていないんだったら、私が適量を家まで行って教えてあげる。それから感想を直接聞きたい。そんな状況なら、一緒にお風呂に入ったって……。
「はぁ……っ」
何十分間浸かっていたことだろう。ふとのぼせが訪れて、私は正気を取り戻した。さっきまで考えていたことを思い返して、途端に恥ずかしくなった。何やってんだと、理性が過剰に警告する。
凍えそうな脱衣所で冷静さを取り戻す。人を好きになるだけでここまで馬鹿になれるものなのか? 数冊読んだ少女漫画の主人公は、異世界みたいに紙面向こう側の世界だと思ってた。中学や高校で互いに想い合って焦れったさを感じていた連中は、自分と違う人種だと思ってた。酒井への想いが歪んで梨琉を恨んだカナの気持ちなんて、到底理解できないと思っていた。
私は、間違いなく彼女らと同じ側にいる。
今日のこと、明日以降のことで梨琉から連絡が来てたらいいなと思った。通知1つに最近は心踊らせている。そのどれもが梨琉からではなくって、勝手な期待に裏切られる。傍から見れば、愚かに違いない。
いまこうして思考がボケているのは、長時間湯に浸かったせいに違いないと結論付けた。ついでに入れすぎたオイルの嗅ぎすぎも良くない。やはり『過ぎたる』は『及ばざる』に比べて圧倒的な害である。深呼吸して心を落ち着けて、梨琉に嫌われないため、踏み込みすぎないことを再度心がける。
◆
翌日。
「おつかれさまでーす」
「こんにちわ!」
2人で、講義室のドアを開く。モニターを見て、誰かに見せつけるがごとく優雅にコーヒーを飲む先輩。異世界のことを思い出して、アポなしで梨琉と訪ねたことに不味さを感じたけれど、長代先輩を私たちを見るやいなや冷静にモニターの電源を消した。
「あら、理上さんと……甘城さん。随分と久しぶりね」
「お久しぶりです! この前はお世話になりましたっ!」
「この前?」
「私の家で料理作ってくれて……」
「ああ。7月の。気にしないでいいわよ。あれから仲直りできた?」
「えーっと……」
「ごめんなさい。喋りづらかったら問題ないわ。ネガティブな報告だって1つの進歩だから。こちらも気を遣わなくて結構」
「ありがとうございますっ」
明らかに温度差がありそうな中で、会話は淡々と進む。気まずさはない。音階みたく、そこそこ離れている方が調和するのかもしれない。
「うちの理上さんが迷惑かけたりしてない?」
「はいっ。紗葵ちゃんはとっても仲良くしてくれてます」
「また変なこと言わないでくださいよ先輩―」
「いや、いつもここでは暴れているからね。外面が心配になっただけ」
「暴れてませんけど!?」
「この前もあたしがこの部屋で気持ちよく寝てたらね、この子下着のまま温水プールに入ろうとして……」
「ど、どういう状況ですか!?」
「いや私そんなことしてませんから! 話盛ってる! ていうか捏造してる!」
「信じるか信じないかは甘城さん次第よ」
「梨琉騙されたらダメだよ。この人悪い人だから」
「あはは……」
先輩の暴走で梨琉を困らせたところで、一度会話が止まる。
チャンスだ。梨琉と目を合わせて、マグカップの袋を握りしめる。
「あのっ、先輩」
視線が即座にプレゼントの方へ向けられる。一瞬の反応は案外静かだった。
「これ、私と梨琉からのプレゼントです。元々は、梨琉が、この前のお礼にってことで何か買おうとしてたんですけど、私も普段お世話になってるし。だから、2人からの、先輩へのお礼」
差し出した袋は先輩の手に移って、彼女は小さく「ありがとう」と微笑む。率直すぎる先輩の反応は初めて見る。
「このタイミングで……驚いたわ。中身はなに?」
「開けてみてください」
「桐華さんに合うすっごく可愛いのにしましたっ!」
袋から箱を取り出した先輩は丁寧に箱を空けて、包装紙に包まれていたマグカップが、先輩の細い指の合間で顔を覗かせる。猫を模した可愛い系マグカップだとようやく気づいて、頬を緩ませる。
「あら、かわいい。……2人で買いに行ったの?」
「はい。見に行こうよ、ってなって」
「1日中探したんです! 桐華さんにピッタリなもの見つけたくて」
「ふーん……」
先輩はしばらく猫とにらめっこ。優しい目をしている。私ら2人にその様子を見られていることを自覚したら、何かを仕切り直すがごとく咳払いをして、いつもトーンに声を調整した。
「ありがたくもらっておくわ。……使えるかは分からないけど。まあ、同じマグカップをずっと使い続けていたのは事実だし。可愛い形の分、機能性に欠けちゃってるわね」
一瞬心配そうな顔をした梨琉に、「大丈夫。これ超喜んでるから」と小声で補足しておく。安心しきった梨琉は体を揺らせて、猫のマグカップ片手の先輩へ話しかけた。
「喜んでもらえてよかったですっ! 間が空いてしまったのは申し訳ないですけど……」
「謝らなくていいわよそんなこと」
「これからは機会あれば会いにきますね! 紗葵ちゃんもたまにここに居るらしいですしっ」
「そうね。理上さんはあたしに定期的に会いたいのか知らないけど2日に1回くらいで来るわ」
「ただの暇つぶしですけどね」
「あたしはいつでも居るから」
「本当にずーっといるよこの人」
「そしたらいつでも会いにきます! 桐華さんともっとお話してみたいし……」
「可愛い後輩……。拉致する相手を間違えたかしら」
「拉致……?」
梨琉が浮かべた疑問符に対して長代先輩は説明する気がなさそうだったので代わりに私が話す。誕生日に拉致られたのが私たちの出会いだったってこと。……それから振られた『甘城梨琉と話す』という実験のことまでは話せないけれど。梨琉は当時の出来事を不思議そうな顔で聞いて、それから思い出したように口を開いた。
「そうだ……誕生日っ! 紗葵ちゃん、今のうちに桐華さんの誕生日聞こうよ」
「ほんとだ。忘れてた」
私は先輩の個人情報をなんにも知らない。これだけ普段一緒にいるのだから、記念日くらいは知っている関係性であった方がよい。そうして祝ってあげたい。今年を逃しているなら来年でもいい。どうせ来年もこのサークルにいるだろうから。
「あの……桐華さんっ!」
「どうしたの?」
たぶん『誕生日』ってワードは届いていただろうに先輩は知らないふりをする。先輩のこういうところは可愛らしい。
「桐華さんって誕生日いつなんですか? プレゼント買うときに2人で話題になったんです」
「えっと、それは……」
「紗葵ちゃんも気になるよねー?」
「そうですよ先輩。教えて下さい。私先輩の個人情報全然しらないですから」
「普通に答えていいのかしら?」
「変に答えることがあるんですか!?」
先輩は困ったような顔を見せて、そこまで個人情報を伝えたくないのかと私も困惑した。すれば話題を変える必要がある、と私が悩む間に、先輩が私らの方を見た。
「今日……」
……え?
「今日、だけど、あたしの誕生日」
梨琉と目を合わせる。さすがの彼女も驚いたみたいで瞬きを数回してみせた。
「ジャスト……今日ですか?」
「ええ。……自分から言いたくないけど、それを分かって渡されたのかと」
「いや、私たちほんとに知らなくて」
なるほど、先輩からしてみれば誕生日に突然何らかの理由をつけて後輩がプレゼントを渡してきたという構図になっていたのか。それで勝手に誕生日を祝われたと思っていたらそもそも誕生日がいつか聞かれてしまった。そりゃ困惑する訳だ。
そして私らもいつか祝うといった雰囲気と意思をもって話しかけ手前、今日だと聞いて即座に対応できず困惑した。
誰も不幸になっていないけど、講義室の空気だけが絶妙によどんでいる。
「あーっ! 桐華さん! 誕生日おめでとうございますっ!」
まっさきに梨琉が空気感の換気に挑んだ。
「10月だなんて……その、私の友達もたくさん10月の人いて、10月の人って多いですよね〜!!」
「クリスマスの10ヶ月後だからじゃない?」
「……」
「紗葵ちゃんヘルプッ!」
絶句していた私は梨琉の言葉で意識を戻す。
「じゃ、じゃあ今から誕生日パーティとか……」
「わーっ! 紗葵ちゃんナイスアイデア」
そこまでしなくてもと呟いた先輩も梨琉の『はしゃぎ』オーラには勝てないらしく、「そしたらご飯でも行く?」と長代先輩から提案された。彼女とは外食したことなかったので私の心は弾む。
完全に空気が晴れたそんな講義室で、突然梨琉のスマホが音を立てた。




