夏の過ごし方
塾の近くにある居酒屋『うぐいす』は時雨さんいきつけのお店で、どうしていきつけなのかと聞けばバイト終わりに1人で行くうちにそうなったとのこと。深夜1時まで営業しているので、最終コマがある日でも2時間は滞在できる。
注文したビール2杯と適当なつまみが届いて、時雨さんはさっきまで砂漠にいたのかと思うほどの勢いでジョッキ半分まで飲む。摂取した液体が血中をめぐるまでの生物学的な速度を無視して、口をつけた瞬間から時雨さんは頬を緩ませて幸福を味わっている表情を浮かべる。この人と飲んでると、ビールが美味しそうにみえてくる。
「テストはどうだった〜?」
思ってたより、面倒くさいでしょ〜、と時雨さんは揚げ豆腐に箸を入れる。その言葉には同意しつつ、あらかた単位は取れてそうなことを述べた。
「理系のことは私わかんないけど、やっぱり1年生から単位厳しいのかな?」
「いや、そんなにですよ。専門は少ないし、ほとんど文理問わない一般教養の授業ばかりです」
「じゃあ、さーちゃんフル単だ〜」
「すでに1個落としたんですけどね……」
「ええ〜」と驚いてから時雨さんはゲラゲラ笑う。別にそこまで面白くないとは思うけど、笑ってくれる方が助かる。
「出席サボりすぎたのかぁ〜?」
「小テストブッチしました」
「さーちゃん、1年生前記から大胆すぎない? でも実はそういうのが意外と将来大物になったり……」
「なんですか大物って」
「知らない!」
だいたいこの人も雰囲気で話すタイプだった。それでも一緒にいて不快には全くならない。時雨さんはずっと揚げ豆腐とだし巻きとチャンジャをつまんでいて、たぶん彼女のお腹を一番膨らましているのはビールの炭酸だと思う。それでジョッキが枯れるといつも2杯目からは純米酒を頼む。ゆっくり飲みたいかららしい。「日本酒は甘いからお酒が苦手な女の子にも最近人気なんだよ〜」と勧められたのが今日で6回目くらい。時雨さんは私を上戸にしたいんだろうけど、残念ながらその成長に私は追いついていない。
「お家で1人のときは飲まないの?」
「全く。お金もないですし」
「食費減らそ!」
「健康のこと全く考えてない……」
「いつ死ぬか分からないんだから、人生楽しい方向にいかなくちゃ〜」
彼女が話すと空気が柔らかくなる。私が初めてお酒を飲んだのもこのお店だったなと、ふと思い返す。初対面の日に2人だけで連れてこられたのだけど、気まずくなかったのは相手がこの人だったからだと思う。
「そういえば、さーちゃんまたしばらくしたら出勤途切れるんだね」
「お盆、帰省しようかなって思って。だから他の先生方に授業は持ってもらうことになると思いますけど……」
「そんなの全然気にしないで〜上の人らが頑張るからさあ」
「ありがとうございます。頼りになります時雨さん」
「私もお盆おうち帰るけどね〜」
「じゃあ時雨さんが頼りになるっていうのは撤回で」
「なんでぇ〜」
ちょっとだけ頬を赤らめて、時雨さんはおちょこに口をつける。それから、「やっぱり、家族と会えるのは大事だから」と私を見る。
「帰省していつも何してるんですか?」
「家族とおしゃべり」
「それだけですか?」
「そだよ〜」
「なんか、退屈しません?」
ゴールデンウィーク前半に寂しくなって1度帰省したときのことを思い出す。帰ってみると案外、浪人時代まで何してたんだろうと思うくらいに暇で、結局時間を無駄にしているような心地がするからこっちに戻ってきた。別に両親のことは嫌いじゃないが、それと退屈なのはあまり関係ない。
「後は地元の友達に会うとかぁ」
「それは予定入れました。家にいるとき、どうしよっかなあっていう」
「家でくらいゆっくりしてもいいんじゃないかなあ。私は妹がいるから、一緒に遊んでると暇しないよー」
「妹いるんですか? どうりで子供の扱い上手いと思った」
「え〜、なんていった〜?」
「妹いるんですか、って」
「違う、そのあと!」
「子供の扱いが、上手いなあと」
「えへへ〜。もっともっと褒めて」
「……2人姉妹ですか?」
「褒めてよ!?」
時雨さんはだいぶ気持ちよくなっているみたいで、その証に質問には返ってこず、蕩けそうな目で食べ物を眺めていた。いつも通りである。飲むペースも早いし、酔いが回るのも早い。
「さーちゃん、1人っ子だっけ?」
「言ったことないと思いますけど、そうです」
「あっ、じゃあ予想が真実だと思って確認しちゃった〜」
あはは〜と楽しそうに彼女は笑い声をあげる。
「さーちゃんに妹いたら超可愛かっただろうなあ。そしたら私生徒で持ってみたい。だってちっちゃいさーちゃんでしょ? ロリさーちゃん……。やばいかも」
「……妹ができても時雨さんには会わせないと今決意しました」
「えええ、さーちゃんそこは『お姉ちゃん』って言って見せてよお。––––妹がダメならもうお母さんしかないなあ、美人なお母さん!」
時雨さんはどうしても私の家族が見てみたいらしい。
知り合いの家族なんて気にしたことなかったけど、こう言われると意識し始めてしまう。梨琉のご両親とか、絶対整った人だろうし……。ああ、それこそ、長代先輩とか。
あの人が変なのは、遺伝子レベルなのか、教育の過程なのか、すごく気になるところだ。
◆
夏休みに会いにいっても、長代先輩は長代先輩だった。いつもどおり講義室は開いていて……いや、尋常なのはそこまでで、今日はいつにもまして変人であった。
「おつかれさ……何やってんすか先輩」
その異様な光景に私は自分の五感を疑った。まず耳から入ってくる情報がおかしい。南国風味漂う音楽が空間内で響いていることに気づいた。
次に目を疑った。長代先輩はビーチパラソルの下にビーチチェアを置き、そこで寝転がりながらコップ縁周辺の装飾が派手な『トロピカルフルーツジュース』と呼ぶに最適なドリンクを飲んでいた。さらにビーチチェアの横には大きめのプールまで置いてある。例のモニターにはマルト一行がいなくて、代わりに遠出しないと見られないような綺麗な海の映像が流されている。
1番驚いたのは、先輩が水着でその空間を楽しんでいたことであった。
「あら、理上さん。こんにちは。夏休み楽しんでる?」
周りをおどおどと眺めていた私に彼女はそう言った。サングラスをしているから目元は見えないけど、少なくとも口元は笑っている。彼女は美味しそうなジュースをまた飲む。
「楽しんでます……けど、先輩みたいな意味不明なことしている人に比べたら私はまだまだ遊びたりてないかもしれないです」
「ハジケてこその夏よ」
私は特に何も返さなかった。改めて周囲を見渡す。たぶん、この空間を海にしようとしているんだろうな、って思う。
「ここまでハジけるなら本物の海で良くないですか」
「遠いところ行くのしんどいじゃない」
「えーでも太陽とか潮の香りあってこその海ですよ」
「砂浜の日光は強すぎて日焼けするからダメ。海水浴場って暑いし。そのくせに水は冷たくて風邪引きそうでしょ」
たしかにこの部屋にはほどよくクーラーがついていて居心地は悪くない。プールの水に触れてみると温水であった。
「クーラーつけながら水着の方が風邪引かないですか?」
「これくらい余裕よ。海に直接行くことはまだまだたくさんデメリットがあるわ。まず人が多い。変なのに絡まれるかもしれない。観光客の入りまくった海水がどれだけ綺麗か分からない。あと浸透圧で喉が渇く」
「あっ、最後のやつ私小学生のとき自由研究でやりました。懐かしい」
浸透圧で喉が渇く、とは、私たちの身体よりも海水の方が塩分濃度が濃いために、『身体』と『周囲の海水』間で濃度のバランスを保とうとして薄い方から濃い方、すなわち私たちの身体から海水へと水が流出してしまい、結果として水分不足で喉が渇くという話だ。これを言い訳に海へ行きたがらない人は長代先輩以外に見たことがない。
「へえ、小さい頃は神童だったのね」
一瞬褒められたと思ってよく考えるとその発言は現在の私を貶めているだけであった。
「理上さんもプール入ってみる? 暖かくて心地良いわ」
「そもそも入りたくないですけど、仮に入りたくても水着がないです」
「下着で入ればいいじゃない。あたししか見てないし」
「下着と水着は全然違います!
「一緒でしょ」
「可愛いフリルの水着きた先輩が言っても説得力ありませんー」
「え、可愛い?」
サングラス越しにも彼女がドヤ顔をしているのが分かる。腹が立つ先輩だった。
「理上さんにはしゃぐ気がないなら、あたしも真面目な話をさせてもらうけれど」
言って先輩はモニターを切り替えた。マルトくんがいる。
「お、魔物狩ってますね」
私は自然とそう発していた。気づけば元々この世界で中学生をやっていた彼が剣と魔法の世界で魔物と戦っている様子、その現実性に、なんの違和感も抱かなくなっていた。
「そりゃあ、彼は世界の平和を背負っているから。与えられたチートでは対処できないかもしれない脅威に対して、彼は今たくさんの戦闘を経てレベルを上げようとしているの」
「へ、へえ……。大変ですね」
生きていれば彼は今頃高校生か。それこそ本当にこの世界の海でハジけた夏休みを楽しんでいたかも知れないのに、異世界にいくと勉強のしがらみから解放される一方でまとまった休みが取れなくて辛そうである。
「彼は望んでこの世界で戦っているでしょうから」
私の心を読んだみたいに先輩は呟いた。私と目を合わせて、「推測だけどね」と微笑む。飲み物がトロピカルなジュースからホットコーヒーに変わっていた。水着にマグカップは先輩だからギリギリ様になっているようなもので、本来ならミスマッチもいいところである。
「最近はずっとここでレベリングをしているの。私も学会が近くて忙しいからモニターを凝視しなくて済むのは助かるけど、ちょっと退屈ね」
この人は本当に異世界を眺めるのが好きなんだろうなあ、と感じていたら、先輩が「で、気になっているところがあるんだけど」と口を開き始めた。何かを調べようとしている合図だ。つまり私は実験させられる。
「この世界では、彼らのパラメータが数値化されていてね。冒険者は空間に手をかざせば自身の能力やスキルを数値上のデータとして確認することができる」
「すごい。中世かと思ってたら結構近未来だ」
「当然、戦う魔物の能力もフィールド上の雑魚敵くらいなら全て分かる。……それは一部の冒険者だけの特殊能力だけど、チートを持つ彼は分かる側の人間。それでね、彼は単位時間あたりの経験値が良い魔物を見つけて、パーティ強化のため狩り続けているの」
「なるほど。……いまのところは特に変だと思うところはありませんが」
「おかしいのはここから」
先輩は、モニター上で少年に駆られ続けている角が大きくて図体の小さな悪魔らしき魔物を指していった。
「この魔物は、ベテランの冒険者でようやく対等に戦うことができるような強敵で、経験値は1体につき1,260,000EXP。ゴーレムが100EXPだから1体でゴーレムのおよそ1万体分以上。彼は湧く頻度と戦闘相性を考慮してこの悪魔を狩り続けているのだけど」
ビーチチェアから起き上がった先輩が私の隣に立って机上に腰掛ける。改めてスタイルの綺麗な人だなあと思う。
「おかしいと思わない? 同じ魔物を狩り続けて、全く同じ経験が得られるなんて」
ほら、だって考えてみないさいよ、と少しずつ話すペースを加速させながら先輩は続ける。
「『人間』という種を倒して強くなっていくとするでしょ。そのときに、年老いた老婆と戦うのと、現役のプロ格闘家と戦うのとじゃ、自身の得られる戦闘経験値に大きな差があると思わない?」
「たしかに」
「でも、この悪魔はいくら狩っても同じなの」
「……遺伝型が強烈に保存されていて、かつ同じ環境で育ってるとか?」
「もちろん、その可能性は考えたわ。彼が今レベリングのためにキャンプを立てているこの高原周辺で悪魔は身内同士で交配し繁殖し、綿密に体系化された教育、食生活、睡眠サイクルでまったく同じ育ち方をする。そうすれば戦闘で得られる経験値は統一されるかもしれないと。……でも」
「でも?」
「この悪魔は高原から遠く離れた城下町周辺の洞窟にも出現するの。そこで得られる経験値も1,260,000EXP。育った環境は、確実に違うはずなのに」
「なるほど」
「だから、もしかすると同じ種から得られる経験値は同じかもしれないと思い始めて。つまり老婆も格闘家も実は倒した際の経験は同じ」
そこまで言ってから先輩は神妙な顔つきで眉間に手を当てた。
「ってことまで考えたけど、それを評価するための方法はまだ決まってないのよね……」
「はあ」
「想定される反論への対処とかも考慮すると、ちょっと一筋縄ではいかなさそうだわ」
「先輩でも行き詰まることあるんですね。まあ、そういうことわざたくさんありますし」
「美人にも悩みアリ、ってやつね」
「そんなのは一度も聞いたことがありませんけど」
「そしたら、美女の海流れね。ナンパされて難破もするなんて……」
この部屋はクーラーの風が直接当たって心地悪い。




