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異世界研究会へようこそ  作者: すあま
経験値は個体によって変動するか
20/35

バイト先の先輩

 テスト期間には、夏真っ盛りであった。


 この国が暑いのは5月からだ。加えて、7月末にもなると蒸し焼きにされそうなくらい湿気が高いし、セミはうるさいし、かといって屋内は空調が聞きすぎているのでカーディガンがないと寒くて面倒くさい。高3までは夏休みのスタートで心地よかった季節も、休みがなければただの地獄だと気づいた。


 そんな地獄の猛暑とレポート、テストの大群を乗り越えて、8月上旬。


 大学生も休みに入り、世間がお盆を意識し始める時期に、私は自転車を漕いで今日も大学に向かう。目的は、「再試のための勉強」。これさえなければ完全に休みだったのだが、それでも気分は悪くない。


 図書館に入ると埃っぽい空調の匂いが鼻をついた。これを匂いに夏を感じる私は現代っ子だ。おばあちゃん家や学校のエアコンも同じ匂いがした。


 この時期でも図書館は人で埋まっている。勤勉な学部生が多い……という訳ではなくて、大半はゼミや研究で来なければならない人たちだと思う。なんとなく表情がみな暗い。


 そんな重くて冷たい空気の中を歩いていって、図書館内の会話可能なコワーキングスペースへ入る。書庫よりもパステルカラー多めでデザインされた棚や机が置いてある部屋に、明るい雰囲気を醸し出す、小さくてワンピースを着た彼女がいた。


紗葵(さき)ちゃーん、おはよ〜」

「おはよ、梨琉(りる)。ごめん、遅くなっちゃって」

「全然大丈夫だよっ! 私も着いたばかりで何もしてないもん」


 ほら、と梨琉(りる)は何もない机を指す。「最初のやる気出すのが大変だもんねー」と微笑みあう。


 テスト前から、こうやって梨琉(りる)と2人で勉強することが多くなった。それは、梨琉(りる)が1人だと集中しづらいタイプだと言っていたのもあるし、私も梨琉(りる)と喋れるなら集まりたいし、お互い、多分ほかに気のおける学部内コミュニティを持っていないか、もしくは失ってしまったからでもある。


 テストが明けるとさらにその頻度は増えた。テスト期間中は受講している一般教養の違いで各々のレポートに集中したり、学部科目は望野さんやソシャゲ君、酒井などを交えて勉強したことが数回あった。今は『再試』という2人だけの目標に向かっているので、2人だけで集まる。梨琉(りる)は積極的に誘ってくれて、数日に1回は会っているように思う。私はそれが嬉しかった。


紗葵(さき)ちゃんはさ〜」


 真剣に過去問とにらめっこしているとき、梨琉(りる)が口を開いた。


「夏休み、何か予定とかあるの?」


 言われてふと考える。当然、私のスケジュールに充実した遊びライフが刻まれている訳などない。


「あー、特に何もないな。強いていうなら、お盆は帰省するけど」

「夏休みって、意外と暇だよね〜」

「そうなんだよね。長いし、ダラダラしてしまいそうで怖い……。梨琉(りる)は帰省しないの?」

「うーん、今の所は……」


 私は驚いた。1人暮らしは結構寂しいし、1年生のこの時期くらいは帰って親に顔を見せてやるのがスタンダードだと思っていたから。加えてYesと返ってくる前提で話を振ったので想定外の返事に困惑した。自分の会話力の弱さが情けなくなってくる。


「せっかくだし、こっちで色々観光してみよかな、とか考えてるの。引っ越ししてから、大学くらいしか行ってないし」

「すっごく楽しそう。それめっちゃいいじゃん」

「でしょ〜。お金なくなっちゃうけど」


 だからいまバイト詰め込んでるの、と梨琉(りる)は笑う。


「でもバイトは確かに」


 夏休みの予定、と聞かれて遊びが過ぎったので私のスケジュールは白紙だったが、それは暇を意味している訳ではない。


「私、基本的にバイトまみれだ。夏休み中にいっぱいお金欲しいし。実際明日も1日中バイトある」

「1日中!? 紗葵(さき)ちゃん偉いなあ」

「充実してない証拠だよ」


 私も別のバイトはじめよっかなあ、と梨琉(りる)はスマホで調べ始めた。そうすると会話が落ち着いてきて、2人ともまた机と向き合う。


 8月に集まったときはいつもこんな感じ。本当に勉強をすることがメインで、別に梨琉(りる)と遊びにいけるとかは全くなかった。


 その日も夕方に解散した。翌日の朝早くからバイトがあったから。



 私が5月に見つけたアルバイト先の塾はいま夏期講習に入っていて、生徒側も講師側も、普段と違うスケジュールで授業に参加することができた。夏期講習だけを取ってくれる生徒や、夏に詰め込むご家庭がいるので、ありがたいことに授業は朝から晩までずっと行われていて、講師の需要は高い。私のように稼ぎたい人にとっては助かる仕組みだ。


 学校みたいな集団授業じゃなくて生徒との1:1授業だから、私のような素人でも授業することができる。その代わり、勉強を教える能力よりも対人能力の方が求められる。別に勉強を教えるのが得意な訳はないけれど、じゃあコミュニケーション力が卓越しているかと言われればそんなことはない。


 だからたまーに困ることがあった。基本的には良い子が多くて、私はやりがいがあるけど、やんちゃな男子小学生とか親に無理矢理受けさせられたヤンキー女子中学生とかだと、向こうに映る私は『生真面目でつまらん女』になるから、微妙な空気感を捌くのに私の甘さが露呈する。


 午前最後の授業もそんな感じで悩みながら疲弊していた。


「さーちゃん、おつかれだね〜」


 そして私がそういった悩みを抱えてしまうには理由がある。同じ校舎で授業する先輩講師に、子供対応のプロフェッショナルがいたからだ。


「時雨さんおつかれさまです……。疲れました。……てか、お久しぶりじゃないですか」

「そーだよね〜。さーちゃんテスト前で通常授業いなかったしぃ、夏期講習も全然ダブらないから嫌われたのかと思ったあ」

「予定組んでるのはマネージャーですけどね……」


 会えてよかったよ〜、と彼女は私の後ろから抱きつく。大きな胸が当たって背中が柔らかい。


 ––––優木時雨。私が配属された校舎にいる、同じ大学でB4の先輩。たしか法学部だったと思う。私のここでの働き方の大半はこの人の指導に基づいている。ものすごく親切な人で、私がバイトに行くことに抵抗を抱かないのもこの人がいるおかげだった。他の講師の影響で、気づけば自然と「時雨さん」と呼ぶようになっていたくらいには親しみやすい。


「夏休みはエンジョイしてる?」

「まあ、ぼちぼちですね」

「またそんな誤魔化した言い方する〜。ちゃんと遊ばないとダメだよ〜?」

「でもお金ないですから……」

「そしたら私が連れてってやろう! ……あっ、生徒きた」


 時雨さんは慌てて講師専用の待機室を出て、予定より30分も早く着いた生徒へ声をかけにいく。ドアの向こうから、時雨さんの温かい挨拶が聴こえる。


 彼女は、端的にいうと『包容力』に長けた人だった。みんなのお母さんって雰囲気がする。長代(ながしろ)先輩もたまにお母さんっぽいところがあるけど、あの人が細かいところまで面倒を見てくる『リアルなママ』なのに対して、時雨さんはすべてを包み込む『概念化されたママ』というのが適切だろうか。いつもふんわりしていて、年齢層に合わせた話をするのが上手い。だから小学生から高校生まで色んな子に愛されている。


 今もこうして、早く来た生徒と30分お話している。雑談と言ってしまえば休憩と変わんないけれど、実際10歳前後も離れると価値観の相違が甚だしくって、そんな子と雑談するのはもはや仕事の一環みたいなものである。だから給与の発生しない時間帯にもこうしておしゃべりできる時雨さんはすごいなあと感じる。生徒は見慣れない子で、おそらく初めてだから緊張感を取り拭うために出ていったんだろうと思う。


 時雨さんが消えて静かになった講師室で私は昼食を済ませる。講師室の一端を見ると、時雨さんが買ったらしきコンビニのパンとレモンティーが、手のつけられないまま置かれていた。




 その日の午後は、13時から22時まで9コマ連続で授業があった。


 そうしてすべての授業を終わらせて、コミュニケーションの体力を使いきった私が講師室で突っ伏していると、授業を延長してから終わらせた時雨さんが入ってくる。


「お腹空いたぁ〜」


 最後の授業まで残っていたのは私と時雨さんだけ。ほとんどの講師は19以降にちらほらと帰っていった。


「最後の授業、すごい語ってましたね」

「だって元気だしてほしかったんだもん」


時雨さんは最終コマで受験への不安を抱く高校3年生に対して、当人の努力の偉大さを授業時間ギリギリまで熱弁していた。どこまでも生徒想いだと思う。あと体力がありすぎる。


「個人的な作業とかある? なかったら、もうお部屋の片付けして校舎閉じよっか」

「すぐ出られます。生徒の忘れ物だけ確認しますね」

「じゃあ私着替えよっかなあ」


 講師がスーツに着替える更衣室があるにも関わらず、時雨さんはその場で脱いだ。面倒くさいし私しか居ないからだろうけどそれにしても突然だから驚いた。


「なに見てんのさーちゃん?」

「え、いや、何も」

「あっ、分かったあ」


 はだけたブラウスだけの時雨さんの肌が、私のジャケットと擦れそうになるまでに近くなる。何が起ころうとしているのか予見する理性すら働かなかった。


「さーちゃん、寂しいんでしょ〜」

「……へ?」


 彼女は両手で私の頬に触れて視線を自らに合わせる。時雨さんは私よりちょっとだけ背が高い。


「夏休み遊べてないから、物足りなんだなあ。そうなんだなあ。私、分かっちゃった」

「別に私なんにも」

「分かった! そしたら時雨お姉ちゃんがご飯連れてってあげる!」


 そうしてその色気じみた格好を全く打ち消すように、時雨さんのお腹が音を立てる。


 この人はただ私とご飯に行きたいだけらしい。


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