梨琉の過去
しばらくして梨琉は目覚めた。寝ている家主の隣で緊張して座っているのも変な感覚だ。光のない梨琉の瞳が私を捉えた。
「紗葵ちゃん……? あれ、桐華さんは」
「先に帰ったよ」
「そか……。ちゃんとお礼言えてないや」
「お水飲む?」
「もらっていいかな?」
顔色は良さそうだった。そりゃあ、長代先輩のいうように身体的不調の原因は2日酔いだろうけど、私は20歳になったばかりでその感覚を知らないし、それよりは梨琉の心に残った傷が不安だった。
起き上がってベッドに腰掛け、小さい子みたいにコップを両手で持って梨琉は水を飲む。私は梨琉の前のカーペット上に座る。よく見たら彼女の服装はパジャマだった。先輩が脱がして着せたのかな。
「桐華さん、とっても優しい人だね。ご飯まで作ってもらっちゃった」
「あの人、何でもできるから」
「紗葵ちゃんが呼んでくれたの?」
「記憶ないけど……そうらしい」
私は苦笑いして自身の不可解な発言をごまかす。梨琉は特に踏み込まないで、静かに「ありがとう」とだけ呟いた。
「夜も、私の面倒みててくれたんだよね。桐華さんから聞いた」
「何もしてないよそんな。心配だったから側にいただけ。……本当に生きててよかった」
「私が勝手に飲みすぎただけだから」
梨琉が眉をひそめる。
今のは嘘だ。だって実際は2人に嫌がらせされてこんなことになっているのだから。
だけど、私も梨琉も昨日のことについて触れるのがタブーみたいに何も言わないで、なんで私はまだ部屋に残っているのか分からなくなってくるくらいに沈黙が続いた。
「私……いつもこうなるんだよね」
俯いたままの梨琉は言う。ちゃんと見えないけど、図書館の裏の茂みに隠れたときと同じ表情をしているように感じる。
「何がダメなんだろう、って思う。みんな自分の思い通りにいかなかったら怒るから、私は、みんなが幸せになれるように、誰にも嫌われない努力をしているのに、絶対誰かは私のことを嫌いになっちゃう。けれど、私に何が足りないのか聞いても誰も教えてくれない。……大学に入って、今度こそ、って思ったのに、今回も上手くいかなかった」
長代先輩の仮説に基づけば、それは梨琉が『ステータス豊富』だから、すなわちもっと欠点のある子になれば他人に好かれるだろうと伝えるのが論理的であるが、今の彼女にかける言葉としては限りなく間違っていると思う。かといって私が「ダメなところはないよ」と伝えたとしても、梨琉からしてみれば「何も教えてくれない」人間の1人にすぎないだろう。
梨琉は、みなに優しいんだ。だから向けられた優しさが自分だけのものじゃないって気づいたとき、きっと「可愛さ余って憎さ100倍」になる。かつて梨琉がミクとカナにも優くして私が納得いかなかったみたいに。
カナが梨琉を恨むきっかけになった例の飲み会だってそう。梨琉は男女隔てなく素で振る舞うし、その優しさのせいでカナの好きな人は梨琉への愛情を向けた。梨琉の無償の優しさが、コミュニティを崩す一端になった。
そうなると結局先輩の仮説に帰着するのかな、なんて考えつつ、私はまとまった言葉を思いつかないまま沈黙を破り始めた。
「梨琉には……別に悪いところなんてない、そのままで良いと思うけど、もっと、仲良くする人を選んでもいいんじゃないかな。……ほら、変に関係を築かなければ、好かれることもないけど、嫌われることもないから。興味ない人間は、梨琉を攻撃しようなんて絶対思わないし。梨琉は優しすぎて誰とでも仲良くできちゃうから、その分敵を作る可能性を増やしてしまってるのかも」
言い切って、それが本当に辛い思いをしている人間にかける言葉だったか思い直した。さっきから根本的な問題の解決に向かおうとして、どうも理性的になりすぎている気がする。先輩は、『梨琉を受け入れる』ことが私に与えられた仕事だと言った。
私の感情を、梨琉に伝えないと。
「だから、その、私はさ、いつでも梨琉の味方になれるから、付き合う人間はもちろん梨琉が決めていいけど、いざというときは私がいるってこと、忘れないでほしい。……ってことだけ伝えたかった。ほら、だってさ、私なんかと仲良くしてても、嫉妬する人とかいなさそうじゃん? ……はは」
私の乾いた笑いは幸運にも梨琉にとって恵みになりえたみたいで、彼女は顔を上げて私と視線を合わせた。
「紗葵ちゃんは友達想いだし、可愛いし、みんな大好きだと思うよっ」
その笑顔で私は照れて熱くなった。だらだらと紡いだ私の言葉を、たったの1文でカウンターする梨琉。彼女が馬鹿な男を釣れるのも深く納得である。
回復したように見える梨琉は立ち上がって伸びをする。それから大げさに「ああーっ!」と叫んだ。いつもの梨琉だ。
「てか、紗葵ちゃん、3限は!? 小テストあったのにっ!」
分かってたけど、忘れてたみたいに「ほんとだ!」とわざと驚いてみせた。
2人で「再試だね」と目を合わせる。再試に向けて勉強するなら夏休みも会えるかもしれないし、それなら私は落単程度なんの痛手でもない。
それに––––。
『そういえば、ミクちゃんって子の鞄からも化粧品いくつか抜いておいたから』
帰った先輩から送られていたメッセージを思い出す。
『あそこまで人の目を気にする子は雑なメイクで大学に来ないでしょう。今日の時間割は知らないけれど、化粧できないミクちゃんもスマホがない依存症のカナちゃんも大学は休むだろうから、出席点とかを逃してるなら彼女らとおあいこのはず』
先輩のおかげであの2人も道連れなんだ。2人とも有機化学は私たちと同じで落単。相対的には損をしていない。
「きっと私ら以外にも再試の子はいるはず。だからめげずに他のテストをがんばろ」
「うんっ! 明日から勉強尽くしだなあ……」
「梨琉が嫌じゃなかったら……その、これから講義後一緒に図書館とか行かない? ほら、梨琉、他人の目あったほうが勉強しやすいって言ってたし、私もその方がいいかなあ……みたいな」
彼女の大きな瞳が私を捉える。
「ええーっ! それすっごくいいと思う! 私そういうの憧れだったんだあ」
梨琉の笑顔は私を安心させる。
今度こそ本当に、誰にも邪魔されない2人だけの計画を建てることができた。
「遅くまで、ほんとうにありがとっ」
長居する理由もないのでそのまま部屋を出る。丁寧に梨琉は玄関まで送ってくれる。
玄関の辺りは電気がなくて暗い。うっすら見えるキッチンや洗濯機は、綺麗に掃除されていた。
「ねえ、紗葵ちゃん」
そんな薄暗い中で、梨琉の声が静かに響く。
「どしたの?」
「その、なんだか、変な話だけどさ」
見えなかったのか見ようとしなかったのか、暗いせいで彼女の表情はあまり分からなかった。
「紗葵ちゃんのことは、信じて、いいかな」
色んな感情がこみ上がって、こねたケーキの生地みたいに混ざりあう。
長代先輩の言う通り、今の梨琉は本当に不安定なのかもしれない。
暗い中で、私の表情が梨琉からは見えていることを祈りつつ、彼女を『受け入れる』ために笑顔で返す。
「あんま上手いこと言えないけど……私は梨琉と、仲良くいたいな、って思ってるから。だから、信じてくれていいよ」
良かった、とため息みたいに吐き出した彼女の言葉を噛みしめる。でもそれ以上言葉は出てこなくて、私は「じゃあね」としか言えなかった。




