目覚めと回想〜王子としての歩み〜
明日の18時に次のお話を更新します。
硬く閉じていた瞼がゆっくりほどける。
最初に触れたのは、粗くない麻と、よく乾いた木の匂いだった。
石の冷たさではない。温い——森のざわめきがかすかに耳をくすぐる。
(……ここは、どこだ)
上体を起こそうとして、脇腹が鋭く軋んだ。息が漏れる。
けれど、芯の方にだけは不思議と力が戻っている。眠りの底で全身を包んでいた、あの柔い光——回復の術。誰かが意図して、エリアスを眠らせ、繕ってくれた。
「……目が覚めましたか」
澄んだ低い声。視線を向けると、燕尾服の執事——のはずが、白く柔らかな“ウサギの耳”が頭に揺れていた。
人とも獣ともつかぬ姿に、一拍だけ言葉をなくす。
「……あなたは?」
「ただの従者にございます」
恭しく一礼して、彼(?)は淡々と告げた。
「主人は既に旅へ。……あなた様を手ずからお救いしたのは事実ですが、それ以上のご厚意は期待されませぬよう。——ただし、命の恩はお忘れなきよう」
差し出されたのは、丁寧に畳まれた衣。
裂け目は繕われ、血の跡は跡形もない。あの惨めな服が、きちんと“人の衣”に戻っている。
「……確かに、俺は——死んでいてもおかしくなかった」
思わずこぼれた独り言に、返事はない。ウサ耳の執事は淡々と続ける。
「一番近い村に、あなた様を探す騎士が来ております。このまま屋敷を出れば、すぐに合流できましょう。……主人は、しばらく戻りませぬ。ここでのことは“夢”と思われるのがよろしい」
夢。
そう言われれば、一切が幻のようにも思える。だが、耳は覚えている。
眠りの外から流れ込んでくるあの声——乾いた皮肉と、数字の温度を伴った新聞の音。
俺の“耳”は、一度拾った声を忘れない。
「主人は……どんな方なんだ?」
問うと、ウサ耳は淡い笑みだけを残した。
「ご自分で確かめられるとよろしいでしょう。次に会えるかは分かりませぬが」
それだけ言って、彼(?)は音もなく下がった。
丁寧に繕われた衣を身にまとい、急いで外に出る。
さっきまで寝かされていた部屋——木の温もり、乾いた薬草の匂い——そのすべてが扉一枚の向こうで霧みたいに薄れていく。
……妙だ、と思って振り返ったときには、もう何もなかった。
魔の森の木々が揺れるばかりで、屋敷も小屋も、痕跡ひとつ残っていない。
(転移の痕……隠蔽の結界……? こんな仕立て、王都の術者でも一握りだ)
胸の奥がざわつく。
残されたのは、繕われた衣と、あの声の記憶だけ。
(すぐに、必ず礼を言う。それと——)
誰でもない、眠っていたエリアスに向けられたあの問いかけに、行いで答える。
そう決めて、ふらつく足で村を目指した。風が前髪を揺らす。黒い髪が眼鏡に触れ、歩くたびに視界の端が暗く揺れる。
歩きながら、古い記憶が勝手にほどけていく。
物心つく前に母を亡くしてから、宮廷でエリアスを抱き上げる腕は少なかった。
剣も馬も“惜しい”“まあまあ”で、師範はやさしく見限った。「殿下は学問で」と。
学園に入っても、黒髪と長い前髪の陰気な見た目は、場に馴染まない印のように働いた。
——一方で、弟は太陽だ。笑えば皆が笑い、剣を振れば皆が続く。
「兄上は頭脳派、私は現場担当でいきましょう」
リチャードは笑って言った。
優しさに聞こえる。けれど、エリアスの耳には別の意味が刺さった。「お前には人を率いる力はない」。
提案は「理屈」、民の話は「迎合」。
——“冴えない陰の王子”。貼られた札は、いつの間にか自分でも剝がせなくなっていた。
それでも。
眠っていた間に降ってきた声は、エリアスに突き付けた。
胸のどこかで小さな火がともっている。これを消さないで学園に戻る。今度こそ。
森を抜け、灯りのともる村にたどり着く。
甲冑を鳴らす私兵が駆け寄ってきた。ノーフォーク公爵家の紋章。中立を貫いてきた大貴族だ。
「殿下!」
その背後から、小柄な影がまっすぐ走ってくる。
亡き王妃に仕えていた侍女——メイベル。
いつも無表情で、冷たい水面のような彼女が、エリアスを見るなり膝から崩れ落ちた。
「……殿下……!」
顔が歪む。頬を涙が伝う。
その声音に、胸が詰まった。エリアスは勝手に思い込んでいた。誰も、心から案じてはくれない、と。
「ご無事で……よかった……!」
彼女の手が、血の気のない俺の手を包む。
熱が伝わる。冷たくなっていた胸に、じんと温かさが滲みる。
私兵隊長が膝を折る。「ノーフォーク公は殿下の安否を第一にと。我らにお戻りを」
「……ありがとう」
小さく、しかし確かに返した声は、自分のものに聞こえた。
エリアスは一人ではなかった。
こうして無言で支えてくれる人は、傍にいた。
(応える。今度は、行いで)
王都に戻る頃には、宮廷はすでに“手当て”を終えていた。
内々の調査、決定的な証拠。第二王子の母——側妃は静かに離宮へ。
多額の資金の流れ、警備兵の密かな入れ替え、あの夜の不可解な独り歩き。
誰がどう見ても、糸の先は一つを指す。体裁上は“静養”でも、真実は火を見るより明らかだ。
「……もう、そこまで進んでいたのか」
馬車の窓の外で、王都の石畳が鈍く光る。
人々は口にしないが、皆、察している。
第一王子が行方不明となり、その直後の側妃の失脚。二つの点を結ばない者はいない。
「兄上!」
明るい声。
振り返ると、第二王子——リチャードが笑って立っていた。金の髪が、光を軽く跳ね返す。
「ご無事で何よりです。どれほど心配したことか」
母が失脚した直後だというのに、あまりに澄んだ声。
——俺には冷たく響く。
母親さえ盤上の駒にしたのか。側妃の失脚すら、彼の描いた一手か。
その想像が脊髄を冷やす。笑顔の裏の影は、以前より大きい。
王都は表面だけ日常を取り戻していく。
けれど、火種は消えていない。
王位継承、すなわちエリアスの命をかけた争いは、まだ終わっていない。
慌ただしかった夏が終わり、学期が始まった。
エリアスはもう一度、王立学園の門をくぐる。
かつてと同じ教室、同じ廊下——しかし、胸にある火は同じではない。
(——礼を言わなければならない人がいる)
あの声。乾いた皮肉の奥に、現場の温度を持っていた声。
エリアスの“耳”は忘れない。
紙をめくる小さな音、間の置き方。言葉の選び方。
——あの声に、もう一度、会いに行く。
階段を降り、一学年下の廊下へ。
角を曲がる前に、風に乗って声が流れてきた。
「この魔導式、やっぱり穴だらけですね。脳味噌が飾りでできているのかもしれません」
瓶底眼鏡の奥で光が跳ねるのが、見えるようだった。
(——見つけた)
エリアスは前髪を払って、眼鏡を押し上げる。
足が自然に前へ出る。
胸の奥の小さな火が、指先まで温度を運ぶ。
そして、廊下の先で、彼女は振り返る。
辺境伯令嬢——アリア・ブランデン。
爆発と計算で回す“変人部”の中心人物。
俺を救った“声”の主。
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