閑話(日常) 婚約の話は、甘い匂いのする場所で
旧実験棟のいちばん端。
夕餉も終わって人の気配が引いた校舎に、魔導研究部の部室だけがぽうっと明かりを落とさずにいた。机の中央では、試作品の守火ブロックが小さく息をしている。炎は見えないのに、手のひらの距離でじんわりと温かい。
セリーヌが淹れた香り高いお茶と、レポルトが隠し持ってきたクッキー。瓶底眼鏡を上げたアリアは、守火の温度変化を時折指で確かめつつ、珍しく本も新聞も閉じていた。
「――ところでさぁ」
クッキーの缶を抱えたレポルトが、いかにも「話題を切り出します」という顔で身を乗り出す。
「また縁談の手紙が来てたんだよね。うちの父上、毎回『三男だし自由にさせたい』って断ってくれるんだけど……」
「珍しく真面目な顔ね」
セリーヌがカップを受け皿に戻す。爪先まで整った所作は、どこか舞踏会の夜を思わせた。
「真面目だよ? だって僕、婿に出て領地を預かる器じゃないし。剣よりスプーンの方が似合うって自覚あるし」
レポルトはけろりと言って、頬をぽりぽり掻く。
「でも、いつか“お嫁さん”は欲しいなあ。僕と一緒に新作ケーキを半分こしてくれて、『今日のはちょっと甘すぎるね』とか言い合える人」
「理想が砂糖まみれなのはどうかと思いますが」
アリアが即答した。
「けれど“半分こ”の思想は悪くない。資源は分配してこそ意味があります」
「アリア、今だけは爆発と資源配分から離れなさい」
セリーヌが額に手を当てる。「甘い話は素朴なままが一番よ」
「甘味にも階層があります」
「そういうことを言うから“変人部”って呼ばれるのよ」
笑いが散り、湯気がやわらかく揺れた。
その空気の流れに乗るように、セリーヌが肩をすくめる。
「私?――私は“放置”よ。長女が婿を取って家を継ぐ。私は次女だから、基本的には自由。両親は『学園でいい人を見つけておきなさい』なんて言うけれど……」
かすかに目を伏せ、つ、と微笑む。「この部活以外に親しい人、皆無だから」
「それは誇っていいのでは。魔導研究に全振りしているということですから」
「誇らないで。社交の点数がゼロってことよ」
アリアは首を傾げ、新聞の端で守火の位置を調整した。
「私は……長兄が家を継ぎます。父母は若干諦め気味。兄たちはシスコンなので『ずっと家にいていいよ』と。領地の冬は厳しい。研究も実地投入できるし、強制されないならこのままでも」
「待って、ちょっと羨ましい」セリーヌが目を細める。「“ずっと家にいていい”は甘やかしの極みよ」
「実験の爆風で門扉が飛んでも笑って許される環境、と言い換えましょう」
「やっぱり極みだわ」
三人の視線が、ふいに同じ場所を向いた。
黒髪の前髪を指で払って、眼鏡を触る癖。エリアス――第一王子ノイシュタット家の長子は、カップを持つ手を少しだけ下げた。
「……私には、婚約の話は一度も来なかった」
軽く言ったつもりなのに、声は思ったより静かだった。
「後ろ盾のない“残念な王子”に価値を見いだす家はない、ということでしょう。第二王子には山ほど話があるのに」
淡々とした自嘲。
(本当は、少しだけ胸が疼いた。――私は“駒”にさえならないのか、と)
レポルトが固まった。「えっ……みんないないの? 普通この歳だと何人か候補が……」
「やめて」セリーヌが制した。「変なジンクスが立ったら、新入部員が減るじゃない」
「『婚約者がいない人は魔導研究部へ』って?」
アリアが首をかしげる。
「それは人道上いけませんね。“婚約者いない部”に改名します?」
「やめろ」三人が同時に突っ込む。
部室の壁がくすくす笑いで震え、守火が小さく明滅した。
笑いが落ち着いた頃、セリーヌが軽く指を鳴らした。
「じゃあ――クラブ発表会後の打ち上げ舞踏会はソロ同士で参加しましょう。テーブルのお料理を攻略するの。誰かの手を取る代わりに、フォークとナイフを」
「賛成!」レポルトが即答した。「デザートの列、最後まで制覇しよう!」
「爆発しなければ良いですが」アリアは無表情で言って、しばし沈黙。「――爆発はしません。たぶん」
「今の“たぶん”はなんだ」
エリアスの口元に、知らず笑いが浮かんだ。(あんなに嫌だった舞踏会に行くのが、ほんの少し楽しみだと、今は思える)
「それにしても」
レポルトがふと真顔になって、守火に手をかざす。
「僕ら四人とも、誰のものでもないって、ちょっと不思議だね」
アリアが静かに言葉を置く。
「――だから、自由です。誰かの駒になる前に、自分たちの実験を世に問える」
エリアスは小さく息を吐いた。(自由、か。王族にとって、それは一番遠い単語のはずなのに――この部屋では、手の届く場所にある)
セリーヌは微笑に翳りを混ぜた。
「自由って、責任と対になっているのよ。守火を出すなら、見せ方と価格まで背負って提示する。『買える温もり』に落とし込む。私の役目ね」
「僕は甘い匂いを足す係!」
「レポルト、香煙石の在庫を数えてから言いなさい」
「はーい!」
わいわいとした声が、長い廊下に漏れて消える。
ひと段落して、アリアがカップを置く。
「では、婚約のまとめ」
「まとめるの!?」
「現状把握は大切です。誰もいない。以上」
「以上か」
「以上です。――だからこそ、今は研究に集中できる。発表会で誰かの心を動かせば、縁談も研究費も勝手についてくるかもしれません」
「それ、現実的で好き」セリーヌがうなずく。
「研究費が増えたら、僕、市井向けの守火屋台をやってみたいな。冬の広場で、手を温めてもらうの!」
「屋台許可と安全規定の資料は私がまとめます」
「ありがとうセリーヌ! 結婚して!」
「まず屋台を出しなさい」
笑いがまた弾ける。
エリアスは、湯気の向こうの三人を見渡して、心の中でそっと言う。(――ありがとう。俺の“残念”を笑い飛ばして、同じテーブルに座らせてくれて)
「では決定です」セリーヌが指を一本立てる。
「クラブ発表会の後の舞踏会は、四人でソロ同盟。おいしいお料理を攻略して、甘味は全制覇。ワルツは――」
「手が空いていたら、でいいでしょう」アリアがあくまで実務的に言う。
「爆発は」
「しません」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶん、の幅を狭めてくれ」
アリアが守火の灯皿を両手で持ち上げ、机の端にそっと移す。
「……残念な王子は、残念ではありません」
唐突に、彼女は言った。
「駒にならないというのは、自分で進むということ。導火線を他人に握られていない。それは、研究者にとって最高の自由です」
エリアスは目を瞬いて、それから、ゆっくりと笑った。
「――ありがとう」
(ここでは“俺”のままで、“私”としても話せる)
廊下の向こうで、遠い拍手が聞こえた。誰かの練習が終わったのだろう。
部室の灯は落とされ、守火の余熱が夜気にやわらかく溶けていく。
四人はそれぞれの帰路につき、扉が閉まる直前――レポルトが顔だけひょいと戻した。
「ねえねえ、“婚約者いない部”の件だけど」
「却下です」三人が同時に言った。
「ですよねーっ!」
ばたん。
静かな廊下に笑い声の余韻がしばらく残った。
――婚約という鎖から少し離れた夜。
けれど、結び目は、ここにある。
守火のように長く続く温度で、四人の手のひらに。
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