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夕暮れの貧民街と、甘い願い

いつも読んでいただきありがとうございます!

明日も22時投稿予定です!

 

 その日は、朝練を終えていつも通り授業を受けた。

 呼吸法の実技で肺を焼き、魔導理論の小テストでレポルトとセリーヌがほどよく沈み、鐘が放課後を告げるころには教室の窓に橙が差し込み始めていた。


「――行きましょう」

 アリアが新聞を畳み、瓶底眼鏡のブリッジを押し上げる。「香りづけの“香煙石”と、色の基材“彩炎草”。正規市場は品切れ。寒波の前兆で山が凍って採取が難しく、流通は細ったままです」


「少し暖かくして行ったほうがよさそうね」

 セリーヌがショールを肩にかけ、息を細く吐く。


「僕、帰りにパン屋さんに寄りたいな〜。甘いのを見るだけでも元気出るから!」

 レポルトは、相変わらず場違いに明るい。


 エリアスは長い前髪を指で払い、黒縁眼鏡を押し上げた。

民のために存在する王族であるはずなのに、初めての場所へ行くことに躊躇している。


(怯えるな。気を引き締めろ)


 王子である前に、今の僕は“魔導研究部の一員”なのだから。



「参りましょう。貧民街に」

 静かに告げると、アリアは短く「はい」と頷いて先頭に立った。




 王立学園の裏門を出てしばらく進んでいき、白く磨かれた石畳の表通りから一本外れる。

 そこから先は、見る間に景色が変わる。石は割れ、泥は靴に絡み、家々は肩を寄せ合い、生活の匂いが層を成して風に運ばれた。獣脂、湿った木材、古い布と人の汗――そこに焦げたパンの香りがかすかに混ざる。


 ここは“貧民街スラム”。

 王都の華やかさの裏側に、すぐこうした陰がある。決して裕福ではない平民が今日を生きる手段を見つける場所だ。人々は素早く歩き、立ち止まる者は少ない。何度目かの冬を、今度こそ越えるために。


 アリアは迷いがない。井戸端の老婆に軽く会釈をし、荷車を押す青年と目で合図を交わし、駆け出してきた子どもの肩をそっと押して道の端に寄せる――この場所に“体温を預けている”人の動き。


「あなた、本当に慣れているのね」

 セリーヌが目元だけを覗かせて言う。


「辺境では、必要なものは自分で探して、買って、運びます」

 アリアは淡々としている。「――誰も用意してくれませんから」


 路地の先で、焚き火の輪が揺らいでいた。

 痩せた子どもたちが身を寄せ合い、母親は煤で咳をしながら薪をくべる。薪といっても、もう細枝ばかりだ。山が凍り始めれば、これすら尽きるのだろう。老人は薄い外套を合わせ、戸口に立つ男は指の感覚を確かめるように拳を開閉していた。


(……これが“寒波が来たら凍える”という意味)

 新聞の活字だったはずの言葉が、焚き火の赤や子どもの咳という温度と音をまとって、エリアスの眼鏡の奥に突き刺さる。

(あの夜の“説教”は、理屈じゃない。現実だ)


 そのとき、レポルトがポケットから小さな包み紙を取り出し、路地の角で膝を抱えていた子に差し出した。

「甘いの、食べる?」

 細い指が戸惑いがちに伸び、次の瞬間、顔が花のようにほころぶ。

「ありがとう」

「うん。――お腹、少しは嬉しくなるよ」


 黙って見守りながら、エリアスは風の中から“拾うべき声”を拾い上げる。王族に生まれた者は、目か耳か口のどれかが人並み外れているという。僕は“耳”だ。

「薪が……高くて買えない」「去年、霜の夜に隣の家の子が……」「山が凍ってる。草も石も、もう取れねえ」「炭問屋が値を上げたらしい」

 断片が正確な輪郭をもって胸の中に並び替わっていく。紙の上の“寒波”が、指先に触れられる温度を帯びはじめた。




 路地の奥、剥げた看板の古道具屋が口を開けている。

 「薬草」「道具」「雑貨」――手書きの文字が重なる。扉を押すと、乾いた鈴が一度だけ鳴った。棚には古い器具、乾いた草束、割れたガラス瓶。奥の卓では片目の潰れた老人が数珠玉を繋ぎ直していた。


「彩炎草と香煙石を」

 アリアが切り出す。


 老人の残った片目が四人を順に舐めた。

「あるにはあるが、高い。山は凍り、谷は霧。採りに行く命知らずが減った。次がいつかも分からん」


 セリーヌが一歩前へ出る。冷たい美貌に、交渉の温度が宿った。

「理由は理解しました。ですが“足元を見る”値には応じませんわ」


「嬢ちゃんの言う足元は、貴族様の靴か? この穴ぼこだらけの石畳か?」

 老人は唇の端だけで笑う。


「どちらも、です」

 セリーヌは微笑む。「次も続く価格。あなたも私も笑える価格。――足元を踏み抜かない唯一の道です」


 老人の喉の奥が低く鳴った。虚勢の芯に、かすかな安堵。悪どい商売ではない――生き延びるための値付けだ、エリアスの“耳”は告げる。


 アリアは香煙石の袋に軽く触れ、さらに問う。

「粒が細かいものと粗いもの、どちらが“火の残り”が長いですか? 湿気を吸いにくい袋も付けられると助かります」


 老人の片目が細くなる。

「嬢ちゃん、焚き火の底を長持ちさせる工夫をするつもりだな」


「ええ。寒波の夜に、焚き火が“ひと呼吸ぶん”でも長くもてば節約になりますからね」

 アリアの声音は淡々としているのに、なぜか胸の奥が熱くなる。


 やがて布袋が二つ、卓の上に置かれた。

 淡い緑の彩炎草、灰色の小石がいくつも入った香煙石。アリアは香煙石を一つ手に取り、布の上で軽く擦る。甘い果実のような香り、最後に焦がし砂糖の渋みが鼻の奥に残った。


「混ぜものなし。上等です」


「だろうとも」老人は鼻を鳴らす。「山の岩肌はもう白い。命を落とす奴も出る」


「なら、命に値段は付けられませんわね」

 セリーヌは静かに頷き、合意の手を差し出した。「――今日は、こちらの提示で」


 荷を運ぶのを手伝うと言い出した若い衆に、アリアは手際よく指示を飛ばす。

「リック、石は落とすな。ドノヴァン、彩炎草は湿気厳禁」

「へい、姐さん!」


 “姐さん”。この街でのアリアの呼ばれ方に、その他のメンバーは目を瞬いた。

机に齧りつく研究者の顔の下に、埃っぽい風の中で生きる顔がある。



 店を出ると、黄昏の風がひときわ冷たかった。

 まだ夏だというのに、影に入るだけで肌が強張る。広場の焚き火の輪で、幼い子どもたちが身を寄せ合っている。母親の指は赤くささくれ、老人は薄い外套を合わせて咳をした。


 エリアスは立ち止まり、同じものを見、同じ空気を吸った。

 そのとき、レポルトがぽつりと言う。焚き火の橙に照らされた横顔で、彼は当たり前のことを言うみたいに――けれど遠くまで届く声で。

「僕、この国の子どもたちが――みんな甘いお菓子を食べて笑顔になれたらいいな〜」


 一拍。レポルトの言葉は、冗談めいて聞こえない。痩せた肩、必死に火に手を伸ばす姿を見た直後だからこそ、まっすぐ胸に落ちてきた。


「……みんなが甘党ではないですよ」

 アリアが即座に現実を添える。けれど、瓶底眼鏡の奥の瞳はほんの少しやわらいでいた。


 セリーヌが笑って、言葉を足す。

「でも、“甘い”って、お菓子の味だけの話じゃないのよね。暖かい寝床、風を防ぐ壁、ひとかけらの余裕。――笑顔のための“甘さ”は、糖分では測れない」


 アリアは指を一本立てた。

「観測項目を決めます。火の立ち上がり時間、爆ぜる直前の音、灰の保温時間。持ち運びの可否は“まだ”結論づけない。発表会はあくまで花火ですから」


「うん。灰で手を温められるなら、小さく配れる形も、そのうち……!」

 レポルトが拳を握る。


 エリアスは黒縁眼鏡を押し上げた。(測るんだ。見世物と同時に、明日を延ばす“熱”を。花火で空を照らし、灰で手のひらを温める)

「……やりましょう」気づけば口が勝手に動いていた。「花火も、灰も。――私達にできる“甘さ”を、冬の前に間に合わせる」


 アリアがうなずき、セリーヌが新しい頁を開き、レポルトが満面の笑みで親指を立てる。小さな輪の中で、意識が同じ方向へすっと向いたのを、はっきり感じた。





 貧民街を抜ける道すがら、私達はそれぞれ“仕事”をした。

 セリーヌは炭問屋の値札の推移をメモし、レポルトは彩炎草の匂いと色の対応を嬉々として書き留め、アリアは香煙石の粒度と燃焼の癖を小さな表で整理する。

 エリアスは聞こえた声を丁寧にノートへ落とした。入荷頻度、産地、凍結の速度、風向き、湿度、火力、灰――線が結ばれていく。爆ぜる直前の燃焼音、“呼吸”を聞き分ければ、長く熱を持つ灰が取れる。副産物は、火になりうる。焚き火の底に潜ませる、目に見えない延命の火種。


 そのとき、足音が追いかけてきた。先ほど、焚き火の輪にいた少年が小走りで近づき、両手で抱えた包みを差し出す。

「これ、落としたよ。ノート。大事なものでしょ!」


「ありがとう」

 エリアスが受け取ったノートの角には、泥の指跡がついていた。



「――もし、焚き火の番をするときは、灰をすぐ捨てないで。少しだけ布に包んで取っておいてください。長く温かさが残るはずです」

 アリアはできるだけ丁寧に、言葉を選ぶ。


「ほんと?」

「はい。」


 少年は笑顔で立ち去って行った。影が暗がりに溶けるまで、4人はしばらく立ち尽くす。




 部室に戻ると、四角い机の上に袋を二つ並べた。

 アリアは彩炎草を一本取り、石皿の上で火花を弾く。ぱちり。甘い煙がふわりと立ち、最後に舌の奥に残る苦みがかすかに香った。


「――よく燃える。明後日、授業に支障のない朝一の枠で発火一段階目の試験。並行して、副産物の灰の“保温性”試験を行います」

 アリアが手帳をとん、と叩く。「条件:石種別・粒度・湿度。評価:手指温感の持続、火傷リスク、煤移り。生活実装は急がない――でも、“冬が来る前”に最短距離で辿り着く」


「舞台で星を打ち上げながら、舞台裏で火種を配るのね」

 セリーヌが髪を払って笑う。


「見た目は花火、中身は冬越し。最高だね!」

 レポルトが親指を立てる。


 笑い声が、薄く冷えた夕刻を少しだけ甘くした。

 僕はノートの余白に大きく書く。

『仮説:細粒の灰+布包み=手指保温(十分以上)。次回試験で計測。配布可能形状は発表後に検討』


 瓶底眼鏡の奥で、アリアの瞳が満足げに細められた。

「いいですね。いまは観測、結論は急がない」


 胸の奥に、小さな火がともる。

 大げさな炎ではない。けれど、雪の夜に手のひらを温める、たしかな熱だ。


(――見えてきた)

 王都の光と影。貴族の舞踏会と、貧民街の焚き火。どちらも同じ地図に載っている。これから僕が歩くべき道も、きっとそこに引ける。



(侮る者がいるなら、私が前に立つ。無関心が凍てつくなら、私が割る。――仲間と、この街の冬のために)

エリアスの心にもまた炎が灯る。



 窓の外で、細い風が鳴った。冬は近い。

 けれど、その手前に、甘い願いが一つ、確かに置かれたのだ。

 それは、誰もが甘党ではない世界で、それでも笑って生きられるための――ひとかけらの“余白”。

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