最終話 目覚め(N)
目を開けた瞬間、天井が視界に広がった。
白い。冷たく、何も語らない色。見慣れている気もするし、初めて見るようでもある。瞬きを繰り返しながら、ぼんやりと光の具合を確かめる。
窓辺から射す淡い朝日。壁際の棚。机。小さな照明。
――ここは、どこだ?
喉の奥に、疑問が澱のようにたまっていく。家具の形も、部屋の輪郭も分かるのに、それが自分のものであるという確信がどこにもない。
昨日何をしていたのか、誰といたのか、どこに帰るつもりだったのか――そのどれもが、霞の向こうだ。
名前。僕の名前は……。
思考が途切れ、胸の内に冷たい穴が空く。指先がひやりと湿る。
そんな時、ドアノブがゆっくり回る音がした。
「……あ、起きてたんですね」
小柄な女の子が、静かに部屋へ入ってくる。銀色の短い髪が朝の光をはじき、淡いワンピースが揺れる。微笑みを浮かべているのに、その輪郭はどこか現実味を欠いて見えた。
「顔色、あまり良くないですね。体調は大丈夫ですか?」
言葉が喉につかえる。どう説明すればいいのか分からない。結局、かすれた声で吐き出す。
「……僕、何も……覚えてないんだ」
彼女はほんの一瞬だけ目を見開き、それからすぐに落ち着きを取り戻す。
「……記憶、が……ですか?」
「うん。名前も、ここがどこかも……全部」
沈黙ののち、彼女はベッドのそばに歩み寄り、椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「……大丈夫です」
その声はやわらかく、まっすぐに僕を包み込む。
「私が、あなたを支えますから」
理由もなく、その言葉を信じてみたくなる。
「……僕のこと、知ってるの?」
「はい」
彼女は優しく頷く。
「あなたは、二階堂拓海さん。そして私はセレス。あなたの恋人です」
恋人。初めて聞くはずの響きなのに、胸の奥に小さな温もりが灯る。証拠は何もないのに、その温もりは確かにそこにあった。
彼女の髪が朝光を受けて、やわらかく揺れる。その光景は、記憶の空白の中で唯一鮮やかに焼きついていく。
「……そっか」
自分でも驚くほど小さな声がこぼれる。
彼女は静かに微笑み、枕元のグラスに水を注いだ。
「焦らなくていいんです。少しずつ、思い出していきましょう」
その声が、記憶の代わりに僕の中を満たしていった。
逃れられない何かが、そっと首に絡みつくように。