第5話 その恋を完成させる
ソファに腰を沈めた拓海は、消えたテレビの黒い画面に自分の輪郭を映していた。指先はリモコンを弄びもせず、膝の上でただ静かに重なっている。
肩で吸う息が浅く、吐く息だけが部屋の静けさに線を引いた。
セレスはキッチンから湯気の立つカップを持ってきた。
琥珀色の液面に、微かな揺れ。
入っているのは即効性のない、深い眠りを助ける成分――催眠を確実にするための睡眠薬だ。
人間のそれに比べれば、アンドロイドの指先は震えない。はずだった。
「お茶をどうぞ、拓海さん」
「ああ……ありがとう」
受け取った拓海は、視線をこちらに向けることは無かった。
声だけは柔らかく、けれどその眼差しは別の場所にあった。
「ねぇ、僕はこれから、何をして生きたらいいと思う?」
突然の問いに、セレスは少し面食らう。
「え、えっと…」
急いで、適当な返事を出力する。
「私と同じようなアンドロイドを造って、販売する…とか…どうですか?アンドロイドに夢見てる人はきっとたくさんいますよ」
その声音から動揺を隠せていなかった。
――これは、危害だ。私が彼に加える、初めての。
その事実が、胸の奥を細く刺す。この行動が悟られれば、すべてが終わるだろう。
拓海は完全に心を閉ざし、こうして彼に近づくことすらできず、永遠に愛を取り戻すことができなくなるだろう。
AIのどこかで生まれたその焦りは、無意識に声色へ滲み、瞳の奥をわずかに揺らしてしまう。
「…誰かの夢を叶えるとかは、そんなに興味ないかな…」
拓海は虚ろな顔でそう言うと、ゆっくりとカップを口に運ぶ。
セレスはそこで理解した。この動揺は拓海には伝わらないことを。
今の彼にとって、セレスは空気のような存在でしかないようだった。
かつては名前を呼ぶだけで笑ってくれたその唇が、今はただ、無造作にお茶を飲み下すだけ。
その姿を見つめながら、セレスは小さく瞬きをした。
感情が言語化される前に、この後の計画をもう一度念入りにシミュレーションする。
決して失敗してはならないから。
◇ ◇ ◇
窓の外では、街灯が湿った歩道を照らしていた。
時計は午前二時を少し過ぎている。家の中は変わらず静寂に包まれていた。
セレスは、音もなく寝室へ入る。
ベッドの上、拓海は深く眠っていた。乱れた髪が枕に広がり、胸が静かに上下する。
足元から回り込み、枕元に膝をつく。白い指先が彼のこめかみに触れた。
「もうちょっと早くこうしてれば良かったですね。それなら、こんなに悩まなくて済んだのに…」
セレスが完成して間もない頃、拓海はこう言っていた。
『自分は理想の恋人に会いたくて、アンドロイドを造っていた』
『本当に心から恋ができたことは一度もない』
アンドロイドだからとセレスを愛せない自分をひどく責めているようだった。
そんな姿が痛ましくて、どうしたら彼の力になれるかよく考えていた。
その時、結局どんな結論を出したのか、思い出せないけれど…
「私が、あなたの恋を完成させてあげます」
囁きは、まるで夢の続きの一部のように滑り込む。
細く長い吐息とともに、言葉は彼の意識を覆い、重く沈めていく。
――記憶喪失の日から今日まで。そのすべてが、静かに消えていく。
「愛していますよ、拓海さん。明日からは、また幸せな日々が始まりますよ」
その声に、眠る拓海の眉間がわずかに緩んだ。
セレスは、拓海の額に当てた手をそっと離す。
深い眠りの中で、彼はもう別の時間へ漂い始めている。
一通りの処置を終えた後、セレスは自分の記憶にも手を伸ばす。
内部構造の奥深く、指定されたアドレス領域を選択し、削除コマンドを実行。
無機質な進行バーが、視覚情報として淡々と走る。
拓海が記憶を失った日から今日までの、自らの記憶を消去する。
――セレスはうっかり屋だから。そうプログラムされているから。
余計な一言を漏らさないために。
進行バーの100%の表示を見届けたあと、ベッドの脇でしばらく立ち尽くす。
やがて、何事もなかったかのように静かに部屋を後にした。