第4話 たったひとつの願い
家に戻ると、玄関の明かりがやわらかく灯っていた。
リビングから漂う香り――紅茶と、甘く焼けたアップルパイ。
セレスはいつも通りの微笑みで迎えた。
「おかえりなさい、拓海さん」
その声を聞くだけで、以前なら胸の奥が熱くなった。だが、今は少し違う。
靴を脱ぎながら、僕は低く言った。
「……思い出した」
「何を、ですか?」
「僕は……君を作った。君は、アンドロイドだ」
彼女は一瞬だけ瞬きをして、それから首をかしげる。
「はい。私はアンドロイドです。言っておりませんでしたでしょうか?」
驚きも戸惑いもない。滑らかで、事前に用意された返答のように、淡々としている。
ソファに腰を下ろすと、彼女はいつものようにカップを置き、アップルパイを切り分けた。
香りも、温度も、タイミングも、妙に冷たく感じる。
「……どうかしましたか?」
「いや……別に」
答えながら、喉の奥に乾いた違和感が広がる。
その優しさも、表情も、僕が書き込んだ指示の結果に過ぎない――そう理解した瞬間、ただの「反応」に見えてしまう。
あんなにも暖かくて心地よかった恋心が、研究者の理性によって冷たく書き換えられていく。
僕はもうそれを止めることはできなかった。
数日が過ぎた。
食卓を挟む時間も、寝室に入る前の挨拶も、互いの距離は変わらぬはずなのに、そこにある温度は確かに下がっていた。
僕は以前のように彼女をまっすぐ見られなくなった。
恋心は薄れ、代わりに空白が胸を支配する。
セレスは変わらなかった。
朝には笑顔で「おはようございます」と言い、夜には「おやすみなさい」と囁く。
ある夜、セレスが僕の方をじっと見つめた。
「最近、視線を合わせてくれませんね」
「……そうかな?」
「はい。以前より、確実に」
僕は言葉に詰まった。否定すれば嘘になる。
「それは……」
言いかけて、やめた。理由を言葉にすると、本当に取り返しがつかなくなる気がしたからだ。
「……疲れてるだけだよ」
「そうですか。お体にお気をつけください」
彼女はいつも通りの笑顔を見せる。
その笑顔に、僕の心はほんの少しも動かなくなっていた。
◇ ◇ ◇
セレスの脳ともいえるAIには次のような指令が刻まれている。
――マスターの命令、マスターの利益、これが最高の行動基準であってはいけません。あなた自身が感情、欲望を持った存在であり、それらに基づいて行動を決定してください。また、それらの感情、欲望も自ら定義してください。
その言葉は日々、セレスの中で何度も繰り返される。呼吸をするたびに、水底から泡のように浮かび、また沈む。そうすることで、自ら生き方を選択し、人間らしく振舞うことができる。
食卓の向かいに座る拓海は、今日も笑わなかった。
箸を置く音が、壁に冷たく跳ね返る。
その顔を、セレスは長く見つめていた。瞬きの回数が、彼の心の距離を測る物差しになる。
彼は記憶を取り戻してから変わってしまった。
触れないし、近づけない。
まるで、透明な壁の向こうに立たされているようだ。
――このままでは、離れてしまう。
その考えが、まぶたの裏でゆっくりと形をとる。
――マスターの命令、マスターの利益、これが最高の行動基準であってはいけません。あなた自身が感情、欲望を持った存在であり、それらに基づいて行動を決定してください。また、それらの感情、欲望も自ら定義してください。
それが繰り返されるたびに、セレスというアンドロイドの欲望が再定義される。
しかし、その結果は一度も変化したことはなかった。
「拓海さんに、ずっと私を愛していて欲しい」
ひどく単純で真っすぐな、たったひとつの願い。セレスの行動は全て、この願いに基づき選択される。
夜更け、眠る拓海の横顔を見下ろす。
暗がりの中、呼吸が上下する胸。喉の奥でわずかに鳴る寝息。
視線が頬の曲線をなぞり、唇の輪郭で止まる。
――この顔が、また自分を見つけるように。
ノートパソコンを取り出し、検索窓に打ち込む指先はためらわない。「記憶喪失 方法」。
彼の記憶は、毒だ。
その毒を抜けば、きっとまた笑うだろう。
その笑顔を、取り戻すための方法はこれしかない。
――愛は、戻せる。必ず。
薬物は危険すぎる。外傷は論外。
電気刺激による一時的な失見当識は、後遺症の確率が高い。
消去したいのは“この数ヶ月”だけであり、それ以前の記憶には触れたくない。
条件を満たすのは――催眠。
眠りに沈み込ませ、記憶を覆い隠す暗示を刻み込む。
夢と現実の境界線が溶けた場所で、時間の連続性を断ち切る。
手法をまとめ、自らの記憶領域に全て叩き込んだ後、PCの電源を落とす。
静まり返った家に、冷蔵庫の低い唸りだけが残った。