第3話 記憶の扉
「今日はいい天気ですよ、拓海さん」
クロワッサンの香りと共に、セレスの澄んだ声が耳に届く。
陽光を浴びた彼女の髪は、銀糸のように柔らかく揺れていた。
僕はカップを置き、何とはなしに口にする。
「……散歩、してこようかな」
彼女は微笑んで頷き、エプロンの裾を指で押さえながら言った。
「良いと思います。私は今日はお掃除をしちゃいたいので、家にいますね。行ってらっしゃい。帰ったら、お茶にしましょうね」
玄関に掛けられた鍵束を手に取り、玄関を出た。瞬間、空気の匂いが変わった気がした。
陽射しは穏やかで、風はやや涼しく、頬を撫でる。
ただ歩くだけのつもりだった。だが、気づけば足は大通りを外れ、人の気配がまばらな路地へと進んでいた。
「……何だ、これ」
自分でも理由がわからない。
けれど、奥へ行けば行くほど、胸の奥に渦巻く何かが濃くなっていく。
頭の中で小さな囁きがする――もっと先へ、もっと近くへ。
理性が声を上げるよりも先に、足は勝手に地面を蹴っていた。
曲がり角を二つ、三つ越えた先、それは現れた。
煉瓦造りの古い建物。
窓は煤け、壁は剥がれ、扉には長い年月の重みが沈んでいる。
その佇まいを見た瞬間、背筋が冷たくなった。
……知っている。確かに、ここを。
全身が異様な高鳴りで満たされる。恐怖と昂ぶりが入り混じった感覚。
ポケットに手を入れると、指先が硬い金属を捉えた。
家のどこにもハマらなかった謎の鍵。――理由もなく、この扉の鍵だとわかっていた。
錆びた鍵穴にそれを差し込む。
重く鈍い音が響き、扉がゆっくりと開く。
中は薄闇と、油と紙が焦げたような匂いに満ちていた。
ケーブルが床を這い、積み重なったノートや図面。
そして、人間の手足や頭部を模した機械の部品があちこちに無造作に置かれていた。
視界が揺れた――いや、揺れたのは記憶だ。ずっと靄がかかっていた見えなかった記憶の扉が開き、鮮明なイメージとなって流れ込んできた。
かつて、僕はここでアンドロイドを造っていた。
夜を削り、血肉を削り、最高のアンドロイドを造るためだけに生きていた。
それは、自分の理想の恋人に出会うために…。
完璧な造形、精緻な動作、計算し尽くされた声と仕草。何度も何度も造っては調整を繰り返し、理想を具現化していった。
けれど、どこまで行っても彼女たちは空虚だった。
いくら感情を模倣できても、本物ではない。
僕は恋をしなかった。できなかった。
アンドロイドの全てを知り尽くしていたからこそ、僕にとってアンドロイドはモノとしか思えなかった。
目の前で笑う造形物を、人として見られない自分が嫌で、惨めで――それでも、手は止まらなかった。
やがて僕の研究は極致に達した。
設計通りの微笑み。澄んだ瞳。僕の理想のすべてを形にした、完璧なアンドロイドが完成した。
高度なシミュレーションで導かれる感情に従うことで人間と見分けのつかない情緒を持つこと。
主を全肯定せず、自らの意思と欲望に従って行動すること。
人間の不合理で不完全な部分すらも内包して、そのアンドロイドは生まれた。
……だが、それでも僕は、彼女を愛することができなかった。
はじめはそれでも良かった。彼女は本当に人間らしい仕草と言動を返してくれた。彼女と過ごす日々は確かに楽しかった。
しかしそれも数日の話で、所詮は自分が設計した「完璧」に基づいて反応するだけの機械だという認識は覆せなかった。
自分の惨めさを誤魔化すように、時にはひどい言葉をたくさん投げかけた。その度に、もっと惨めな気持ちになっていった。
尊厳も愛情も与えられない存在を、作ってしまったことへの苦さだけが、胸に残った。
そしてその、僕が最後に作ったアンドロイドこそが…
――セレスだった。
今――僕は、彼女に恋をしている。
記憶を失ってから、彼女を“人”として愛してきた。
だが、その彼女は、かつて僕が“人”と認めなかった存在だ。
……思い出した途端、胸の奥に冷たい隙間が広がっていく。
この思いは、崩れていくのだろうか。
僕は機械油の匂いの中で、ただ立ち尽くしていた。
外の時間が止まったかのように、ここだけが取り残されたまま、長く――あまりにも長く。