第2話 新しい日々
記憶をなくしてから、もう何日が経っただろう。
最初のころは、目に映るすべてが異国の街のように感じられ、息苦しくてたまらなかった。けれど、セレスと暮らす日々は少しずつその違和感をやわらげてくれて、今では朝のコーヒーの匂いや、ベランダから見える青空が、ようやく「日常」と呼べる気がしていた。
――そんなある日。
何気なくリビングの棚の上に置かれた鍵束を手に取ったとき、僕は妙なことに気づいた。
「……これ」
鍵束には家の玄関、ベランダ、郵便受けの鍵。そこまではいい。
でもひとつだけ、古めかしい金属の鍵が混ざっていた。妙に重く、表面に擦り傷が多い。差し込み口の形状が独特で、この家のどの扉にも合いそうになかった。
昼下がりの光が鍵の側面を反射し、細かい刻印を浮かび上がらせる。けれど、それが何を意味するのかは分からない。
「セレス、この鍵……何の鍵か知ってる?」
キッチンで本を読みながら紅茶を飲んでいたセレスが、ぱたんとページを閉じてこちらを振り向いた。
「うーん…ちょっと分からないですね…確かにちょっと雰囲気が違って、この家の鍵じゃない気がします」
その声に嘘の響きはなかった。彼女は首をかしげ、少し考えるように唇を尖らせた。
小さな違和感を探っていたら、もう一つ思い当たることがある。
「そういえば僕って、スマホは持っていなかったの?」
今まで自分のスマホを見つけられていない。今時スマホを持っていないなんてことがあるだろうか?
「そういえば拓海さんがスマホを使っているところ、見た事無いですね…」
「そっか…」
「僕の家族のこととか、何か覚えてる?」
「うーん…分からないです…すみません…あまり力になれなくて」
セレスは申し訳なさそうに俯いていた。
「お付き合いを始めて、まだ1か月くらいなので、あまりたくさんのことを知っているわけではないんですよ」
一ヶ月――思っていたよりも短い。
それなのに、彼女は当たり前のように僕の生活のすべてに溶け込んでいる。
「あ、パソコンならありますよ!時々使わせてもらってたので、私パスワードも分かります」
物置きの奥から持ち出して来てくれたノートPCの中身を確認する。しかし、入っていたのは一般的なアプリとゲームくらいのもので、メールや仕事のデータなど、素性の分かりそうなものは入っていなかった。
僕は鍵を見つめたまま、深く息を吐いた。
分からないことばかりだ。考えれば考えるほど霧が濃くなっていく気がする。
「……ねえ、拓海さん」
セレスが少しだけ柔らかい笑みを浮かべる。
「家に閉じこもってばかりじゃ、気が滅入りますよ。お散歩、行きませんか?」
その提案は、まるで硬直した空気に風穴を開けるようだった。僕はうなずき、上着を手に取った。
◇ ◇ ◇
外の空気は、少し冷たくて気持ちよかった。並んで歩くと、セレスが春先の花を指差して名前を教えてくれる。
「これ、ラナンキュラスって言うんですよ。かわいくないですか?」
幾重にもオレンジ色の花弁が重なってできた綺麗な花だった。二人でしゃがんで、しばらくその花を眺めていた。
立ち上がるとき、セレスは急にふらついて転びそうになっていた。
「おっと」
慌てて支えると、セレスは頬を赤らめて笑う。
「あ、ありがとうございます。えへへ、私、うっかり屋なんです。よく転びそうになるんですよね」
その笑顔は、花よりもずっと鮮やかで、胸の奥に小さな熱を灯した。
風に揺れる銀色の髪、透き通るような笑顔。
その姿を見ているだけで、不思議と胸が温かくなる。
不意にそんな彼女と視線が合った。
「…どうですか?私、可愛いですか?」
「え!?な、なんで?!」
予想外の言葉に驚いて、変な声が出てしまった。
セレスは僕の手を取り、上目遣いで真っすぐこちらを見ていた。
「だって、拓海さんにはもう一度、私を好きになってもらわないと困りますから」
「ああ、うん…そ、そっか」
きっと僕の顔は真っ赤になっていたことだろう。体から火を噴きそうなくらい熱くなっていた。どうしても言えなかったけど、その姿はあまりにも可愛くて仕方なかった。
──僕は改めて、彼女に恋をしてるのかもしれない。
スーパーに寄って、今夜の夕飯の材料を一緒に選ぶ。レジで支払いを済ませ、帰り道に彼女が袋を持とうとしてまた手元をもたつかせる。
「ほら、貸して」
「だ、大丈夫ですよ」
「見てられないって」
そんな軽口を交わしながら、並んで歩く。その一歩ごとに、僕は彼女との距離が確かに縮まっていくのを感じた。
記憶はまだ戻らない。でも、こうしてセレスと過ごす“今”がある。それだけで、今日も十分だと思えた。