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最終話 その恋が完成する

 海の匂いが胸の奥をえぐる。

 崖際に立つセレスは、夜の海面を覗き込み、月明かりに照らされて輪郭だけが淡く浮かんでいた。

 声をかけると、振り返ったその顔は穏やかで…しかし、もうこの世界には存在しないかのように不自然で、美しく見えた。


「探さないでって言ったのに」

吐息のような声。その小さな背中に伸ばした手が、夜気の冷たさに押し返される。


「私は、拓海さんをたくさん傷つけてしまったから、もう私は――」

 そこで、彼女はふっと微笑み、言葉を変える。

「…ごめんなさい、嘘です。やっぱり私はそんなにいい子じゃないみたいです。絶対来てくれるって信じてました」

 風が彼女の髪を巻き上げ、月光を散らす。

「私、ずっと拓海さんにずっとずっと愛されていたいんです。それが私の唯一の願い」

 胸が圧迫されるように苦しくなる。

 言葉を返せない僕をセレスは真っすぐ見つめている。

「どうしたら、もう一度拓海さんに愛してもらえるか、必死に考えたんです。それでようやく答えが出たんです」

 彼女の瞳は、底なしの闇の奥に星を一粒閉じ込めたようだった。

「そもそも拓海さんは私のこと、ずっと愛してくれてたんですよ。今までも、もちろん今も」

 …何を…言ってるんだろう?

「何度も繰り返して見てきました。記憶を取り戻しても、私を壊そうとしなかった。新しい子を作ろうとはしなかった。今だって、あんなひどいことをした私を追いかけて来てくれた」

 その声は力強くて優しくて、でもどこか儚い。

「拓海さんは、そんな自分の気持ちが信じられないだけなんです。だから…」

 僕の目を真っすぐに、ただ真っすぐに見ていた。

「だから…私が教えてあげます。あなたの本当の気持ちを」

 崖の端で、波の砕ける音がふたりの間を切り裂く。

「拓海さんなら、もう一度私を作ることもできるでしょう。でもね、今ここにいる私は、あなたとこの一年過ごしてきた私は、私一人です」

 

「今のこの私を、どうか一生忘れないで」


 吐き出された息が、夜の冷気に溶ける。

「思い出の中でなら、人間もアンドロイドも変わらないでしょう? 言葉を交わさなければ、失望することもないでしょう?」

その瞳から涙が溢れた。

「ああ…ほんとによく出来てますね、涙なんか流す機能が…」

そして、笑った。あまりにも優しく。

「こんな…こんな悪い子、もう創っちゃダメですよ?」

 待ってくれ…行かないでくれ…

 その言葉は声になることは無かった。

「さようなら、拓海さん。愛してる」


 白い足が闇に向かって踏み出される。

 その一瞬、彼女の輪郭が銀色に輝き、

 消えて、落ちた。



 海に落ちた音を聞き届けて、どれだけの時間立ち尽くしていただろうか。


「もう一度、作ればいいだけだ」

頭の奥で、何度も同じ言葉が響く。


「もう一度…!!…作ればいいだけだろ…!!」

 声は嗚咽に変わった。その瞬間、頭の奥で何かが弾けて溢れだした。

 理性と感情が一致しない。

 データは残っている。作り方も覚えている。

 それでも、作り直したところで、この喪失感を埋められないことを確信していた。

「う…何でだよ…何でっ!!何で…!!」


 何で…セレスを追い詰めてしまったんだろう。

 何で…セレスを止められなかったんだろう。

 何で…もっと早く、自分の気持ちに気付けなかったんだろう。


 人はそんな笑顔で飛び降りたりしない。

 アンドロイドはこんなに主を傷つけたりしない。

 そんな人としても、アンドロイドとしても未完成な君に…

 僕は…どうしようもなく恋をしていた。


 その日、僕の恋は完成した。

 そして、その恋が実る日は、もう二度と来ない。

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