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沈黙は金

作者: 風谷 華
掲載日:2025/07/14

 一年ぶりの社交界復帰。

 宮廷の舞踏会場に一歩足を踏み入れた瞬間、クラリッサ・ド・メルヴェーユは心の中で深く息を吐いた。


 (言いたいことは山ほどある。でも、今日は黙る日よ。)


 この一年、彼女は“沈黙”を武器として研ぎ澄ませてきた。

 「いじりたくなったら、黙る。」「自慢したくなったら、黙る。」「アドバイスしたくなったら、黙る。」

 ――これが、再起をかけたクラリッサのモットー三か条だった。


 彼女の見た目は、ひと言で言えば“平凡”。

 派手すぎない整った顔立ちに、くせのない赤髪を後ろでひとつに束ねている。

 けれどその中で唯一の“誇り”が、細く、白く、しなやかな指だった。


 その指先が、シャンパングラスを持ち上げる。

 優雅に、まるで音を奏でるかのような所作に、周囲の視線が自然と引き寄せられる。


 「まあ、クラリッサ様……ご無沙汰しておりましたわ」

 「ご静養のご様子、いかがでした? もう“ご高説”はお控えになるのでしょうか?」


 笑顔の裏に棘を潜ませた令嬢たちの挨拶に、クラリッサは言葉を返さず、ただ目を細め、首を傾けて微笑んだ。


 (あら、そのドレス……去年の流行色ね。よく取っておいたわね。黙る、黙る。)


 グラスの縁に指先を添えながら、クラリッサは視線だけで場を制していた。

 その“沈黙の振る舞い”が、意外にも周囲の興味を引いた。


 「“沈黙の令嬢”に生まれ変わったみたい……」

 「昔と別人みたい。今の方が、なんだか……洗練されてる?」


 そのとき、ふと視線の端に、別の“沈黙”が映った。

 柱の陰に立つ一人の青年――漆黒の髪、氷のように澄んだ青い瞳。

 礼装の鎧をまといながらも、周囲の喧騒とはまるで別世界の存在のようだった。


 クラリッサは彼と目が合った。

 黒髪の青年は、無言のまま彼女を見つめ、わずかに口元を緩める。


 (……誰?近衛騎士?妙に視線が真っ直ぐ……あれは警戒じゃなくて、観察。)


 彼女が何も言わずにじっと見返すと、青年はゆっくりと歩き出し、隣を通り過ぎながらひと言だけ残した。


 「君の手、綺麗だね。言葉より、よく語る。」


 クラリッサは思わず彼を見上げ――


 (……は? なにその口説き文句みたいな台詞。こっちが喋れないって分かってて、それ言う?)


 黙る。とにかく黙る。

 そうして彼の背を目で追いながら、クラリッサは静かに笑った。


ーーーーーーーーーーーーー

 ――それはちょうど一年前の、春の夜のことだった。


 宮廷の中庭に咲き誇る白薔薇のアーチの下で、クラリッサは“沈黙の令嬢”ではなかった。

 むしろ、「毒舌の伯爵令嬢」として知られ、笑顔で痛烈な指摘を飛ばす社交界の名物娘だった。


 「……それで王女殿下、今夜も“その方”とは距離を取っていらっしゃるんですね」

 クラリッサはそう口を開き、王女の目を見据えて言った。


 「正直申し上げますと、殿下のように感情を抑えられずに突き放すばかりでは、恋など実りませんわ。

 ご自分が傷つくのを恐れてばかりで、どうやってお相手と距離を縮められるのです?」


 沈黙が落ちた。


 王女の唇がわななき、次の瞬間――


 「婚約者も恋人もいないくせに、よく言うわね!」


 鋭く響く怒声。

 その場に居合わせた貴族たちが気まずげに目を逸らす中、クラリッサは、なぜ怒られたのかが分からなかった。


 (え?……私は、ただ思ったことを言っただけよ?)


 しかし事態はそれでは収まらなかった。


 後日、メルヴェーユ伯爵家に届けられた“やんわりとした”勧告状には、こう書かれていた。


「あなたの娘は、少々、言葉を選びを学ぶ必要があるようですな」


 差出人は、王女の父――この国の王その人だった。


 クラリッサの父、エグバート・ド・メルヴェーユ伯爵は、文を読み終えた後に深く嘆息しながらも、娘に穏やかに微笑んだ。


 「おまえに悪気がないのは分かっている。だがな、クラリッサ――

 正しいことを言っても、時と相手を誤れば、それは“礼儀知らず”という名の罪になるのだよ」


 そして、クラリッサは“静養”という名目で、領地へ下げられることになった。



 「一年もクラリッサがいないなんて……食卓がまるで寂しくて死んでしまいそうよ」


 涙目で嘆く伯爵夫人、カロリーナ。かつて“紅薔薇の貴婦人”と謳われた、優美で情熱的な女性だ。


 「クラリッサが悪いわけじゃない。王女が子供なだけさ。あの助言、俺は感心したけどね」


 腕を組んでむくれていたのは、兄のフェルディナンド。若くして近衛騎士団副団長を務める、真面目で妹に甘いシスコン。


 「どうせならこの機会に、静かに笑って済ませる術でも覚えてこい」

 そう言いながら、クラリッサの髪をそっと撫でた父、エグバート。


 ――そうして一年。


 クラリッサは、口を閉ざすことで生きる術を選んだ。


 (喋ればまた、誰かを怒らせる。だったら――黙って、笑って、流せばいい)


 沈黙は金。

 そして今、その金を纏って、彼女は再び社交界に戻ってきたのだった。


ーーーーーーーーーーーーー

 舞踏会も後半に入り、喧騒の熱がやや落ち着いたころ。

 クラリッサはテラスの柱の影に身を寄せ、夜の空気を吸っていた。


 ふと、背後に気配を感じる。

 足音は静かだが、重みがあり、誰かが近づいてくるのが分かる。


 振り返れば、あの騎士――黒髪に澄んだ青の瞳を持つ青年が、控えめに立っていた。

 先ほど、彼女の手を「綺麗だ」と評した、あの無口な近衛騎士。


 「少し……お話してもいいですか?」


 クラリッサはグラスを持ち直し、無言のまま小さくうなずいた。

 沈黙に慣れているのか、彼は言葉を急がない。


 「さっきは失礼しました。突然声をかけてしまって」


 彼は視線を逸らしながら、少し息を吐いた。


 「……名乗っていませんでしたね。セドリック・ヴァルナス。近衛騎士団所属です」


 その名に、クラリッサは眉をひそめもせず、静かに頭を下げた。

 やや驚いたように、セドリックが首を傾げる。


 「君の名前を……聞いても?」


 クラリッサは、わずかに間を置いてから、沈黙を破った。


 「クラリッサ。クラリッサ・ド・メルヴェーユ」


 「……やっぱり。噂通りの沈黙の令嬢だ」


 クラリッサが目を細めて見返すと、セドリックは慌てたように手を上げた。


 「悪い意味じゃない。ただ……君を見ていると、不思議で」


 「言いたげなのに、決して言わない。黙っているのに、感情がにじむ。――それが、とても……可愛いと思った」


 その最後の言葉とともに、彼の顔がほんのり赤く染まった。


 「次の休暇に、街へ行こうと思ってる。午後だけど……もし良ければ、一緒に回らないか?」


 クラリッサは一瞬、グラスを持つ指を止めた。


 (また……なんてこと言うの、この人)


 それでも冷静な顔のまま、静かに問い返す。


 「……どうして、私なの?」


 セドリックは少し視線を落とし、そしてまっすぐに彼女を見つめて言った。


 「君が、可愛いから」


 そのひと言に、クラリッサの心臓が跳ねた。


 (……だめだ、喋ったらぜんぶ顔に出る)


 クラリッサは黙ったまま、目を伏せて頷いた。

 それだけで、セドリックは満足そうに微笑んだ。

ーーーーーーーー

 王都の南門近くにある大通り――

 クラリッサとセドリックは、馬車から降りて並んで歩いていた。


 (平日の昼間に街中でデート……ということになるのかしら。やけに普通の服してるけど)


 セドリックは軍服ではなく、淡いグレーの上着と黒のパンツという控えめな私服姿だった。

 それが逆に、彼の美形を際立たせていた。


 「人混みは大丈夫?」


 不器用な問いに、クラリッサは軽く首を横に振る。


 (黙る、私。黙れば波風は立たない)


 通りには露店が並び、パン屋の香ばしい匂いや、ガラス細工の店の光が目を引く。

 そんな中で、セドリックが足を止めたのは、小さな古本屋の前だった。


 「……これ、どう思う?」


 彼が手に取ったのは、領地経営論の古い書物だった。

 セドリックは中身をぱらぱらとめくりながら、無意識に言った。


 「この著者の考え方、兄が好きでよく引用する。でも、俺には……ちょっと現実離れしてる気がして。

 クラリッサ嬢は、こういうの、どう見える?」


 (え、それ私に聞く?)


 クラリッサは本の背表紙に目を落としながら、沈黙を保とうとした。


 (いじりたくなったら黙る、自慢したくなったら黙る、アドバイスしたくなったら――)


 「……でも、気になるんだ。君なら、どう言うか」


 その言葉が、彼女の堰を少しだけ、緩めた。


 「……理論は立派。でも、実地を知らない理想論。

 家畜や季節の作柄、民の習性を理解していない人が書いたものよ。兄君が好きなのは“支配の理屈”でしょう?」


 言ってしまった。

 クラリッサは、あ、と小さく息を呑んだ。


 しかし、セドリックの反応は――


 「……そう。それ、それなんだよ!」


 顔がぱっと明るくなり、目がキラキラと輝く。


 「君って、本当にすごい。俺、今までそんな風に考えたことなかった。

 どうしてそんな風に頭を使えるんだ?」


 クラリッサは顔を逸らし、グラスではなくスカートの裾をそっと握る。


 (……だめね。言いたくなったら黙るはずだったのに)


 でも、その横顔には、かすかに笑みが浮かんでいた。

ーーーーーーーーーー

 デートの帰り道、セドリックは少しだけ躊躇しながら言った。


 「……君に、相談したいことがある」


 クラリッサが目を細めると、彼は小さく頷いて続けた。


 「俺、個人で商会を持ってる。ヴァルナス侯爵家の次男として、独立した仕事をしたくて……」


 (商会? 騎士なのに?)


 「最近、ある投資話が来てて。南部のダイヤモンド鉱山への出資。

 鉱脈の調査記録と、現地のサンプルもある。利益は期待できそうだって言われてるけど――君なら、どう思う?」


 クラリッサは無言で彼を見つめた。

 “どう思う?”――まただ。彼は、あのキラキラした目で、まっすぐ尋ねてくる。


 (ダメよ、これ。黙るのよ、私。……でも)


 彼女はそっと手袋を外し、細く長い指で資料の写しを受け取る。


 「……鉱脈は確かに本物。ただ、掘削予定の地点が問題。

 地質が脆く、水脈とぶつかる可能性がある。事故が起きれば、投資は泡よ」


 セドリックは息をのんだ。


 「そんなこと、領地の技師も気づかなかった……」


 「彼らは鉱山の“知識”はあるけど、“土地”を知らない。あなたの父君の代の地図、あるでしょう?

 あれと重ねれば、罠が見えるはず」


 クラリッサは言い終えると、すっと背筋を伸ばして沈黙した。


 セドリックは彼女の横顔を見つめ、ぽつりと呟いた。


 「……君がいれば、俺は何でも乗り越えられる気がする」


 (やめて、その目。そんな風に見つめないで。私、喋っちゃうじゃない)


 心の中でそう思いながらも、クラリッサは目を逸らせなかった。


ーーーーーーーーー


 クラリッサがアドバイスした鉱山の地質リスクは、見事に的中した。

 セドリックは古地図を重ねて地層のズレを確認し、掘削地点を変更。

 結果、鉱山からは新たな鉱脈が見つかり、投資額の数倍もの価値を生み出す見込みとなった。


 「……君の助言がなければ、俺は何十万リルも失っていた。いや、命すら危なかったかもしれない」


 そう言って感謝したセドリックの口から、ぽろりと出たひと言。


 「……できれば、直接現地を見てほしい。君の目で」


 それは、“一緒に旅をしよう”という遠回しな誘いだった。


ーーーーーーー


 視察と称した短期の旅。

 二人きりの馬車の中、沈黙が流れる――けれど、不思議と気まずくはなかった。


 「……こんなに静かな旅は初めてだ」

 ふと笑ったセドリックに、クラリッサは横目を向けた。


 (あなたが話さないからでしょ。でも、それがありがたいのよ)


 ふと彼が懐から地図を取り出し、渡してくる。


 「ここ。予定されていた新しい掘削地点だ。君なら、どう見える?」


 またそれ。クラリッサは地図を眺めながら考える。


 (……崩落の恐れはない。でも、採掘の順番を誤ると、通気が……)


 「……最初にこことここ。順番を守らないと通気が悪くなる。

 それと、ここの地下水の層に注意を」


 「……君、本当にすごいな」


 セドリックは目を細めて、しみじみと呟いた。


 「人の至らないところを、当たり前のように見つけるんだな。――昔から?」


 クラリッサは、ふと目を伏せた。


 (昔から、見えてしまってたわ。だから、言ってしまっていた。指摘して、恨まれた。黙ることを覚えたのは、傷ついたから)


 けれど、今この人は――

 その「的確すぎる言葉」を、嫌な顔一つせず、真っ直ぐに「欲しい」と言ってくれる。


ーーーーーーー


 視察先の領内宿舎に泊まり、二人で屋上から鉱山の灯りを眺める。

 クラリッサがふと呟く。


 「……見えすぎるって、時々、孤独よ。

 間違ってると分かっても、黙っていなきゃいけないの。全部を壊したくないから」


 セドリックは黙って隣に立ち、静かに言った。


 「俺は、君の“見えてる”を、信じる」


 それは、沈黙の騎士が初めてくれた、信頼の言葉だった。

ーーーーーーーーー


クラリッサの助言通り、鉱山の採掘順序と通気構造は見直され、労働環境も改善された。

 作業効率は飛躍的に向上し、掘り出されたダイヤは王都でも稀に見る質と量を誇るようになった。


 この成功をもって、セドリックは**父の持つ第二爵位――「カリナス伯爵位」**を成人と同時に継承することが決定された。


 侯爵家の本家は兄が継ぐ。

 しかし、セドリックは「カリナス家」の家名を新たに受け継ぐ当主となった。



 祝賀式典の夜。

 クラリッサは舞踏会の会場には姿を見せなかった。

 そのかわり、邸宅の庭園の一角、月明かりに照らされた噴水の縁に腰を下ろしていた。


 そこに現れたのは、もちろんセドリックだった。


 「……やっぱり、ここにいた」


 「にぎやかな場所は苦手なの」


 「君がいない場所は、どれだけにぎやかでも足りないよ」


 そう言って、彼は隣に腰を下ろした。

 クラリッサはしばらくの沈黙の後、ぽつりと口を開いた。


 「お願いがあるの」


 「なんでも」


 「私が助言していたこと――商会のことも、鉱山のことも――公にしないでほしいの。

 あなたの成功は、あなたの手で掴んだもの。私の名前が出ると、それが曇ってしまう」


 「それが本心?」


 「……ええ。

 世の中は、賢い女を面白がらないのよ。あなたの足を引っ張りたくない」


 セドリックはしばらく黙っていたが、やがて優しく微笑んだ。


 「君がそう願うなら、そうしよう。

 でも――たとえ助言がなかったとしても、俺は、君を選んでたと思う」


 彼は静かに、しかしはっきりと手を伸ばし、クラリッサの指を取った。


 「俺は、君の沈黙が好きだった。

 言葉を慎むその姿勢も、心の奥にある鋭さも、全部好きになった」


 そして、まっすぐ彼女を見つめながら告げた。


 「婚約なんて悠長なことは言わない。

 “カリナス伯爵家”の妻として、君を迎えたい。もう誰にも取られたくないんだ」


 クラリッサは息を止めた。


 (なんてことを、こんな真顔で……)


 それでも彼女は、ゆっくりと――けれど確かに、頷いた。


ーーーーーーーーーー

 王都の王宮離宮。

 絹のカーテン越しに差し込む西陽が、白磁の床に薄紅色の影を描いていた。


 セドリックは、静まり返った謁見室の中で、たったひとり王女セレーナと向き合っていた。


 「……セドリック・ヴァルナス侯爵令息」

 呼び捨てに近いその声には、明確な棘が含まれていた。


 「結婚の話を、白紙に戻していただきたいのです」


 セドリックは驚いた顔も見せず、ただ真っ直ぐに王女を見た。

 かつて“毒舌の令嬢”と呼ばれた女に傷つけられたとされるその王女は、今や大人びた気配を纏い、微笑の奥に怒りを隠していた。


 「理由を伺ってもよろしいでしょうか」


 「あなたが、クラリッサ・ド・メルヴェーユと結婚すれば――私の名に泥が塗られるからです」


 「……クラリッサ嬢は、王女殿下の何を汚したと?」


 「過去の“失言”をお忘れですか?」

 セレーナは静かに笑ったが、目は冷たいままだ。


 「私の恋心を勝手に値踏みし、“それでは恋は成らない”などと抜かした娘です。

 まだ子供だったとはいえ、私は王女で、彼女は……何者でもなかった」


 セドリックは目を伏せたまま、じっと耳を傾けていた。


 「誰にも婚約者のいない少女が、王女に恋愛のアドバイスをする――その滑稽さは、宮廷では笑いものでした」


 セドリックのまぶたが、わずかに動いた。


 「……それほどに、クラリッサ嬢の言葉は的を射ていたのですね」


 「……は?」


 「それが“当たっていた”からこそ、殿下はあれほど激昂された。

 誰にも言えない恋心を、あの人に見抜かれた――そうではありませんか?」


 セレーナの口元から、すっと笑みが消えた。


 「あなたには、分からない」


 「おそらく、俺だけではありません。殿下の“本当の想い”を、知る者はひとりもいないでしょう」


 部屋の空気が張り詰めた。


 「恋をすること自体は、誰も咎めません。

 ですが、その気持ちを隠すために他人を攻撃し、自らの想いも傷つけるのは……誰よりも、殿下ご自身を侮辱することになる」


 セレーナの目が見開かれ、拳がぎゅっと握られた。


 「……黙りなさい。

 あなたには関係ない。――私は……ただ、王家の品位を守りたいだけ……!」


 その声は震えていた。

 でも、セドリックはそれを責めなかった。静かに、けれど確かに言った。


 「俺は、君のように“何も言えない立場”の人がいることを知っている。

 だからこそ――“何かを言える勇気”を持つクラリッサ嬢を尊敬している」


 そして、淡く目を細めた。


 「彼女は間違えることもある。

 でも、間違えても、誰かを想って言葉を紡ぐ人です。

 沈黙で逃げるのではなく、黙ることで守る人です。

 ――その人となら、俺は誇りを持って生きていける」


 沈黙が落ちた。

 セレーナの唇は、何かを言いかけては震え、閉じる。

 目元だけが、わずかに揺れていた。


 セドリックはその姿に、深く頭を下げた。


 「どうか、この結婚を止めないでください。

 彼女は、ただ黙って生きてきたのではありません。言葉を捨ててなお、人を想い続けてきたのです。

 ――そんな人を、俺は妻に迎えたい」


 セレーナは何も答えなかった。


 扉が閉まり、彼の足音が遠ざかっていくのを聞きながら――

 その場に残された王女の目から、ひとすじの涙がこぼれた。

ーーーーーーーーーーーーー

セドリックが王女に呼び出された翌日、クラリッサは彼の秘書から“異例の面談”があったと知らされた。


 「王女殿下と二人きりで?」

 思わず声に出すと、秘書は微妙な顔をした。


 「……内容は明かされませんでしたが、殿下は……かなり、感情的だったようで」


 クラリッサは何も言わなかった。

 けれど、胸の奥に小さな波紋が広がった。



 その夜。

 セドリックはクラリッサに、王女との会話の一部を話した。


 「……彼女は、兄を……俺の兄を、想っていたらしい」


 「……」


 「君の助言が、あの時の“本心”に触れていたんだ。だから、怒った。君にじゃなく、自分自身に」


 クラリッサは、噴水の縁に腰を下ろしたまま、手を組んで指を見つめていた。

 白く、細く、よく動くその指先。


 「……私は、黙っている方が正解なのかもしれないわね」


 その言葉に、セドリックは穏やかに答えた。


 「君が黙るのは、傷ついたから。

 でも、俺は、君が喋っていた頃のまっすぐなところも、今の静かな強さも、どちらも好きだ」


 クラリッサは、目を伏せたまま小さく笑った。


 「そんなこと、よく言えるわね。私、かなり面倒な女よ?」


 「知ってる。でも、君じゃなきゃダメなんだ」


ーーーーーーーーーー



 王都郊外、小高い丘の上にある古い礼拝堂。

 クラリッサとセドリックの結婚式は、喧騒から遠く離れたその静かな場所で行われた。


 大理石の通路に落ちる柔らかなステンドグラスの光。

 クラリッサは白に近いクリーム色のドレスに、ただ一筋のリボンを髪に巻いただけの、飾らない姿で立っていた。


 細く長い指先に、小さなブーケを握る。

 目を伏せたまま歩く彼女に、セドリックは一歩一歩視線を合わせながら、微笑を向け続けた。


 宣誓の言葉は短く、祝辞は簡潔だった。


 でも、誰よりも強く、ふたりの間には“誓い”があった。

 言葉ではなく、目で、指で、息の間で交わされる、深い絆が。


 “君が黙っていても、俺は君の中身を知りたいと思った”


 “あなたが私の言葉を受け止めてくれるなら、私はまた、言葉を使ってもいいと思えた”




 「なぜ王女殿下は止めなかったのか」

 「クラリッサ嬢、昔は相当な毒舌家だったんでしょう?」

 「セドリック様が騙されているのでは?」


 式後に開かれた茶会で、そんな声が小さく飛び交っていた。


 クラリッサはそれを耳にしていた。

 けれど、何も言わなかった。


 ゆったりとティーカップを持ち上げ、目を細めて微笑むだけ。

 その微笑は、“分かっているけれど黙っている”という気高さと自信に満ちていた。


 すると――騒がしかった周囲の声が、すっと消えた。


 誰もが理解したのだ。

 この女は、沈黙すら武器にできる。

 沈黙という名の、絶対的な誇りを持った令嬢なのだと。




 式の夜。

 ヴァルナス侯爵家の別邸、窓辺のソファにクラリッサは腰掛けていた。


 カーテン越しに月が差し込む。

 指先にはめられた指輪が、ほんのり光を反射していた。


 「……人の声って、こういうとき特にうるさく感じるのね」


 ぼそりと呟くと、すぐそばから返事があった。


 「でも、君の声は、もっと聞きたくなる」


 セドリックが隣に座り、湯気の立つカップをそっと差し出す。

 香りは、クラリッサの好きなスパイスティーだった。


 「……気が利くわね」

 「妻の好みを覚えるのに一年もかけたからな」


 クラリッサは、思わず噴き出しそうになったが、ぐっとこらえて口元を覆った。


 「……あ、今笑いかけた」


 「笑ってない」

 「いや、絶対笑ってた。睫毛が揺れてた」


 「あなた、細かいところだけはよく見てるのよね」


 「君をよく見てるだけ」


 クラリッサは、ゆっくりとカップを置いて、視線を彼に向けた。


 「ねえ、セドリック。黙ってることが“金”だって、ずっと信じてきたの」


 「うん」


 「でも、今は、黙っているだけじゃ足りないって……初めて思った」


 「……」


 「あなたが、私の沈黙に意味を見てくれたから。

 私の言葉を恐れなかったから。――だから、私も、言いたくなったのよ。言葉で、気持ちを」


 セドリックの目が、少し潤んだように見えた。

 彼はクラリッサの手をそっと取って、静かに重ねた。


 「じゃあ、言葉の代わりに、ひとつだけ欲しいものがある」


 「なに?」


 「……キス……」


 クラリッサは、驚いたように目を見開いた。

 でも、それも一瞬のこと。すぐに微笑み、目を閉じた。


 「――いいわ。沈黙のご褒美として」


 そして、ふたりの唇が、ゆっくりと触れ合った。


 言葉はいらなかった。

 何も語らなくても、すべてが伝わった。




 沈黙は金。

 だが、愛する者と交わす言葉と口づけには、それ以上の価値がある。



ー完ー

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