第1話:シャッターを切る理由
「カチャカチャ、フゥ……」
佐倉 梓は、慣れた手つきで
最新のミラーレスカメラのレンズキャップを外し、
ブロワーで丁寧にホコリを吹き飛ばす。
ツヤツヤと光る黒いボディは、まるで宝石。
スタジオの棚に並んだカメラたち。
一つ一つ、丁寧に手入れしていく。
これが、私のアシスタントとしての朝の仕事だ。
蓮さんのスタジオで働き始めて、もうすぐ半年。
給料をもらいながら、私は蓮さんの弟子をしている。
日中は蓮のスタジオで彼の仕事を手伝う日々。
それが、私が写真の道に進むための、
今の精一杯の決意だった。
昼下がりの穏やかな光が
午前中で仕事を終えたスタジオに差し込む中、
からん、と扉のベルが鳴った。
「おい、佐倉。今日の仕事はもう終わったぞ。」
蓮さんの声が響いた。
「仕事を見て技術を盗めないのなら、もう諦めろ」
**奥の作業場から現れたのは、橘 蓮。**
**彼は、いつもの撮影用ベストを脱ぎ、**
**普段着のシャツ姿だった。**
切れ長の瞳に、どこか人を寄せ付けない冷たさ。
孤高の天才カメラマンだ。
彼は、梓の顔を見るなり、容赦ない毒舌を浴びせた。
いつものことだ。
「そ、そんなことないです!
私、蓮さんの写真みたいに、
人の心を動かせる写真を撮りたいんです!」
梓は、咄嗟に反論した。
蓮さんの言葉は、いつも鋭利な刃物だ。
胸を刺される。それでも諦めるわけにはいかない。
(私にとって、蓮さんは、人生の光を見せてくれた「師」なのだ。)
梓には、決して忘れることのできない記憶がある。
小学一年生だったあの日。七五三の撮影。
緊張で体が強張る。
私の前に、一人のカメラマンが現れた。
その人こそ、後に私がSNSで作品を目にし、
心を奪われることになる
孤高の天才カメラマン、橘 蓮だった。
彼は「笑顔でいいんだよ」とだけ言った。
一枚の写真を撮る。
現像された写真。
そこには、見たことのない私がいた。
心から解き放たれた、私の笑顔。
その日から、私は自分を少しだけ好きになれた。
そして、いつか自分も、誰かの心を温めるような
写真を撮りたいと、漠然と夢見るようになった。
数年後、偶然SNSで蓮さんの作品を見た。
その写真に心を奪われた。
被写体の魂が宿っているように見えたのだ。
高校卒業後、私は迷わず
独立した蓮さんのスタジオの門を叩いた。
「どうか、アシスタントとして雇ってください!
そして、蓮さんの弟子にしてください!」
私は、蓮さんに頭を下げて頼み込み、
念願かなって、彼のアシスタントとして
給料をもらいながら、彼に弟子入りしている身だった。
日中は蓮のスタジオで彼の仕事を手伝う日々。
それが、私が写真の道に進むための、
今の精一杯の決意だった。
「甘いな。写真は遊びじゃない」
蓮さんは鼻で笑った。
「お前のそのぬるい情熱じゃ、
ただの絵日記しか撮れんぞ」
私のカメラを一瞥する。
「お前が撮ってるのは、ただの記録だ。
そこに、何が写ってるんだ?」
梓はぐっと唇を噛んだ。
最近、蓮さんから渡される課題だ。
「被写体と向き合い、本質を写し取ってこい」
だが、私の写真は、いつも「凡庸だ」と酷評される。
「これ、今日撮ってきた写真です」
恐る恐るメモリーカードを差し出した。
スタジオの大型モニターに画像を映す。
そこに映し出されたのは、健太さん。
若い男性だ。流行りのパーマヘア。
最新ミラーレスカメラを手にしている。
街中のディスプレイや、街路樹を撮影中だ。
インスタでバズりたい。チャラそうな客だった。
逆光で顔が少し暗い。
背景の街路樹は、ただの緑の塊。
フレームの真ん中に不自然に置かれた
彼の顔は、なんだか空虚に見えた。
(──これが、凡庸さの具体例……)
「彼は、『インスタでバズりたい』って
言って、一番いいカメラを欲しがってたんです」
私は説明する。
「でも、何か深い理由があるんじゃないかって」
健太さんの表面的な態度。
その奥に隠された寂しげな表情。
そのギャップを捉えようとした。
蓮は、モニターに映る健太の写真を見て、眉をひそめた。「映ってるのは、チャラついた若者と、カメラ。それで? お前は、この写真で、何を伝えたかったんだ?」
「え、と……彼の、本当の気持ちを……」
私は言葉に詰まった。
私の撮った写真。
健太さんの深層は、まるで伝わらない。
「そんな『曖昧』なもん、写るわけないだろう」
蓮さんの言葉が、心を深くえぐる。
「被写体に何の感情も抱かず、
ただシャッターを切っただけの写真に、
魂なんて宿るか」
(──そのくせ、誰よりも昔の一枚を
大切にしているくせに。)
梓は心の中で呟いた。
蓮さんがスタジオの片隅に飾る、
古びた家族写真。
あの写真こそ、彼の「魂」の証明だった。
「被写体と向き合うって……
どうすればいいんですか?」私は藁にもすがる思いで蓮さんに尋ねた。
蓮さんはふっと息を吐く。
スタジオの隅に置いてあった古い一眼レフカメラ。
手に取った。
蓮さんが駆け出しの頃の、年季の入った愛機だ。
「いいか、佐倉。お前がカメラを構える時」
蓮さんは言った。
「そのレンズの向こうに何が見える?」
「単なる光の像か? それとも……」
蓮さんはカメラを私に差し出した。「シャッターは誰にでも切れる。だが、お前にしか写せないものを撮ってこい。」それができなきゃ、お前は一生、ただの記録係で終わるぞ」
蓮さんの厳しい言葉に、私は震えた。
だが、彼の瞳の奥には、
いつか幼い私に見せてくれた「光」と同じ、
写真への深い愛情が宿っている。
「はいっ!」
私は蓮さんからカメラを受け取る。
もう一度、健太さんの言葉を思い出した。
──俺には、入院してる妹がいるんです。
さくらって言うんですけど、体が弱くて、
ずっと病院の窓からしか外を見てないんです。
だから、俺、さくらに……
外の世界を、鮮やかで、綺麗な世界を見せて
やりたくて……。
健太の言葉の裏にあった、
妹を想う切実な「想い」。
私はまだ、その「想い」に
十分に踏み込めていなかった。
私の撮った写真には、
健太さんの表面しか写っていなかったのだ。
「シャッターを切る理由……」
梓は、蓮から与えられたカメラを握りしめ、
スタジオを飛び出した。
向かう先は、健太が教えてくれた、
妹のさくらさんが入院している病院。
健太さんの本当の「シャッターを切る理由」を、
今度は私が撮りに行くと決意したのだ。
「おう、佐倉。そいつで撮るのか?」
その時、スタジオの奥から声がした。
振り返ると、そこには梓より少し年上で、
蓮さんのもう一人の弟子、隼人さん。
彼は蓮さんとは対照的に、常に穏やかだ。
瞳の奥には鋭い光が宿っている。
主に動画撮影を手掛けている、蓮さんの兄弟子だ。
「隼人さん!」
驚きと、少しばかりの気まずさ。
隼人さんは、私のライバル。
そして、尊敬する兄弟子でもある。
「蓮さんの課題か? 相変わらず厳しいな。
まあ、それが蓮さんらしいが」
隼人さんは私の隣に歩み寄る。
「動画も写真も、結局は光を捉える点じゃ同じだ」
隼人さんは言う。
「ただ、写真が一瞬を切り取るなら、
動画は時間を記録する。
そこに流れる空気や音、動きも全部含めてな」
隼人さんは、そう言って、自分の動画用カメラを
軽く持ち上げてみせた。
「動画なら、妹さんの声も、風の音も、
もっと直接的に写せるんだよ」
「俺は、もういい写真だけで精一杯だ。
動画のことなら、とりあえずお前が学んでこい。」
蓮は、隼人の言葉を遮るように言い放った。
彼の言葉は、隼人を突き放すようにも聞こえるが、
どこか深い信頼が込められているようにも感じられた。
隼人は、蓮の言葉に慣れたように苦笑いを浮かべた。
「いいか、佐倉。次の課題だ」
蓮は、梓がスタジオを出ようとした
その背中に、さらに言葉を投げかけた。
「まずはフルサイズ35mmだ」
蓮さんの声が響く。
「余計なボケも、引きすぎた広がりもなしだ」
「自分の足で立ち、自分の目で見て、
被写体と一対一で向き合え」
「ごまかしは効かん。いいか、作品を撮ってこい」
梓は、その言葉にピタリと足を止めた。
フルサイズ35mm。
標準レンズとして、最も人間の視野に近い。
そこに、蓮さんの意図を感じ取った。
逃げも隠れもできない、ごまかしの効かない直球。
私の胸に、新たな熱い炎が灯った。
レンズは、光の像だけではない。
そこには、被写体の、そして撮る側の、
心に秘めた「理由」が写し出される。
──私が見つけるのは、彼の想いだけじゃない。
私自身の、もう一枚だったのかもしれない。
次回予告
「売れる」写真と「心に響く」写真。
その違いに悩む梓の元に、蓮から思わぬ提案が舞い込む。
それは、写真家として、そして一人の人間としての、
新たな挑戦の始まりだった。
第3話 売れ筋の向こう側