035 【忍びの聴力】
俺の耳に届いた声は、今話したばかりの盤次郎の声だ。
これは独り言だろうか。
いや、それはないと思う。
声は人目を伏せるように、こもった声だった。
それに内容がやばい。
鈴虫の鳴き声のような、音が聞こえてから宿の主人に呼ばれたと離席した。
足音からすると30歩くらい小走りで駆けた。
その間、勝手口を抜けて、正面玄関に行った感じだった。
主人が入り口付近にいつも居るんだろうか。
どこに居るかは働き手として知っていても不思議じゃないけど。
どこへ行くんだろうと、俺の目は自然と盤次郎の後ろ姿を追っていた。
一応、外に出て行ったわけだから。
そう思ったときに駒次郎が慌てた口振りで問いかけて来たんだ。
駒次郎の疑問に、多少、話を盛って答えた。
その後、耳に声が聴こえてきた。
空耳じゃないなら、とんでもない内容になる。
「まじか……」
この宿の蔵を破るという計画を漏らしていた。
そのつもりで居るなら、独り言は断じて避けねばならないはずだ。
分かっている。
彼は、確かにこう言った。
お里……周囲に気を付けろ、と。
お里は、宿の周囲にいるのだろう。
俺の悪い予感が当たったのか。
駒次郎がヤクザ者たちにやらかしてしまったことを心配していた。
きっと、お里をも逃がしたんだな。
駒次郎のほうは囮の逃走劇だった可能性が出てきた。
この兄弟は随分と思い切った行動を起こすんだな。
「え、ちょっと待って…」
もしかして。
俺、こいつらの逃亡の片棒担いじゃったのか?
まあ、それは今さらだよな。
それよりも、なぜ逃げてしまわないんだ?
お里を一人どこか遠くへやることができない……だろうし。
そこまで仕出かしたんなら。
三人で遠くへ逃げればいいだけだ。
もしかしたら、路銀がないのかもしれないな。
それしか考えられないかな。
しかし近くに潜んでいるのは、まずいな。
だからといって、蔵を破って金を盗むとか。
見つかったら、遠島だぞ。さすがに──流刑はないか。
路銀を確保してから夜逃げをするつもりなのか。
だとすれば、近いうちに決行する可能性大だな。
宿の蔵を狙って兄が下働きで、潜り込んでいたのか。
そう考えると、二人で……いや待て。
盤次郎の話からすると、もう一言忘れている。
身請け金を用意する、と言っていたような。
となると、お里はどこにいる。
やっぱり女郎屋じゃないか。
逃げてきた線が消えると、独り言の線が浮かぶ。
だが、盤次郎は宿周辺でお里と会話をしていたはずなんだ。
お里の分の足音はあったか。
いや微塵も感じなかった。
いったいどういうことなのだ。
これは探らないわけにはいかないぞ。
駒次郎はこの状況を把握しているよな。
なのにどうして俺をこの宿に連れてきたんだろ。
この先も俺が協力するかは分からないのに。
勘ぐられてバレたなら、仲間に引き込もうというものではないと思う。
強さを知って居るからな。
駒次郎が見張りで、俺に宿屋の者たちを引きつけてその隙に乗じるのか。
めんどくせえな。
役人に追われるのは避けなければいけないのに。
第一、蔵の鍵の開け方を知って居るのか、こいつら。
いや問題はそこだ。
なにかを調べると言っていたな。
駒次郎をなんとか遠ざけて、盤次郎の動向を探るのが難しいなら。
蔵の状況でも見に行くか。
「コマさん、宿屋は退屈だな。腹ごしらえもしたし、芝居小屋でも見物に行こうよ。案内のほど、お願いできますか?」
唐突な問いかけに駒次郎は、すこし不思議そうな表情をみせるが。
そんなことならお安い御用だと微笑みを返した。
芝居小屋まで案内されたら、駒次郎にこう伝えた。
「バンさんを手伝わなくていいの?心配でしょ?道は覚えたから先に帰ってもいいよ」
「え……」
意表を突くとはこのことか。
一緒に見るわけではないんだな、といった顔つきだった。
「それもそうか」と彼は兄の待つ宿へと帰って行った。




