第8話 『珊瑚色ノ秘密』へようこそ
「お、出口か?」
「わんっ!」
俺は洞窟の奥で出会った白い子犬と共に、暗がりから抜け出した。
「良かった……! インガ、戻ってきました!」
眩しさに目を細めていると、サラサさんが焦った声を出して駆け寄ってきた。
その足音とは逆に、俺の足元にいた子犬はささっとどこかに消えてしまった。
「……ってちょっと! あんた怪我してるじゃない!」
顔は怒っているがすごく心配させてしまったみたいだ。
岩の隙間から出すようにサラサさんは俺の腕をぐいぐいと引っ張り、少し離れた場所で俺を地面に座らせた。
「すみません……ありがとうございます」
血が出ている頬を拭われた後、サラサさんは薬を塗って当て布をしてくれる。
そして、俺の正面には三輪さんがにっこりと笑いながら立っていた。
「インガ君、君はどのくらいの時間居なくっていたと思う?」
こちらを見下ろして影になっている笑顔は、その感情を計り知れない。
(なんか……ちょっと、怖い?)
「えっと、三十分位でしょうか」
俺は自分の体感時間を告げる。
長いように思えてあれは短い冒険だったと思う。
「正解はね。五時間だよ」
「えっ!?」
昼過ぎだったと思うので、もうすっかり夜が始まる時間だ。
俺が驚きの声を上げると、後からやってきた六道さんが冷静に言った。
「インガ、勝手な行動をするな。ここでは何が起こったって、死ぬどころか魂ごと消えたっておかしくないんだ」
その隣の三輪さんは相変わらずの表情だった。
「ねえ、インガ君知ってる? 魂が消えかけるときの痛みってすごいんだよー。俺も昔何度か体験したことあるんだけど、ものすっっっごく苦しいから無茶をするのは止めておくかなー」
(怒ってる……)
俺はまた迷惑を掛けてしまったと、頭を下げた。
「はい、すみませんでした……。サラサさんも心配かけてごめんなさい」
俺は手当をしてくれていたサラサさんの方に向き直り、頭を下げた。
「別にあんたの心配したわけじゃないから! 勝手な行動されると番所全体の責任になるからその心配をしただけよ!」
サラサさんはやたらと早口で顔を背ける。
「なんすか、それ。ツンデレっすか」
俺は自分が叱責されている状況にも関わらず、空気の読めないツッコミをしてしまった。
そして当然サラサさんは怒る。
「――また踏まれたいの? 今度は魂ごと踏み潰す?」
「ごめんなさい!」
(魂ごと踏み潰すってどういうことですか……!?)
俺はすかさずその場でガバリと頭を下げた。
「それで、インガ君。その犬は? 鳴き声がどうのとか言っていたけど、その子を助けに行ったの?」
三輪さんの言葉で俺は座っている自分の脇を見ると、いつの間にかあの子犬が行儀良く座っていた。
三輪さんはその子犬に顔を近付け観察している。
子犬も興味深げに三輪さんの色素の薄い瞳と髪をキョロキョロ見ている。
「あっ、はい。この奥で紐……みたいな穢れに捕まってて。ほら足怪我してるっす」
インガがその白いふわふわとした毛に赤い血がついている足を指差すと、三輪さんはそちらではなく、インガの顔を見た。
「――ねえ、インガ君。この子、ただの『犬』じゃないね。もっと神聖なものというかなんというか。邪気祓いの犬じゃないかなー」
「でも穢れに捕まっていたんだろう」
「捕まってるだけってところがその証拠じゃないかなー。普通の犬なら取り込まれて、もうここにその子はいないんじゃないかな」
(さらりと怖いこと言うなあ……)
「でも確かに、こいつが噛みついたら【闇黒】が消えました」
「……【闇黒】だと?」
「インガ! あんた【闇黒】を浄化したの!?」
六道さんが呟き、サラサさんは再びすごい剣幕で俺を睨んでいた。
「あ、はい。初めて襲われた時みたいな大きいのじゃなかったですけど」
「はあー。もう君って子は……」
三輪さんは怒りよりも呆れという表情だった。
そして六道さんはその冷静な黒い瞳でまじまじと子犬を観察していた。
「この犬。まだ子犬でそれなら成犬になったら相当強い浄化の力を持つんじゃないか」
当の子犬の方は周りを警戒している様子もない。
「ねえ左門さん。この子、地獄の犬ですか?」
三輪さんは状況を静かに見守っていた左門さんの方を振り向く。
しかし、左門さんは首を横に振った。
「いいえ。確かにうちには当然犬の獄卒もいますが、そんなに白くて毛艶の良い犬はいないですよ。それにやはりどこか神聖さを感じさせる犬ですね」
「そうですかー。何処かから迷い込んだのかなー」
「わんっ」
子犬は俺の腕にすりすりと擦り寄り、顔を舐めてくる。
皆がそんな子犬の様子を見つめている。
「随分と懐かれたねー」
俺は三輪さんへの返事に困って、とりあえず子犬の頭を撫でた。
三輪さんはそんな俺を見ると、左門さんの方に向き直る。
「左門さん、この子うちで預かってもいいですか」
「ええ、勿論。そもそもうちの者じゃないですからね。そちらで対応していただけると助かります。閻魔様には報告は上げておきますので」
「それじゃあそういうことでー。みんな、今日は撤収して番所に戻るよー」
見ているだけでとんとん拍子に話が進んでしまった。
「インガ君、その子の処遇が決まるまでは君がその子の面倒を見るんだよ。それが助けた責任だよ。それで今日の勝手な行動はチャラにしてあげる。いいね?」
その声は優しいのに、有無を言わせない強さがあった。
「はい。ありがとうございます。すみません、心配かけて」
「分かれば良い」
「ちょっとやっくんー。それ俺の台詞なんだけどー」
● ● ●
「おかえりなさい、皆さん。あら、ワンちゃんですか」
レンゲちゃんは俺の腕に抱えられた子犬を見て首を傾げた。
「インガ君の犬だよー。可愛いでしょー。それに邪気祓いの犬みたいなんだよねー」
三輪さんは子犬の頭をぐりぐりと撫でながらレンゲちゃんに説明する。
「邪気祓いですか。こんなに小さくて可愛い子が」
レンゲちゃんはふわふわの毛玉を見て、瞳を輝かせている。
「そうなんだよー。だからちょっと閻魔様にも一度見てもらいたくてね。取次お願いして良いかな、レンゲちゃん」
「はい。承りました」
レンゲちゃんはパタパタと電話を掛けに行く。
そしてすぐに戻ってきた。
「明日の晩でしたらお時間取れるそうでしたので、面会の申込みをしておきました」
「ありがと、レンゲちゃん」
「どういたしまして。……ところでこの可愛らしいお方のお名前はなんと言うのですか」
レンゲちゃんはうずうずとした様子で白い尻尾がぱたぱたと動いているのを目で追っている。
(犬、好きなのかな)
「名前……ないっす」
「無いんですね。でしたらどうお呼びすればよろしいでしょうか」
レンゲちゃんは見る見るうちにしょんぼりしていく。
「インガ。あなたが今の所の飼い主なんだから、あなたが名前を付けてみたら」
サラサさんが事務所の椅子に腰掛けながら俺の方を見た。
なにしょんぼりさせてんのよ、と顔に書いてあるようだ。
「それイイねー」
「そうだな。お前が付けろ」
「えー……っと」
「どんなお名前になるんでしょうか」
レンゲちゃんの瞳は期待に満ちていた。
そして俺はぴんと来た。
「んー……じゃあ、『空海』で!」
海も空も見えないような場所にいたから。
真っ白で、何にも染まっていない無限の可能性があるように思えたから。
「ずいぶん徳の高そうな名前にしたな」
六道さんは顎に手を当てて、何故か満足そうな顔をした。
レンゲちゃんはぱああっと表情を明るくし、何やら張り切った様子だ。
「空海さんですねっ。そうだ! 空海さんの首輪と散歩紐にぴったりな紐があるんですよ!」
レンゲちゃんはぱたぱたと奥の物置へ行き、赤と白の柔らかい布でできた紐を持ってきた。
それを空海の首にあててサイズを測り、見る見るうちに縁起のよさそうな首輪と散歩紐を作ってしまった。
「そういえばこいつ。俺が洞窟のなかでお鈴を落としちゃったら拾って咥えたんですよね。賢いなーって思いましたよ」
俺の発言に三輪さん、六道さん、サラサちゃんがそれぞれ違う感情で何か言いたげな顔をしているが、見なかったことにした。
「それでしたら、空海さんの首輪にもお鈴をつけておきましょう」
レンゲちゃんは楽しそうに空海の首輪に少し小さめのお鈴を縫い付けた。
空海はリンリンとなる鈴の音に楽しそうに跳ねていた。
レンゲちゃんは空海の頭を撫でながら「素敵ですよ、空海さん」と言っている。
そして抱っこしようとするが、俺の腕にはすっぽりと収まる空海は、レンゲちゃんの小さな体には随分と大きいようで今にも押しつぶされそうだった。
俺は良いことを思いつく。
「レンゲちゃん、レンゲちゃん。ちょっとおいで」
「?」
俺は三人掛けのソファの傍までレンゲちゃんと空海を連れて行くと、レンゲちゃんを膝の上に乗せた。
そしてソファに飛び乗ってきた空海をキャッチしてレンゲちゃんの膝の上に乗せた。
「これならレンゲちゃんでも空海を抱っこできるでしょ?」
「わんっ」
空海は嬉しそうに鳴く。
しかし、それ以外の人たちは。
「「「「――……」」」」
なぜかとても微妙な顔をしていた。
「え、なんすか?」
「あーえっとねー……」
「ごほん。俺は何も見ていない」
「インガ。あなた知らずにやってんでしょうけど……」
「サラサさんはなんでそんなゴミを見る目で俺を見つめてるんですかっ!?」
俺の膝の上でレンゲちゃんがもぞもぞと動き、こちらを仰ぎ見た。
「インガ君。これだとまるで小さな子供みたいです」
「何言ってんの。レンゲちゃんは小さい子供じゃん」
「私、子供じゃないですっ!」
レンゲちゃんは今度はくるりと体ごと俺の方を向く。
その拍子で、レンゲちゃんの懐から何か光るものが滑り落ちた。
(鏡?)
――カシャン。
「あっ」
レンゲちゃんが声を上げる。
落ちた鏡にひびが入っているのが見えた。
(綺麗なのに、勿体ない。直るのかな……)
――ボフンッ!
(ぼふん?)
俺は膝の上で起こった大きな変化に驚愕した。
「へ?」
(なんか、柔らかい? あとちょっと重くなった?)
俺の膝の上から、俺の知っているレンゲちゃんがいなくなっていた。
その代わり俺の膝の上に乗っていたのは――
「あの……インガ君。この姿でこの体勢は少し恥ずかしいので降ろして欲しいのですが」
とんでもない美少女だった。
珊瑚色の髪。
金色の瞳。
サイズが小さく着崩れた薄緑色の着物。
どこかで見覚えのある色だった。
「えっ!? 誰――!?」
「「「…………」」」
俺がキョロキョロしていると、他の皆はそっぽを向いている。
「え、何すかっ!?」
――ガタ。
その時、奥から物音が聴こえた。
俺はそっちを向いて、後悔した。
「インガくぅーん?」
「な、奈落社長……? 居たんすか?」
「今帰ってきたんだよお。それでえ、僕の可愛いレンゲちゃんがどうしてインガ君の膝の上にいるのかなあ?」
「こ、これは誤解なんです! っていうか、え? なんなんすか、この状況!? レ、レンゲちゃんなの!?」
珊瑚色の美少女が俺の膝から降りた。
胸の前で空海を抱きかかえながら。
「はい。そうです。これが私、奈落レンゲの本当の姿です」
● ● ●
「えーっと、つまりこういうことでしょうか」
俺は正座していた。
あくまでも自主的にだ。
今日は色々な人に迷惑を掛けてしまった挙句に、期せずして珊瑚色の乙女の秘密に触れてしまったからだ。
「この鏡は割れてしまった鏡は『浄玻璃鏡』と言って、凄い力を持っている鏡で。でもその力を使うには『供物』が必要で。その供物としてレンゲちゃんは自分の『時間』を捧げていると」
「はい。そういうことです。これは正確には閻魔様がお持ちになっている『浄玻璃鏡』の模造品で親子鏡なのですが」
俺の目の前には身体のサイズに適した着物に着替えたレンゲちゃんが居た。
お陰で目のやり場的なものでは困らなくなった。
「あと、時間を供物にってどういうことですか」
「私は十五歳で死にました。そして閻魔様に指名され、奈落社で働かせていただくことになりました。その理由が私の持つ能力にあります」
「レンゲちゃんが持ってる能力?」
「私には皆さんのような戦闘力はありませんが、『巫女の力』というものを生前から持っていました。生前、私は神に仕える身の上でした。閻魔様は『浄玻璃鏡』の力を使って魂の記憶を視ますが、私が持つ巫女の力は浄玻璃鏡を使うのにとても相性の良い力なのだそうです」
「うん」
「ちなみに浄玻璃鏡の力は記憶を視るだけではなく、様々な力があります。実はインガ君も経験しているのですが、閻魔様のところからこの事務所まで一瞬で飛んだ移動の力です」
「あ、あれか」
「浄玻璃鏡はとても便利で強い力ですが、その分代償もあるのです。私には閻魔様のような大きな力はありませんので、私は自分が『十五歳の姿でいる時間』を供物に捧げて、鏡の力を使っています」
「でもどうしてそこまでして浄玻璃鏡に供物を捧げるの?」
レンゲちゃんは俺の問いに迷いなく笑った。
「私がそうしたかったんですよ。人の役に立ちたかった。だから、確かに不便はありますが、『供物』を捧げることなんて大した問題ではないのですよ」
――自分がしたかった。
――人の役に立ちたかった。
俺は自分の中で何かがすとんと落ちる音がした。
● ● ●
俺は寮に戻ってくると、地獄区中央の温泉街のような場所まで空海を散歩に連れてきた。
そこで地獄温泉に向かう三輪さんと六道さんに会った。
「今日は大変だったねー」
「いや。俺の自業自得でした。迷惑かけて本当にすみませんでした」
「もう、いいよー」
三輪さんは手をひらひらと振っている。
「でも、大変じゃないっすか。あんなのと毎日戦ってるんですよね」
「んーまあハードではあるよー。だけど温泉入り放題の福利厚生に俺は満足してるかなーって感じ」
「欲がないっすね」
「うーん。まあ俺は人間として生きてたときに欲に塗れてたから、死んでまでは良っかなーって感じかな」
「えー。三輪さんマジ闇深げっすね」
「まあ『若気の至り』って奴ですよー」
三輪さんはふざけたように笑う。
しかし、すぐに真面目な顔になった。
地下の偽物の空は夕焼けに染まっていた。
「インガ君はどうして無茶をしたの? しかもそれが板についている気がしたんだけど」
俺は俯く。
空海が俺の足元で大人しく座っていた。
「俺、自分のこと良く分からなくて。なんで死んだのかも分からないし。でも、今日レンゲちゃんの話を聞いて、思ったことがありました」
「レンゲの話?」
六道さんが不思議そうに聞き返してくる。
「はい。どうせなら人の役に立ちたい。誰かを助けたいって……そう思ったら身体が勝手に動いてしまいました」
「インガ君は優しい子なんだね」
三輪さんは笑うが、六道さんは俺を近くでじっと見下ろした。
俺は少し身構える。
「人の役に立ちたいなら、まずは自分を救え。力をつけろ。じゃなきゃ誰も救えないんだよ」
その言葉は厳しいけれど、ひどく的を射ている気がした。
「はい……」
「冷たいふりしてやっくんはインガ君に優しいよねー。こんなこと言ってるけど、やっくんはインガ君のことすごく心配してたんだよ」
「はい。優しいっす。三輪さん、六道さん、心配かけてごめんなさい。ありがとうございます」
俺はもう一度頭を下げて心から感謝した。
俺はここでなら少しは誇れる自分に、誰かの役に立てる自分になれる気がした。
この人たちの背中を追えば――。
そう思った。