第9話 『主従ノ契約』へようこそ
三輪さんと六道さんと別れた後、俺はしばらく空海を連れて散歩をしていた。
(こうやって歩いていると、自分の中の気持ちを整理出来る気がするな)
広い地獄区中央をふらふらと歩いていると、青竹の香りがして顔を上げた。
「ここ、どこだろう」
辺りを見渡すと、いつの間にか竹林に囲まれた場所に入り込んでいた。
そしてその奥から湯気が上がっているのが見えた。
「お、見てみろ空海。こんなところに足湯があるぞ!」
俺は空海を連れて茅葺屋根の下にある足湯に近付き、空海の横にしゃがみこんで中を覗き込む。
「ほらこれは足湯って言うんだぞー。空海は温泉に入ったことはあるか」
「くぅーん」
空海は悲し気な声で鳴く。
「そうか、ないか。俺、足湯好きなんだよなあ。冬の足湯は最高だぞ」
(そういえば、この世界に季節はあるんだろうか。暑くも寒くもないというか、死んでから今まで全く意識してなかったけど)
ここは何もかもが不思議な死後の世界。
六つの世界のどれでもない狭間の世界。
それを今更ながらに実感した。
俺はしゃがみ込んだまま、無意識に空海の頭を撫でていた。
「おい、そこのお前。犬は足湯に入れたら駄目だぞ」
少しぼうっとしていると、聞き覚えのある声が聞こえた。
俺は空海を抱き寄せながら振り返り、その声の主を見上げた。
「見ているだけですよ、マトイ先輩」
マトイ先輩は屋根の陰になった場所にいる俺の顔が見えないのか、目を凝らしている。
「お前……黒巌インガか」
俺はその時、今日行方不明になった件で色んな人に迷惑をかけたことと共に、この先輩が俺とレンゲちゃんのことでやたらと突っかかってきたことを唐突に思い出した。
だから俺は立ち上がる。
そして――。
「……――お疲れ様でしたっ!」
俺は空海の紅白の散歩紐を引っ張って回れ右をした。
(この人に知られたら、また絡まれる!)
それは絶対に面倒くさい。
せめてレンゲちゃんが幼女の姿に戻るまで、なるべく接点を減らして置かないといけない。
(俺はここでなるべく平和に暮らしたい!)
しかし俺の願いは叶わなかった。
「ちょっと待て」
そのたった一言。
「ごめんなさい……」
だけど俺は観念した。
それから俺はマトイ先輩の後に続いて足湯から少し離れた場所に置いてあるベンチに並んで座った。
だけどマトイ先輩は俺を呼び止めてから十分以上もダンマリを決め込んでいた。
そして俺は沈黙に耐えかねた。
「あのー……すみませんでした。今日騒ぎになってたんですよね、俺が消えたって。ご心配とご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
「別に俺は良い。俺が何か対処したわけじゃないからな。だけど、三輪所長や六道さんたちに迷惑かけるんじゃねえよ。半端な覚悟でうろちょろしやがって」
マトイ先輩の言うことは、ただただ正論で返す言葉もなかった。
「仰る通りです」
「やけに素直だな」
「……マトイ先輩は俺のこと何だと思ってんですか」
「不埒者」
俺はその言葉に、レンゲちゃんの白い太腿を想い出してしまった。
「ぐぅっ!」
そして俺は罪悪感に耐えかねた。
(……だから逃げたかったんだ)
俺は風を切るように頭を下げた。
「すみませんっ! 実はレンゲちゃんの本当の姿のこと、ついさっき知りました。まさか美幼女の正体があんな美少女だとは思わず……!」
「さてはお前、隠し事が苦手なタイプか? 莫迦なのか?」
マトイさんは可哀想なものを見るような微妙な表情をする。
しかし、マトイ先輩は唐突にその黒い眼をかっぴらいた。
「――というか、今レンゲさん元の姿に戻ってんのか!?」
(圧が凄い。圧が)
「あ、はい。浄玻璃……鏡でしたっけ。ちょっと色々あって鏡が割れちゃいまして……。明日の夜、閻魔様のところに行くときに修理をお願いしようって。ああ、その、元々こいつを閻魔様に会わせる約束をしていて」
俺は慌てふためきながら空海の方を見る。
「ああ、その犬な。確か邪気祓いの犬だとか三輪所長が言っていたな」
「はい、らしいっす。名前は『空海』って、言います。仲良くしてください」
俺はマトイ先輩の目の前に、ぬっと空海を抱き上げてみせた。
だらんと伸びている空海の背中越しにマトイ先輩を覗き見る。
「む。かわいいな……」
「わんっ!」
空海のつぶらな瞳を見つめるマトイ先輩の瞳は揺れていた。
マトイ先輩はどうやら、『かわいい』と『かっこいい』に弱いらしい。
「よし、空海。こいつに代わって俺がお前の手綱を引いてやろう」
マトイ先輩は俺から空海の手綱を奪っていった。
俺はその後、妙に空海にめろめろなマトイ先輩と一緒に寮に戻って行った。
● ● ●
地獄区の偽物の夜空は黒に近い濃紺となっていた。
俺は寝る前に共同キッチンの電子レンジで牛乳を温めていた。
ここでの最初の夜に三輪さんに入れてもらった時以来、就寝前のホットミルクブームが訪れていた。
そしてなぜか冷蔵庫の中に『空海用』と書かれた犬用のミルクが入っていたので、それを空海に準備した。
そしてなぜか容器まで用意されていた。
空色の容器に書かれた『空海』の文字は、きっちりかっちりしていた。
(三輪さんはもう少し流れる感じの字だし、六道さんはもう少し筆圧が強い。サラサさんは女子寮だし、レンゲちゃんは奈落社長と一緒に住んでるって言ってたしなあ)
レンジの中で橙に照らされたマグカップを見ながら、俺は一人の人物に思い至った。
(……もしかして、マトイ先輩か? うん。なんか今、正解に至った気がする)
ピーッという電子音が鳴り、俺はわずかに湯気の立つマグカップを取り出した。
俺はホットミルクに溶かす蜂蜜の瓶の蓋を開ける。
瓶まるごと三輪さんにもらったものだ。
蜂蜜を溶かし、それをまさに飲もうとした時、空海が跳ねるように擦り寄ってきた。
「くうーん」
「えー。空海も欲しいのか? でも犬って蜂蜜食べて良いのかな」
生前であればこんな時にはポケットからスマートフォンを取り出して調べるけれど。
だけど今はそれは出来ない。
正式に門番に採用されれば、スマートフォンの形をした端末が与えられるが、中身はほぼ無線のようなもので、機能も門番用に特化したものらしい。
「菌がどうのとかで赤ちゃんは駄目って言ってたよな。――っ痛!」
急に頭が鋭く痛み、思わずこめかみを手を当てる。
まだ閉めていなかった蜂蜜の瓶の蓋がカランと鳴ってキッチン台の上で回る。
軽やかな音とは反対に頭の中はもやもやと何かが蠢いている感じがした。
(……どこかで今と似たことがあったような。いつ、どこでだ……)
目を閉じ、集中するが思い出せない。
「くうーん」
空海が早く寄越せと言うように、俺のパジャマの裾に嚙みついて引っ張ってくる。
「ああ、空海。ごめん、ごめん。とりあえずお前はこれだけで我慢な。なんかあったら困るもんな」
俺は空海用の皿に犬用のミルクを注ぎ、空海の前に置いた。
舌を伸ばしてミルクを飲む空海を横目に、俺は神印の蜂蜜をホットミルクに溶かした。
琥珀色の液体はスプーンで混ぜるとすぐに溶ける。
俺はキッチンに置かれている丸椅子に座り、空海を眺めながらゆっくりとホットミルクを飲んだ。
俺とほぼ同時に自分の分を飲み干した空海はその皿に手を伸ばす俺の顔を目掛けてぴょんと跳ねる。
「ちょっ。空海舐めるなって」
空海はぺろりと俺の口元を舐め、楽しそうに弾んでいる。
「わんっ!」
「空海は元気一杯だなあ。でも俺はもう眠いし、早く部屋に戻ろうな。お前も疲れただろ」
俺は片付けを終えると、空海を抱えて二階の自室へと向かった。
一日で色んなことがあったせいか、俺は泥のように眠った。
● ● ●
「わんっ――!」
(わん?)
目覚めると犬の鳴き声が聴こえた。
「――空海! お、お前なんで俺の布団の中で寝てんだ? 折角レンゲちゃんが専用のベッドを用意してくれたってたっていうのに」
空海用にレンゲちゃんが持たせてくれた犬用のベッドは空で、家主は俺の胸の上で楽しそうに舌を出している。
「わんっ」
「いやいや、『わん』じゃなくて……」
俺は身支度を整えて制服に着替えると、空海を抱えて寮のロビーに降りた。
すると三輪さんと六道さんもちょうど朝食を食べに行くところだったらしく、玄関の前で立っていた。
「おはようございます! 三輪さん、六道さん!」
「おはよう、インガ君。あれ……面白いものつけてるね」
「おもしろいもの? なんすか?」
「うーん。……インガ君。君この子と主従契約結んでることになってるよ」
「え……主従契約?」
「これ、この首にある痣」
「見えないっす」
「それじゃあ……手伝ってあげるよ」
俺が首を見ようとわたわたとしていると、三輪さんは急に刀を抜いて俺に近付いてくる。
「ちょちょちょちょっ何すか!?」
俺がぎょっとしていると三輪さんは刀をインガの顔の前に翳した。
そこには鏡のようにインガの姿が反射して映る。
(紛らわしいな!)
「……なんすか、この痣」
曇りなく磨かれた銀色に光る刀には、蓮華の花の形をした紅い痣ができていた。
三輪さんは悪ふざけするように俺の肩にもたれかかってくる。
この痣の犯人らしい空海は気にした様子もなく、俺の腕の中で尻尾を振っている。
「これが主従の印だよ。君が寝ている間にでも、この子に齧られたのかなー。【闇黒】にも喰われかけてたし、インガ君ってそんなに美味しいのかなー」
「へ、変なこと言わないでくださいよー」
「うーん。僕も味見しちゃおっかなー」
三輪さんが本気か冗談か分からない表情で、口を開けて俺の首元まで近付いてくる。
「ななななななななな…………!」
その時、三輪さんの頭が大きな手によって大きく沈んでいった。
「やめろ」
(六道さん……!)
俺は感動していた。
(六道さんのこと、俺は最初から信用していましたよ!)
「えへっ。ごめんねー、インガ君。ちょっと悪ふざけが過ぎたね」
三輪さんは六道さんの手から逃れると、舌をペロッと出して本気で謝っているのか怪しい素振りだ。
六道さんはそんな三輪さんをちらっと見て溜息を吐いた後、インガの方に真剣な目を向ける。
「……インガ、その痣。本当に『犬』が『犬』を従えてんのか」
「……六道さん、酷いっす。俺の感動を返してほしい」
「あっはっは。やっくんにしては上手いこと言うねー。ははははは……ははははは」
その後しばらく三輪さんがツボに入って大変だった。
朝食を食べに食堂まで行く最中もずっと三輪さんは笑っていた。
というわけで、朝食を食べ始めてからやっと俺の首に刻まれた蓮華の痣を話を真剣にし始めたのだった。
「ところで、何を供物に契約痕を刻んだんだろうねえ、この子」
「インガ、お前何かこいつに食わせなかったか」
「えっと、昨日は食堂で食べさせて、そのあとは犬用の牛乳をあげました」
「インガ君、もしかして昨日ホットミルク飲まなかった?」
「飲みましたけど」
「ねえ。蜂蜜、『神印』の蜂蜜を空海にあげなかった?」
「いや、あげてないっすよ。犬に食べさせていいのか自信なくて」
「うーん。僕の考え違いか」
「…………いや、でも空海は、蜂蜜入りのホットミルクを飲んだ俺の口を舐めてました。でも、本当にちょっとですよ! 食べたって言わないレベルっすよ!」
「――いや、間違いなくそれだ」
俺が必死に言いつのると、六道さんが低い声で断言する。
「あれは霊的欠損を補う特別な蜂蜜なんだよ。だからこそ三輪はお前に譲ったんだろ」
「空海はそれを供物にお前と主従契約を結んだんだよ」
「そうなのか、空海?」
「わんっ!」
「まじか……」
「でもあれだよー、インガ君。これは本格的にこの子に対して責任取らないとだよー。『主従の契約』ってそんなに軽いもんじゃないからねー。例えこの子が自ら望んで結んだものだったとしてもね」
「まじっすか……」
(問題ばかり起こる気がするけど、俺は死ぬ前に何かやったんだろうか……)
俺は答えを求めるように空海のつぶらな瞳を見つめた。