第8話 告白と恐れ
「失敗したなぁ…」
家に戻った私はいつも通り家事を済ませると、特にやることもなかった。
洗濯が溜まっているわけでもなし、料理を手早く済ませた後は自分の時間がやってくる。
家族と楽しく話す時間はうちにはない。リビングのテレビももうずいぶん使っていない。見ないなら受信料も勿体ないし、処分してしまえばと何度も思ったけれど、まだ踏ん切りはつかなかった。
自室に籠って好きなことをやる。今日は本を読んでいる。まるで一人暮らしの気分だ。
快適なようで、ふと我に返れば孤独な時間に身を浸すことになる。
いまどきの人は本なんて読まない。ゲームかネットか芸能人の話ばかりだ。
友達を作ろうとしたことがあるけれど、それが機能していたのはまだこの家が家庭として成
り立っていたときだけで、小学生の終わり頃からは、自分一人でなんでもやらなければいけない現実をどうにか切り抜けるだけで精一杯だった。
自分で全てやらなければ。そういう思考になっていくのは当然のことだった。今日得た成功も失敗も、すべて自分のものになる。
そんな現実は、余裕がない。
だから、今日みたいに大切な人を傷つけてしまった日は、何をやってもすっかり気持ちが滅入ってしまって結局、私は倒れこむように布団に潜ってしまっていた。
……、………。
「ん……」
ベッドのそばに置かれたテーブルの上で、スマホが振動する。
「なに……?」
指で目頭を揉みながら液晶を見つめると、もと花からの着信だった。
跳ね起きると深呼吸して、気持ちをしっかり整えてから電話に出た。
「もしもし」
「もしもし、あいちゃん? まだ起きてる……?」
ちらりと時計を確認すると、もうすぐ0時になる。
「まだ起きてるわ。どうかしたの?」
直接の電話なんて珍しい。普段はメッセージのやりとりで済むはずなのに。
「いきなりごめんね。メッセージだとやっぱり話しづらくて……」
「メッセージ?」
通話をスピーカーに切り替えてから画面を見ると、メッセージ通知が来ていた。
「ごめんなさい、いま気がついた」
「疲れているならまた今度でもいいよ?」
「話したいことがあるんでしょう?」
「……うん。ちょっと見てくれるかな」
アプリを立ち上げてもと花からのトークを見る。これは……誰かからのメッセージのようだ。山谷亨と書かれている。男子だろう。今日の下校直前に向こうから送られてきたようだ。
「そのことについて自分でも考えたんだけど、気持ちの整理がつかなくて。だからあいちゃんに相談したかったの」
画面を見ると、二人は随分久しぶりに話したらしいことが伺える。
「部活の先輩から」
もと花の言葉が聞こえて、最後の文章に私は目が釘付けになった。
――桜庭さん、明日直接会って話したいことがあるんだ。部活のことじゃなくて、個人的なことなんだけど…放課後、工作室裏門側の外庭にきてもらえないかな?
これって……、
「まるで告白するみたいじゃない」
「うん。……告白されるんだと思う」
もと花は確信めいた調子でそう言った。
「……どういうこと??」
「その人、バトミントン部の先輩なの。わたしが部活にいた頃よく話してた人で、結構仲の良かった先輩なんだ。わたしがいなくなった後も、時々やりとりしてて……」
眠気が急速に覚めていき、私の知らないもと花の想像の姿がぐるぐると頭を駆け回り始める。
快活な、真人間らしいもと花の姿を。
私もそんな人になりたかった。
羨ましい。でも彼女はそれを辞めてしまったのだ。
「もちろん絶対に告白だって決まったわけじゃないんだけどね。直接好きだって言われたことなかったし。でもなんとなくそんな予感がするんだ。今思い返してみれば、向こうはわたしに好意を抱いてくれてたんじゃないかなってこと度々あったと思うし」
「本当に告白なの?」
尋ねずにはいられない。そうじゃないかもしれないという可能性を信じたかった。
「教えてもらいながら夏の市大会でベスト8に入った時なんか、自分のことのように喜んでくれたりしてさ。今思えば、他の人よりもずっと可愛がってもらってたと思う。辞めた今でもずっと声をかけてくれてるし、それに、どうでもいい話ならそんな場所を指定しなくていいだろうし」
工作室は校舎の端のほうにある場所で、教室やグラウンドから離れている人通りの少ない場所だ。もと花の言うとおりである。
「それで、あいちゃんに意見を聞きたかったの。わたし、正直好きとか嫌いとか、その先輩に抱いたことがなくて……。恋した、なんて自覚をしたことはまだ一度もないんだ。だから、なんて返せばいいのかなって分からなくなっちゃって……」
「……返事は、するべきでしょうね」
内心動揺していた。
自覚がないなら断ればいい、そんな簡単なことも言えないほどに私は打ちのめされていた。いや、そうじゃない。私だってなんて答えたらいいかわからないんだ。適当なことを言ってもと花を傷つけてしまうことが一番やりたくない。今日は私たちの心のチャンネルはズレているんだ。ズレているのなら、落ち着いてもと花のために彼女が一番必要としていることを代弁して言うことが私の役目じゃないか。
黙考する。
もと花が探していることはなんだ。自分が伝えたいことはなんだ。
相手に対して最も誠実に思いを伝えるなら、何をどう伝えるべきか。そう思い至って、自分の中からふっと言葉が湧き上がった。
とりあえずは。
「分からない、でもいいんじゃない」
それでもいいと思った。
「え?」
素っ頓狂な声が響く。
「好きか嫌い、白が黒か。それだけじゃないでしょう。分からないというのもシンプルにもと花の意見だと私は思う。今はそれを伝えるだけでもいいんじゃないかしら」
「そう…そうだよね、それでもいいんだよね」
もと花は確認するように何度も呟いた。彼女の中を占めていた思い。それを相手に合わせて変えることは、装飾するようなことは、必要ない。
「そうしてみる!」
声音から、もと花の曇っていた顔が晴れていったのが伝わってくる。
私は安堵する。良かった。それだけで満足なのだ。
もと花にはいつまでもずっと笑顔でいてほしいのだから。
「今日はごめんね、あいちゃんに嫌な事言っちゃって。あいちゃんの好きって気持ち、バカにしてた」
「そんなこと。私の好きって言葉が気安すぎたのよ」
もと花の事情を知っていたなら、もう少し気の利いた事が言えたはずだ。
「なんだか安心したら少し眠くなってきちゃったかも」
「全くもう、マイペースなんだから」
電話口から欠伸をしたままの声で「ごめーん」と返って来る。
私は肩をすくめて見せるが、悪い気は全然しなかった。
頼ってくれるのは素直に嬉しいから。
「今日はもう寝なさい。不安なら、また明日聞いてあげるから。寝不足じゃ頭も回らないわよ?」
「そうだね、その方がきっといいと思う。おやすみなさい、あいちゃん」
「おやすみ、もと花」
「…………ありがとね」
そう言ってもと花からの電話は切れた。
「先輩……か。羨ましいな」
素直に羨ましい。私にはない関係性だ。
――俺は、桜庭さんのことがずっと好きだった。
想像の先輩の声が勝手に頭の中で再生される。
先輩はまだ好きだと告白していない。けれど、見たこともないその人の言葉は多分、当人の意図したとおりにもと花にそういう意味だと受け取ってもらえていた。
でも私の『好き』は、全くもと花に響いていない。
見えない厚い壁が私たちの間にずっとある。
クラスメイトの原田は、勇気を持って武藤に告白した。
その勇気に素直に敬服する。それが結果としてこんな悲劇に至ったとしても、私も同じようでありたいと思う。
自分の好きがどれくらいの好きなのか、今すぐもと花に知ってほしい。
私はなんて我儘なのだろう。そんな話は、今日すべきことではないはずだ。
自分でも分かってる。今日はただでさえチャンネルがズレている日なのだ。少し話がうまくまとまったからと言って、それをすぐかき乱すべきじゃないし、そうはしたくない。
でも……もし、もしもと花が先輩からの告白にオーケーの返事をしたら?
「ふっ」
肺に詰まっていた空気が弾けた。
私も寝よう。夜更かししたってどうにもならないのだから。
スマホをテーブルに置き、再び布団に入る。
目を閉じる……けれどいつまでも寝付ける気配はない。
ぼんやりしようとすればするほど、もと花との話で高揚していた気分は冷めていき、今度は考えるべきでない嫌な想像が沸々と湧き起こって来る。
もし、もと花がその先輩と相手と付き合うことになったら。
地に足がついていないかのような気持ち悪い浮遊感が、足元から全身をすっぽりと包んだ。
不安感で視界は塞がれ、胸が苦しい。
あの感覚だ。私はこれを嫌と言うほど知っている。
孤独感。
自分が世界からも『私』からも隔絶されて、墨の海へ永遠に沈んでいくような気がしてくる。
この感覚が来ると、次は、それが来る。
瞬間、見えている景色が遠のいた。
いつの間にか私は、自分の全身を遠くから眺めている。まるで映画を見ているかのようだ。
苦しい。私は急速に私から離れ、なのに私でない“わたし”が家の中を歩いている。
その光景が見えている。いや、見えていないのか。それすらも定かではない。宙に浮かぶかのような錯覚と共に意識がどろどろに溶けていく。
そうなってしまうともう、私にはもうこの感覚を止められなかった。