第20話 2学期
あの後、わたしたちは帰りの電車を逃してしまって、もう一泊することになった。
英吾くんと汐崎くんが泊まっていた旅館に、わたしと望くんもいっしょになって泊まらせて
もらうことになって。本当はその日がチェックアウトの日だったらしいのだけれど、運良く予約が入ってなくて、無理を言ってそのまま延長させてもらえることになったのだ。
そして、わたしが呼びかけても――英吾くんはもう、現れることはなかった。
「英吾は……弟は、私と一つになったの」
あいちゃんの中にはまだいるみたいけど、その存在のあり方は今までとは違うらしい。
――僕の願いは、お姉ちゃんが幸せになることだから。
汐崎くんからは、英吾くんがずっとそう願っていたことを聞いた。
「わたしたちの幸せを守るために英吾くんは自分の人生を犠牲にしてしまったのかもしれない」
わたしはあいちゃんに罪の意識を打ち明けると、
「大丈夫、そうじゃないよ。僕はお姉ちゃんを幸せにするために、一つになったんだよ」
と、一度だけあいちゃんは英吾くんの言葉を代弁してくれた。
わたしにはうまく言葉に出来ないのだけれど、きっとあいちゃんと英吾くんのなかでは話し合いがついて、本当の意味で一人の人間になったのだろう。
夏休みはあっという間に過ぎていった。
宿泊費ですっかりお金がなくなったわたしは、8月のお盆を過ぎるまではお金のかからない遊びで毎日を過ごしていた。
宿題をはやめにやったり、あいちゃんがわたしのお家に来たり、わたしがあいちゃん家に行ったり……そんな普通の日々は、わたしたちがそれこそ今年の春ぐらいからずっとしようねって話していたことで。まさか約半年もかかってしまったことには、二人とも苦笑してしまった。
あまりたくさんの場所には行けなかったけど、それでも充実した日々だったと思う。
冬になったら、今度はどこか遠くに旅行に行きたいな、なんて。
そして今日からは……いよいよ2学期が始まるのだ。
「よし、こんなところね」
鏡の前で私は、制服を着た自分の姿を上から下までチェックする。
「あいちゃん、朝食できたわよ」
キッチンからお母さんの声が聞こえた。
「はーい。すぐ行くね」
髪が崩れていないかもう一度だけチェックする。
ロングヘアだった私の髪は数日前にミディアムにまで短くした。
気に入っていたしもっと伸ばしたかったけれど、一度心機一転したい思いがあったからだ。
後ろで髪をポニーテールにまとめているとなんだか英吾っぽくもあるな、と思った。
海鏡の池までの断片的な記憶は日に日に少しずつ蘇って、今では思い出すのにあまり苦労を要しない。
自分の中にずっと引きこもっていたから、外に出たら出たで、情報の奔流にくらっときそうではあったけど、あのときはもと花の唇に夢中になってしまって、というかみんないろいろあったのだろう、旅館に泊まれるとなった途端、部屋に入ったらみんなで爆睡してしまった。
起きたらもう英吾の声ははっきりとは聞こえなくなってしまった。
代わりに、以前は感じられなかった英吾の気持ちがその時からなんとなく分かるようになった。
彼はもう何も言わない。
あの時の私と同じように、心のなかに籠もっているのとも違う。
わたしたちはきっと、本当に一つになったのだ。
たまに夢の中に現れることがある。そこで私と彼は話すことがあるのだが……目が覚める頃には、何を話していたか忘れてしまっている。
弟はそれで満足なのだろうか。
………うん。今も私といっしょにこの世界を見ている気がする。
意識を集中すれば指先の感覚を感じられるように――その存在だけははっきりと私の中に感じられるのだ。
「お母さんのごはん、いっしょに食べようね」
そう私は鏡の前の自分に言って、お母さんのもとへ向かった。
朝食を食べ終えると、私は鞄を掴んで家を出ようとする。
「あいちゃん」
お母さんが玄関口にまで見送りにきてくれる。
「行ってらっしゃい。お母さんも頑張るから。これ良かったら食べてね」
手渡されたのは弁当だ。わざわざ作ってくれたのだろう。お母さんのその手はまだ微かに震えている。
「ありがとう。お母さんも……無理しないでね」
私がそれを受け取ると、お母さんは少し安堵した表情を浮かべた。
「それじゃあ、行ってくるから」
ドアノブを開きながら軽く手を振って、私は外に出た。
まだ私とお母さんの距離は完全になくなったわけではない。
しろがね温泉での出来事のあとは正直憂鬱な気持ちだった。
またこの家に帰らなければならないのか……と思っていたけれど、扉を開けて中に入ってみれば、全部の部屋がきちんと清掃されて、物が整っていて、お母さんは食事を用意して私を待っていた。
はじめはすごく警戒していたけれど、家の様子とお母さんの態度もあって、随分久しぶりにまともにお母さんと話をした。
どちらかというと、私がお母さんの思いを聞く側に回っていた気がするけれど、これまで感じていた不安な気持ちと私に対しての申し訳なさを正直に打ち明けてくれた。
私もお母さんも、まだ完全に打ち解けているわけではない。あの手の震えは、不安の現れなのだ。
お母さんは生活のためにまた働こうとしてくれている。
主婦になって少しの期間はパートなんかをやっていたようだけれど、それからもう随分経っている。不安でないはずがない。
だからいま私にできることは……言葉だけだとしても、娘として母を支えていこうと思った。
ここまでしてくれて、お母さんを以前ほど恨んでいるわけはないのだ。
私だって、母娘仲良く暮らしていけることをずっと望んでいたから。
お母さんだって犠牲者なんだと私も分かっていたから。
そんな普通だけど、かけがえのない関係を取り成してくれたもと花には人一倍感謝している。
顔を上げれば、商店街の入り口の方で彼女が私を待っている。
「あいちゃん! おはよう」
いつもの朗らかな顔でもと花は迎えてくれる。セミロングくらいだった長さの髪の毛はもっと伸びて、少し前の私の長さにまで迫っている。私に憧れて伸ばしているらしい。
「おはよう。それじゃ行きましょうか」
私ももと花に負けないくらいの笑顔を浮かべて、私たちは手を繋ぐ。
いつものように他愛ない話をしながら、ゆっくりと学校へ向かうのだ。
教室の様子は少しだけ以前と変わった。
席替えがあって、私がもと花の右隣になったというのもあるけど、あの汐崎晴の髪が黒髪に戻っていたということの方が反響が大きかった。
見栄っ張りな派手さや悪い友達付き合いを止めようとしているらしく、そのテのグループの人には随分とそっけなくて、最初は何かあったのかと心配されている様子だったけど、午後には早々、居場所を失って一人になっているようだった。
それでも彼が気にした様子はない。同じ教室だから時折私やもと花と視線がすれ違うけれど、強気な眼差しはもうなくて、困ったような頼りなげな、曖昧な視線を向けるのだ。
晴はもう演じることを止めたのだろう。
彼とは辛い思い出もあるし、私より英吾を優先していたのは事実だけれど、憎む気持ちは一切ない。
私と彼は考え方が似ていると思うし、もと花と付き合うために力を貸してくれたのは紛れもない事実だからだ。それに、私が弱っていたときに晴を少しだけ愛おしく感じたことも決して嘘ではない。
晴は私たちに複雑な感情を抱いているかもしれないが、私は必要になれば彼を助けてあげたいと思っている。それがいっときでも私と英吾を大切にしてくれた彼への恩返しになればいい。
……でもその必要はないかもしれない。
「あいちゃん、食堂行こう? ずっと教室で座ってたら、お尻が痛くなってきちゃった」
もと花は財布だけ握っている。
「うん、いいわね。行きましょうか」
私は水筒と弁当の包みを鞄から取り出した。
「あっ、久しぶりにあいちゃんのお弁当貰っちゃおっかな〜」
「残念。今日はお母さんが作ってくれたの」
それを聞いてもと花の顔がほころんだ。
「へぇ〜、良かった。それなら私がもらっちゃダメだね」
「そんなことないわ。いっしょに食べましょう」
私たちは笑いながら教室を出た。




