第18話 言いたくて言えなかったこと
「もうこれ以上逃げたって無駄だぞ、晴!」
浮見堂の橋を抜け、白い砂利道を抜け、木の遊歩道を渡りきった先にはもう逃げ場はなかった。ひらけたその場所には、わずかに二人の背丈ほどの石があるだけで、周りは背の高い緑の木々で囲われてしまっている。かつてしろかねの炭鉱で働く人々の集落があったその場所は、今ではもう見る影もない。
それなのに晴は、まだ茂みの先へと逃げようとしていた。
「無駄だって言ってるのに――」
距離はもう僅かしかないのに、晴が必死に茂みの奥へ逃げ込もうとするせいで、その僅かがなかなか縮まらない。となるともう、こうするしかなかった。
「うぐっ」
望はわざと悲痛な声を上げて立ち止まると、ついさっきまで前しか向いてなかった晴がこちらを向いたのが分かった。
「望ッ! おまえ、また体が……」
具合が悪くなったふりをすると、晴が血相を変えて戻って来る。充分近づいたのを見るや、望は飛び掛かった。
「捕まえたッ!」
騙されたことに気付くと、晴は抵抗しようと暴れ出した。二人してその場を転げ回りながら、望はそれを抑えようとして馬乗りになった。
「晴、これ以上自分に嘘をつくのはやめろ!」
「何を!?」
「織櫛さんに親近感を感じてたんだろ? 今の自分の性別じゃいけないって。それで君はあいに協力した。彼女のなかに男の人格がいるって知ったとき、君は自分の体裁を取り繕う方法を思いついた!」
「分かった風なことを言うな!」
「全部分かってる! 晴は自分を騙そうとしたんだろう? 本当は男が好きなくせに、女の見た目をして中身は男の英吾なら、誰からも批難されることなく自分の愛を受け入れてもらえる。そう思ったんだろ! 不誠実だとは思わないのか⁉」
「俺はあいのことを愛してる! だから一緒にいた、力になった!」
「嘘をつくな! 織櫛さんの居場所をなくすよう仕向けたのはお前だろうに! お前のせいで彼女は傷ついたんだぞ?」
「あいつから桜庭と結ばれたいと聞かされるたび、俺がどれだけ辛かったと思う? あいつがいなくなったのは、俺のせいじゃねぇ! 俺だって悲しいと思うから英吾とここに来たんだ!」
「罪の意識を持ちたくなかっただけだろ! お前はあいつに僕の幻想を重ねて、自分を納得させようとしているだけだ。ごまかしてるだけなんだ!」
「おれは英吾を愛してるんだよ! だからお前とはなんでもない!」
「……本気で言ってるのか?」
「まだ嘘だと思ってるのか? お前とのあれは一時の気の迷いだったんだ。だから本気じゃないんだよ! 俺が男なんて、本気で好きになるもんか!」
「正直になれって、言ってるのに……」
望の声が震える。
それに気づいて、晴まで声が震え出した。
「……頼むからもう、俺の前に現れないでくれよ。忘れさせてくれよ。こんなの誰のためにもならないんだ。もし俺が正直に生きたら、学校での俺の立場も、母さんと築いてきたこれまでの関係も全部噓になる。お前にだって何されるか……」
望は晴の手を掴むと自分の右頬に触れさせた。そこに貼り付けてあった湿布をゆっくりと剥がさせると、その下に隠していた紫の痣に気付いて晴が息を呑んだのが分かった。
「……もう、されたよ。僕は君のお母さんに会った。だからもう全部分かってる。晴が変わっちゃったのは、あの人のせいなんだろ?」
晴は歯噛みした。
「母さんは悪くない! 母さんは俺を大事に育ててくれたんだ。間違ってなんかない!」
「だとしても、親が子供の指向にまで文句を言うのはおかしいだろ?」
晴は言葉に詰まった。
「……ここに来る前、君の家に行ってお母さんと話したんだ。ぶたれたよ、君につきまとうなとまで言われた。それでも僕は君のことが好きだから、君といっしょにいたいから。だからこうしてここまでやってきたんだ」
見えている紫の痣以上に大きな傷が晴の心にできたのを望は見た。
晴は何も言えなくなった。触れているそこから感じる確かなぬくもりに決意が揺れる。
「自分に正直なるのって怖いよね。誰だって勇気がいる。僕だってそうさ。逃げ出せば楽になれる、そんな風に思う時だってある。でもそうじゃないんだ。逃げたって、嘘ついたって、本当に幸せにはなれないんだ。君が僕を避けようとしたのと同じくらい、僕だって君から離れようとしたんだよ? でもできなかった。やっぱりいっしょにいたかったから。お母さんとの関係? 周りとの印象? 晴はそれが欲しかったの? 別に嫌われたっていいじゃないか。僕は晴のことが好きだよ。晴は……本当は誰が好きなの?」
「俺は――」
言いたくて言えなかったこと。言葉にするのは、まだ怖い。けれど左手から伝わる確かなぬくもりに、晴は嘘で塗り固めていた自分がゆっくりと溶け始めるのを感じていた。
「俺は――、」
望の涙が晴の涙に混じって、一筋の軌跡を描いて流れた。
「それが真実なら僕たちにはもう、嘘は必要ないから――だから、受け止めてよ」
近づいてくる望の顔を、晴はもう拒まなかった。
瞼を閉じれば、感覚とともにどす黒い罪悪感が晴の胸を灼いた。
声が聞こえた。多分英吾だったと思う。
風に乗ってふっと、俺のそばを駆け抜けた。
――僕は幸せをもらったから。もう大丈夫だよ。だから晴は、君の本当に大切なものを大事にしてね――。
地面の泥ですっかり汚れてしまった望を抱きながら晴は、
「ごめん」
皆に対して、そう呟いた。




