第17話 あいを追いかけて➂
僕が本当に大切にしたいものは何だったのだろう。
あの日、あいが消えたその日から僕は何度も内側にいるはずの彼女へ語りかけた。
出てきてほしい、声を聞かせてほしい。これまでのように自分が内側へ引っ込めばとそうし
たけれど、僕たちの間にはまるで扉が固く閉ざされてしまったかのように、入ることのできない隔たりが出来ていた。もう入れ替わることはできなかった。
何度も何度も呼び掛けた。けれど反応はなかった。
そんなときに、あいの部屋で一冊の本をみつけた。
あいは旅行雑誌が好きだった。勉強の傍ら一人眺めては、しがらみから解かれて遥か遠くの場所にいる自分を夢想していたのかもしれない。
その雑誌にはいくつも付箋が貼ってあって、そのうちの一つに目が止まった。
"生まれ変われる場所"。
あいはずっと居場所を探していた。
自分でいられる場所。
自分を必要としてくれる場所。
そんな自分を肯定することのできる場所。
ここではないどこか……。そこに行けばもう一度あいを取り戻せるのではないかという考え
が浮かんで、僕はその話を晴にした。
彼の行動は早かった。どう行けばいいのかいっしょに調べてくれて、夏休みが始まってすぐにここへ来ることになった。
彼なりにあいへの罪悪感があったのかもしれない。いや違うな。本当は僕のことが好きだったからというのが大きいと思う。彼だっていろんなしがらみから離れたかっただろうから。
いずれにせよ僕たちはここへ来た。
あいが行きたがっていたこの場所はネットで検索しても出てこなくて、その旅行雑誌にわざ
わざ別の雑誌の切り抜きがクリップ留めしてあったので分かった。
パワースポットという触れ込みが今では全く紹介されていないということは、担ぎ上げられただけで、本当は大した場所ではなかったのかもしれない。
それでもお姉ちゃんにとっては……特別な場所に感じたのだと思う。
夏休み前に話していた現実味のない、ただの願望でしかなかったとしても、……それでも僕は、あいのために何かせずにはいられなかった。
雑誌と切り抜きを手に、僕らはその場所を目指した。
――この小さなお堂は海鏡の池って言ってね。銅板葺きの四角い屋根がある以外には何もない場所なんだけど……冬から春にかけて辺りに積もった雪が解ける時、ここに水が溜まって、その時だけ浮見堂になるんだ。水面に映る自分に向かって祈れば、その人は生まれ変われるんだっていう、そういう逸話があるの――。
今、たっぷりの雨が降り注いで浮見堂になっている。
しかし降り続く雨に水面は乱され、仄暗い空模様のせいで、海鏡の池はその輝きを失っていた。
「お姉ちゃん」
だから呼びかけずにはいられなかった。
「お姉ちゃんが来たかった場所に来たよ」
ここに来れば、きっと戻って来てくれると思っていた。
それなのに。
「ねぇ、見て」
僕の心の中に、もう彼女は現れてはくれない。
「……もういいだろ」
晴は穏やかに言った。
彼は僕との幸せを望んでいた。だから彼が僕を後ろから抱きしめたのは、ごく自然なことだったろう。
僕も彼が好きだ。あいも、僕が彼との幸せを望むことを許してくれた。
それでも僕は、もう一度お姉ちゃんと会いたかった。
「寂しいよ……」
声に涙が滲む。
――――遠くから、誰かが僕の名前を呼んだ気がした。
顔を上げると降っていた雨はいつの間にか止んでいて、暗い雲を裂いて一筋の白い光がこちらに差し込んでくる。
遠くに髪を揺らして近づいてくる、二人の姿が見える。
僕たちはその顔を知っていた。
「もと花ちゃ――」
言い終わるよりも早く、晴が僕の手を掴んだ。
「逃げるぞッ!」
「逃げるってどこに?」
「ここじゃないところ。俺たち二人だけでいられるところに――」
海鏡の池には手前から奥へ橋が渡してある。晴はその奥へと走り出そうとして――。
「ごめん。僕はいっしょには行けない」
いっしょに走るのを止めると、晴も足を止めた。
「何言ってんだ英吾。今ここで諦めたら、お前の幸せは――」
「やっと分かったんだ。僕が本当はどうしたかったのか」
僕はとっさに晴の顔を傍に寄せた。
「英吾っ――」
僕はその時初めて、本当のキスの味を知ったんだ。
「僕のことを大切に思ってくれる人がいる、それだけで充分だよ。でも君とはいっしょに行けない。これは、向き合わなきゃいけないことだから」
「俺はお前といっしょにいたいんだ!」
晴はそれでも必死になってこちらに手を伸ばしてくる。
「君は、本当の思いをきちんと伝えなきゃだめだよ。その相手は僕じゃない」
僕は晴に背を向けた。
「……でも、こんな僕を好きになってくれてありがとう」
晴はいつになく取り乱して、その間にも二人はどんどん近づいてくる。
もう橋の手前まで来ていた。
「くそっ」
晴は一人、奥へと逃げていく。ようやく追いついた二人のうち望だけが、こちらを悲しく一瞥して晴を追いかけていった。




