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第6話

 今日は寝覚めが少し良かった。

 朝食を作るついでに自室に籠る母の分も作り置きしてきた。

 そんなことをする義務なんてないのに。私は非情になり切れなかった。

「行ってきます」

 いつものように虚空に挨拶して家を出た。

 これからどうやって生活していこう。

 考えるのはそのことばかりで、気づけばもう緑陵中学校までの長い坂を登っている。

 通学し始めた時はしんどいだけだった長い坂も1年もすれば慣れるもので、いやそれ以上にもと花とこの先で会えるからという事実が、私を前に進ませているのかもしれなかった。

「おはよー」

 下駄箱で聞こえた声に振り返ると、それは私に向けてのものではなくて他の生徒同士が話しかけただけのものだった。

 羨ましい。

 前に向き直ると、今度は遠くから駆けてきて手を振る少女の姿に目が惹かれた。

「あいちゃんおはよう!」

 毛先を跳ねさせながら隣にやってきたもと花はうっすら汗をかいている。

 ふっとシトラスやピーチ、グレープのような爽やか香りが駆け抜けた。

「汗かいてるよ」

 私は頬笑みを浮かべながら、胸の内が熱くなった。

「家出るのがギリギリになっちゃって。でも脚力には自信があるから」

 もと花はスカートを軽く持ち上げると、筋肉質な脚がより強調された。さすが元バトミントン部。

「今さらだけどもと花って運動好きなの?」

「ん~どうなんだろう。体動かすのがもともと好きだったっていう感じかな。でも帰宅部の快適さを味わったら、もう戻れませぬな~」

 手で扇ぎながら胸元に風を送っている。なんだか艶めかしい。

「あいちゃんはどうなの? 何かやりたいのないの? 部活」

「私は……ないかも」

 嘘だ。本当は何かやりたい。でもできなかった。

 母親からのか細い生活費で家事をしながら学業に勤しむのだ。それ以外の時間で運動するとか、遊ぶだとか――とてもじゃないが考えられない。

「強いて言えば私は……自由になりたいかな」

 自由。家族と離縁して、自分だけの人生を生きることが私の願いだ。

 そのために勉強だけはきちんとしている。

 進学できても貧乏な我が家には国公立の選択肢しかないだろうから。

「何かやりたいことがあるの?」

「……分からない。だから今探してるトコ。そのために読書してる」

 何も考えず無軌道に公立に進学するのは悪い選択肢ではないが、最良と言う訳ではない。

 将来何をするか。何がしたいのか。それを見据えればこそ初めて学問が生きてくる。

 受動的に得た知識は結局、雑学にしかならない。

 だから私が続けているのは他分野の読書……それが娯楽と言って良かった。

 そのようなことをもと花に伝える。

「読書かぁ。苦手だけど私もそういうことした方がいいのかも」

「図書室に通うのが嫌じゃなければ、面白そうなものを見繕ってあげるわよ」

 私は提案する。たとえ放課後であっても、もと花のためなら無駄じゃない。生きた時間だ。

「図書室かぁ、そう言えば最近行ってないね」

 もと花は坂の上を仰いだ。

 多分思い出しているのは図書室でのことじゃない。そこに来るに至った、バドミントン部でのことだ。

 まだ部活を辞めたことを気にしているのかもしれない。

 もと花は退部届を出さないまま辞めてしまった。辛いなら行かなくてもいいじゃないと、そう言ったのはほかでもない私だ。

 一年生の冬、私は彼女を図書室に迎え入れた。

 彼女は居場所を探していた。

 放課後のほとんど生徒がいない図書室は、自分の気持ちを整えるにはよい場所だった。

 私は図書委員の仕事をする傍らもと花の悩みを聞いて話したりしながら、それから少しずつ彼女は本来の自分を取り戻そうとしている。

 でももと花はまだあの辛い過去の日々を生きている。

 苦しみは終わっていないのだ。

 私はもと花の幸せな家庭に対しての浅はかな羨望感を呪った。幸せそうに見えて、心の中にどれだけ辛いものを抱えているか。

 何も抱えていない人なんているはずがないのに。

「私のやりたいこと、見つかるかな」

「見つかるわよ」

 即答する。

 もし私がもと花の生きがいになれたなら。そんな言葉を言おうとして、やっぱり恥ずかしくなってやめた。

 沈黙。ただ脚だけが前に前に進む。

「そういえば昨日テレビ見てたんだけどさー」

 もと花は話題を変えようとテレビの話を始めた。

 それに相槌を打つ。

 話したいことは他にあるのに。

 もと花は私のことをどう思っているの。

 聞いてみたい。でも、怖い。

 相手から拒絶される怖さはこれまでの人生で痛いほど学んでいた。


 結局テレビのどうでもいい話が続くまま、教室の前に着いてしまった。

 ふと、少し開いた教室の扉から漏れる声に気を取られた。

 素行の良くないクラスメイトたちの下卑た笑い声がこちらに響いてくる。

 私は眉を顰めた。

「こいつら二人、付き合ってんだってよ!」

 金髪と二人の男子。嫌われ者の3人組が2人の男子を取り囲み、殊更に騒ぎ立てている。

 原田と武藤だ。

「いつから付き合ってんだよ、教えろよ」

 今にも胸ぐらを掴みそうな気迫が漂よわせながら、一人が原田に詰問した。

「付き合ってないよ……」

 原田はガタイの良い体に似合わない弱弱しげな声を上げた。メガネをかけた線の細い武藤を庇うようにして3人の前に立っている。静まり返る教室は、まるで時が止まってしまったかのようだ。

「もと花」

 我関せず、しかない。私は通学カバンを自席のフックにかけると、そのままもと花を守るように傍について歩きながら彼女の席へと誘導する。

「嘘つけ、ネタ割れてんだよ」

 別の一人がスマホで動画を再生した。

「――お前のことが好きだ」

 学校のどこかの茂みで、原田が武藤に近づいてキスをした。笑い声と共にカメラの向きが変わると、撮影した3人の粘っこいニタニタした顔が映り、カメラに向かってピースを作っている。

「いけないことなのかよ!」

 原田は羞恥と怒りに顔を赤く染めて叫んだ。柔道でもしていそうな体から発される野太い声は、それだけで迫力があった。

「俺が男を好きなのって、そんなにいけないことなのかよ!」

 それは3人に対してというよりも、クラス全体に問いかけるかのようだった。

「昨日授業で言ってたろ? いろんな愛の形があるんだって。受け入れていくべきだって。男が男を好きなのってそんなにおかしいかよ?」

「同性が同性を好きって単純にありえねえだろ、そもそも少数を受け入れるって時代の流れがおかしくねぇか? なんで俺たちがいちいちマイノリティーに配慮しなきゃなんねぇのよ気持ち悪い」

「だいたいマイノリティーって言葉がおかしくね? 性癖異常者だろ、ロリコンとかといっしょいっしょ」

 囃し立てるように二人は大げさな身振りで言って見せる。

「ふざけんな! 俺は間違ってねぇ!」

 いよいよ掴みかかろうとして、その手を三人のうちの一人が抑えた。

 嫌なほど整った顔と金髪……汐崎晴は、諭すように言った。

「別にお前が武藤を好いてようが構わねぇさ、間違っちゃいない。でも俺たちは、気持ち悪い(・・・・・)って言ってんだよ。お前の言ういろんな愛の形があるってんなら、俺らノーマルの性癖の人だけが正しいって考え方も間違ってないわけだよな? お前たちのような奴は気持ち悪いって拒絶すんのも、間違ってないわけだよな? お前らが誰を好こうがそんなのどうでもいい。でも同意なんか求めてくるんじゃねぇよ。お前がゲイだって公言するなら、俺たちだって皆を代弁して気持ち悪いって言ってやるよ」

 汐崎晴の言葉には嘲りの念はなく、明確な拒絶の思いが籠っていた。

 悪ガキグループのなかにいながらその中で群を抜く敵意が溢れている。

 ついに原田が激高して殴りかかると、待ってましたとばかりに汐崎に二人が加勢して、止めようと武藤までもが駆け寄って、5人の喧嘩が始まってしまった。

 力のない武藤はあっという間に地面に押しつけられてかけていたメガネが飛び、勢いのあった原田も一人では流石に三人の猛攻を止めることはできなかった。

「なんでお前ら見てるんだよ!」

 青あざをつくる原田が助けを求めて必死に周囲を見渡すと、私は彼がもと花と目が合ったのが分かった。

 動き出す前に私はきゅっともと花の腕を握った。絶対にあの輪の中に入れてはいけない。

 彼の言葉に動き出す人は誰もいなくて、全員が傍観者だった。

 いや、いたのかもしれない。だが、声を大にして叫ぶ者が一人もいなかったという事実が彼の心を抉ったのは傍目にも分かった。

 教室の扉が大きな音を立てて開かれると、全員が我に返った。

「お前たち、何をやってる!!」

 担任の男の先生が教室に入って来ると、中央にいる五人の間へ入るように割って入った。

「ッ‼」

「武藤、待って!」

 武藤は原田の制止を無視して、逃げるように教室から外へと駆け出してしまった。

「おい武藤!? お前たちちょっと来い!」

 先生に連れられて4人は教室を出ていく。

 睨みつける原田と、ニタニタと笑う二人に対して汐崎晴はひどく真面目な顔をしていた。


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