第14話 約束の場所
僕は2階の窓を開けた。
少し勢いの落ちたしぶき雨の向こう、小さな川をはさんで、対岸にある古めかしい旅館が視界に飛び込んできた。その右も左も階数や色味は異なるけれど、同じような木と漆喰の格子で組まれた古めかしい旅館がずらりと横一列に並んでいる。
夏の空はもう真っ暗で、右手の自分たちがやって来たバス停のある方角から来る客はほとんどいない。
代わりに左手の、まだできて新しい外国人旅行客向けの旅館や、ドラマのロケ地にもなった有名な高級旅館のある方からは元気な話し声が聞こえてきて、往来の水浸しの石床を長靴で打ち鳴らしながら、愉快そうにカメラをあちこちへ向けている。
僕は凭れかかっている欄干を撫でて顎を乗せた。空気がいい。憂きのたまった肺の空気を入れ替えるように深呼吸をする。
後ろの方で扉が開く音がした。
「寒いな」
晴だ。売店で買ってきたつまみをテーブルにばらまくと、僕の真後ろまでやってくるのを感じた。
「急に降ってくるんだもんね」
「この辺りは山が多いからな。天気が荒れやすいんだろう」
しばらく黙っていると、晴が後ろから僕を抱きしめてきた。
「せっかくいっしょに風呂入ったのに……窓なんて開けてたら風邪引くぞ」
「……馬鹿」
小さく言うと、晴も僕と同じくらいほんのり紅い顔をして笑った。
僕は晴を振り払って首だけを後ろに向けた。
「混浴ってこと知ってて、この旅館にしたでしょ」
「そんなことないない。金もないし、いきなり飛び込みで泊まれるところがここしかなかったんだよ。場所見つけた俺に対する神様からの贈り物とくらいは、思ってもいいだろ?」
僕は返事をしなかった。代わりに別のことが聞きたかったからだ。
「……どう思った?」
「どうって?」
晴は合点がいってない。恥ずかしさで顔が火照るけど、聞き直さずにはいられなかった。
「風呂場でのこと。体は女、心は男。それでも晴は僕といっしょにいたいって思うの?」
「思うよ」
即答だった。晴はまた僕を後ろから抱きしめた。
二人して窓の外の景色をぼんやり眺めていると、夏なのに冬のような静謐な気持ちで胸が満たされていく。
「本当なら冬に来たかったけどな。観光案内所の写真すごかったよな。大正ロマンの街並みが、雪に覆われると道の見た目も全然変わってさ。この先にある滝の辺りなんかは道まで変わるらしいじゃん」
「そうらしいね。でも今度は中学生二人じゃ誰も泊めてくれないかも」
「さすがに高校生ぐらいじゃないと、な。女将さんが気のいい人じゃなかったらマジでここも泊まれなかったからな」
晴は僕を抱いたまま片手でテーブル上のお盆を取ると、畳の上に置いた。その上にすぐ近くの湯のみ2つを置いて、うち一つの湯呑みを持ち直すと、僕のほうへと差し出した。
「ありがとう」
お茶を飲むとさすがにだいぶぬるくなっている。風呂上がりの後、売店に行った晴がすぐ戻るだろうと注いでしまっていたものだが、緑茶の香りはまだ衰えず、鼻腔をくすぐった。
「寒いかと思ったら、あったかいな」
晴の声が耳元で響く。自分の耳が熱くなるのを感じた。
晴だって温かい。僕だって振り返って抱きついたりしてみたい。
でも、それが許されることなのかまだ決断できていなかった。
「こうなったことを後悔してるのか?」
晴から問い詰められる。
「いや……」
僕は、答えがまだ見つからなかった。
ここに来たのはそう。あいの最後の願いを叶えるためだ。
「あいが行きたいと言っていた場所に僕は行ってみたい」
夏休みの直前に、僕は晴にそう伝えた。
「どうして?」
晴からは率直に尋ねられた。
「決心するために」
僕は、そう答えた。
もうきっとあいは帰ってこない。予感があった。
ならせめて……せめて最後にお姉ちゃんの願いを叶えてあげたい。
そう思って僕は、ここに来たのだ。
きゅっと、晴から抱きしめられる力が強くなる。
カタチを確かめるように布腰に体の表面を撫でられていると、触れられたい欲求と葛藤する気持ちが心を頑なにする。
「もしお前が女に戻ったら、俺たちのこの恋愛はきっと破綻するぞ」
晴は寂しそうに言って、僕の背に顔を埋めた。
温かい。この感覚に身を委ねたい。でも甘えてもいいのだろうか。
欲求と罪悪感に翻弄されて、僕はまだ自分の本当の気持ちが掴めないままだった。
背中越しのぬくもりに浸りながら、俯いていた自分の視線を漆黒の空へと向けた。
僕は、誰の幸福を願えばいいのだろう。




