第12話 あいと英吾と真実
全ての皿が空になったのを確認して、わたしは彼女から食器を受け取った。流し場でそれを洗い始めたところで、彼女は口を開いた。
「ありがと。……あんたの飯美味しいね。名前は何て言うの?」
「桜庭もと花。 緑陵中学校2年。――あいちゃんの友達です」
食器を洗うわたしの後ろの方で、糸保乃さんが驚いた気配がした。
「よくできたお子さんね。誰かに大切にしてもらえるのって嬉しい」
「喜んでもらえたなら、料理した甲斐がありました。サラダとか作り置きしたのもあるんです。冷蔵庫に入れてるので、よかったら後で食べてください」
糸保乃は軽く会釈すると、
「あたしは大切にしてもらったことなんてなかった。あの人からも、そして娘からも。誰も私を大切にしてくれなかった。そして二人とも家を出ていった。娘も結局は、あの人のことを思っているから出ていったんだ」
本当にそうだろうか。私は――、
「それは違うと思います。居場所がなかったから、あいちゃんはここを出ていったんだ。あなたはあいちゃんを大切にしたんですか? わたしはあいちゃんが家事全部できるの知ってます。さっきのゴミを見て、気づきました。あれってあいちゃんが買って来てくれたんですよね? 料理ができるなら、たぶんあなたは今こんな状態になっていない。あいちゃんは、あなたに代わってずっと家事をしてくれていたんじゃないですか?」
「私だって料理くらいできるわよ」
はぐらかすようなことを言って糸保乃さんは髪を掻いた。
「そんなのどうだっていいです。わたし、あいちゃんが誰かに作ってもらったお弁当を持ってきたのを見たことがありません。むしろ節約しようとしてたくらいです。この家の中で、あいちゃんがどんな姿だったのか、わたしは知りません。でも、きっと悲しい表情をしていたんじゃないですか?」
ぼんやりとしていた糸保乃の目尻がみるみる吊り上がって、わたしの心臓がざわつき出した。表情に出るのをこらえながら、それでもわたしは続ける。
「商店街で見かけたあの人って多分、あいちゃんのお父さんですよね? あいちゃんはあの人と同じように、あなたを見捨てることだってできた。そうしなかったのは、自分の母親だから……お母さんに大切に思われて、愛されたかったからじゃないんですか? 大切にしなかったのはむしろあなたのほうじゃないんですか? あなたはあの人と同じことをしています。誰かに愛されることをばかりを願って、自分から愛することをしなかった」
「あんたに何が分かる!」
糸保乃はテーブルに拳を打ち下ろして立ち上がった。
「私だって愛されたかったんだ! 反対する家族との縁も切って、好きな人と結婚して子供が生まれて明るい家族を作る、そのために時間も、お金も、全てを投げ打って努力したのよ! それなのに私は、あの人から拒絶された! 大切な人と結ばれない人生なんか、思い通りにならない人生なんかに、生きる意味なんかない!」
「思い通りになるなんて、傲慢だよ! わたしだって、もっとうまく生きたかった! 楽しかった部活もくだらない人間関係で止めて、前向きに行動したら大切な人まで失って……今だって、どう生きていけばいいのか分からない! 後悔しないために選択した選択が、後からやっぱり間違いだったって気づくことの方が多い! それでもわたしは、自分が正しいんじゃないかって思えることを信じて頑張ってる。あなたも同じなんでしょ!? 告白すれば好きな人と結ばれて、その後もうまくいくかなんてわからないよ! それでもわたしは好きですって言うことしかできない! でもね、大切なのは相手がどうかじゃなくて、自分の思いなんだよ! あなたの思いは無意味なんかじゃない。でも、叶わなかったんだよ!」
あいちゃんのお母さんに触発されて、気づけばわたしも感情を吐き出してしまっていた。
いつの間にかわたしも向こうも涙を流していて。
ちゃんとした言葉になんて、なっていなかったんじゃないかって思うくらい支離滅裂なことを言ってしまった気がするけど……伝えたいことはきっと、言えたんじゃないかって思うんだ。
だってその時糸保乃さんは、声を上げて泣き出したから。
わたしは彼女の傍に寄り添った。
辛いことがあったら誰だって泣いていい。そうしたら自分を認めてあげられる。許してあげられるようになるから。
糸保乃さんにも多分、それが必要だったんだ。
「……ありがとう。もう大丈夫だから」
糸保乃さんはべとべとになった顔をティッシュで拭うと、涸れた声で私にそう言った。
「自分でも、分かってはいたの。それなのに私は……娘がいなくなった時、心の中ではこれであの人に会えると思ってしまった。最低なのはもちろん分かってる。……愛想を尽かされていたのは、もうずっと前から分かっていたはずなのにね。でも、認めたくなかったの……」
糸保乃さんはテーブルを支えにしてゆっくりと立ち上がると、カップにお茶を注いで喉を潤した。
わたしは聞くべきか悩んだけど、それでも彼女に”彼”のことを聞かなければならなかった。
「あの……聞いてもいいですか? あいちゃんのお母さんは、その……あいちゃんの“英吾”のことについて知ってますか?」
お母さんは一瞬目を見開いた。
「糸保乃でいいわ。もちろん知ってる。ここ最近はあいじゃなくてずっと彼が出ていたもの。やっぱりあなたも、彼を知っていたのね」
糸保乃さんはお盆に自分とわたしのカップを載せると部屋の奥、テレビの前のテーブルへ促した。
わたしがカーペットの床の上に腰を下ろすと、糸保乃さんはお茶の注がれたコップをこちらへ差し出して、向かい側に座った。
椅子よりも床に足をつけているほうがなんだか落ち着いてくる。
受け取ったお茶を飲むと、涙で失った水分が少し戻ってきて、頭がシャキッとしてくる。
「英吾はあいの弟。私と秀樹さんのせいで生まれたの」
糸保乃さんは昔を思い出しながら話し始めた。
当時大学生だった私は、俳優の夢を追うあの人の姿が本当に大好きで。教員免許を取るのも止めて、親の反対を無視してあいを身ごもったの。
あの人は俳優としての夢を叶えたかった。
名も知れぬ人ではなくて、世界で活躍する、もっと大きな人になりたかったの。
あの人の将来にとって私たちは、きっと足枷になる。
それでも彼は「なんとかする」と言ってくれて。裕福ではないけれど、彼の夢を応援しながら生活していく、そんなささやかな幸せの日々が始まったの。
ところが、娘が生まれて以降、秀樹さんのキャリアは躓き始めた。
育児のための時間……それだけが原因ではないけれど、彼は次第に私と娘を絆に感じ始めていたわ。
あの人は娘なんていらないとも言ったし、娘を愛しているとも言った。
矛盾してるでしょ。
でもそうなのよ。私はずっとはやくに気付いていたのに。あの人の本当の姿は気分屋で――それなのに私は、あの人の良い部分だけを見ようとした。私たちへの愛を信じようとした。
でもだんだんと私たちのすれ違いは増えて、彼が私に暴力を振るうことが多くなった。
気が滅入っていたんでしょうね。
甘えてぐずるあいを宥めても全然泣き止まないものだから、いよいよ私も、娘に手を挙げてしまうようになった。
私への虐待が増える度、あいへの暴力が増えて……。
「お母さんやめて!」
そんな娘の言葉を、何回無視したんでしょうね。
でも、悪い日ばかりじゃなかったのよ。
秀樹さんは仕事が上手くいって機嫌がいいときには、なかなか入れないようなお店に連れて行ってくれたり、あいを野球に連れて行ったり、いっぱいのドラマを見せてくれたりして、あいもそれは、とても喜んでいたように思う。
私もそうだった。
「ほら、あい。この犯人役がお父さんだ。黒のジャケットがかっこいいだろう?」
「うん。でもパパよりこの刑事さんの方がカッコイイ」
「……英吾役の人のことか? ……まぁ、あいつは顔も雰囲気も全部イケてるもんな。仕事も順調で、家族もいて、生活もうまくいっていて……北条さんは、同じ事務所の先輩なんだ。ああいう男に父さんもなれるよう頑張ってるんだ」
「パパならなれる」
「そうか! ……娘がそう言ってくれるのなら、そうなるかもな!」
今にして思えば、そんな不安定な関係が私たちみんなを苦しめることになったと思う。
その時も、あの人が気分で言ったのか、本音で言ったのか分からない。
「やっぱり地方なんかダメだ。俺は東京に出ていく」
いよいよ彼が仕事が上手くいかなくなって、秀樹さんは家を出ていこうとしたの。
「お父さんいかないで」
そういって娘のあいが、玄関まであの人を追いかけていったのだけれど、もうその時の秀樹さんには、娘への愛情なんて残っていなかった。
「これだから女は……」
秀樹さんは蔑むように私たちを見ていたわ。部屋の奥の方にいた私にははっきりとは聞き取れなかったけど、外に出ていく時に秀樹さんは、多分あいにこう言っていたと思う。
「お前が、男の子だったらよかったのにな」
その日から、時折はっきりと現れる人格が“彼”だったの。
思えば、あいのなかに生まれた英吾の人格は、思えばずっと兆候があった。
もともと娘は、ドラマもそうだけど見ているモノに殊更に感情移入するきらいがあった。
野球やサッカーをするときのあいは「父さん」と口調が強くなって。
娘として可愛がられているときは、「パパ」と呼んで。
それは秀樹さんも望んでいたことで、
「見ているものを真似て、演じ続ければ、きっと本物になれる」
そうあの人は言い続けていた。
だから私はそれをずっと、些細な変化だと見過ごしていた。
でも実際は、あいの人格は絶えずワガママな私と秀樹さんによって揺さぶられ続けていた。
表面的には何も起こっていないように見えて、あいの心の中では、生きるために絶えず自分を作り替えようとしていんだわ。
そんなあいが、私と秀樹さんに愛されるために選んだ“男の姿”が“英吾”だったの。
誰にでも優しくて、自立して、うるさくなくて、賢くて、大人びていて完璧な”英吾”の姿は、まさしく私が秀樹さんに求めていた姿でもあった。
時々私と秀樹さんがケンカをして彼が家を出ている間にも、私を慰めてくれていたのは英吾だった。
だから私も“英吾”という嘘を受け入れてしまった。
娘ではなく彼を可愛がってしまった。
英吾から優しくされるたび、私は喜びすら感じていたわ。
そんな姿を見せている娘に手を差し伸べなかった私は本当に――――母親失格ね。
糸保乃さんは話し終えると、しばらく俯いていた。
「だから娘はもう、こんな家には帰ってこないかもしれない。いや、帰ってこない方がいい」
「まだあいちゃんの笑顔を取り戻せると思います」
わたしは言った。
糸保乃さんが言っていることは本心じゃないはずだ。本当はまた帰ってきてほしいと思っているんじゃないだろうか。だからわたしは続けた。
「実はわたし、英吾くんと最近までずっと話していました。彼はあいちゃんを笑顔にしたい、そう言っていました。だから英吾くんは今も、きっとあいちゃんを笑顔にするために何かしてくれているんだと思います。糸保乃さんは英吾くんが今どこにいるのか知りませんか?」
糸保乃さんは首を振った。
「ごめんなさい、私にも分からないの。どこにも居場所が無くて出ていったのなら、秀樹さんのところぐらいしか、心当たりは……」
あるいは、汐崎くんの家にいる、か。
「あいちゃんのお部屋、見てもいいですか?」
「どうぞ。出ていった時のままだから……」
糸保乃さんが立ち上がると、わたしは荷物を掴んで後ろについていく。
今いるリビングを出て左に折れると、手前の部屋の扉を開けた。
灯りが点き、掃除が行き届いた綺麗な部屋が現れる。
几帳面なあいちゃんらしいと思う反面、物が少なすぎる。なんだかそれがかえって終活を終えた後の人の部屋のように虚しく感じられた。
「それは?」
糸保乃さんから尋ねられて、わたしが手提げからプリントを出して見せた。
「あいちゃんが先生に頼んで作ってもらってたプリントだそうです。将来の選択肢を見極めるために、見えないところでずっと勉強してるらしくて」
そのままそれを勉強机の上に置いた。
あいちゃんがあんなに勉強していたのは多分、
「自由になるためだったんだと思います」
糸保乃さんも分かっている様子だった。
わたしは部屋を見渡して検めた。
特に手がかりになりそうなものは何もない。
勉強机の上の棚には化粧品とか、ファッション誌とか、文庫本が置いてあるだけだ。
特には――。
わたしは勉強机の棚に差された一冊の本を手に取った。
旅行本だ。つい最近英吾くんが持っていたもので間違いない。書籍には付箋がいくつも貼ってある。その中にはわたしがデートしたあの水族館も入っていた。
嬉しさと寂しさで鼻がツンとなる。
「これ……」
糸保乃さんがカレンダーを指差した。
そこには今日の日付に丸印がつけられている。
わたしは他に何か手がかりはないかと付箋のページをめくっていく。
けれど、ピンとくるところはなかった。
「娘はどこに行ったのかしら」
部屋を検めるのを止めて、糸保乃さんは両手で顔を覆った。
「私のせいであいちゃんを傷つけちゃった。もう帰ってこないかもしれない。でも私、謝りたい。謝ってやり直したい。もう一度娘と向き合いたい」
その姿を見て、私は糸保乃さんに力強く返した。
「絶対に私が見つけます」
私もあいちゃんを傷つけてしまった。だからきちんと謝りたい。
自分の中で渦巻く感情の意味を、私はようやく解り始めていた。




