第11話 あいちゃんを探して➁
どうしよう。
今日できることがなくなってしまった。
日を改めるしかないけれど、おそらくどれだけ経っても反応はないだろう。
まだ昼間だというのに、進む足は自宅のほうへ向かっている。
夏の暑さにむっとして、わたしは頬の汗を拭った。
「かき氷でも食べようかな」
商店街の饅頭屋が夏季限定で出している、練乳の入ったかき氷が頭を過った。
ここから歩いてすぐだからちょうどいいかもしれない。ちょっと休憩しよう。
ちょうど商店街の入口に差し掛かったところで、地元のテレビ局の人たちが、一軒のお店の前で撮影をしているのが見えた。
「――そうなんです! こちらのメロンパン専門店では焼き目がくっきりしていて外側は熱く
中はひんやりとしたクリームが入っているという対比がウリなんです。それでは浅野さんに実食していただきましょう!」
名前を呼ばれたのは、カメラの前に立つレポーターの男性だろう。手に持っている白の包みにくるまれたメロンパンを掲げると、「いただきます」のひとことの後にかぶりつくのが見えた。
「んん~! 美味しいです! ガワがカリッとしていてほんのり焦げた香りがあり、そのあとに来る甘みがたまりません! これ、中のクリームはコーヒー味ですかね? だそうです! お互いの香ばしい香りが合って、これは堪りませんよ!」
レポーターが元気良く紹介するので、往来を歩く人々も自然と足を止めている。そのなかにすっかり自分もいたことに気が付いて、わたしはハッとなった。
「いけないいけない。メロンパンも美味しそうだけれど、この行列じゃ絶対無理だろうし。今日はかき氷、かき氷……」
混み始めた往来をかき分けながら先へ進もうとして、撮影スタッフの悲鳴が耳に入ってきた。
「なんだなんだ!?」
押しのけられたスタッフの間に滑り込むように、一人の女性がレポーターの男性に近づいたのが見えた。
「秀樹さん!」
栗色の髪の女性はそのまま男の手を握った。
「お前、織櫛!?」
聞き覚えのある名前に、わたしは弾かれるように振り向いた。
あいちゃんではない。もっと年上の女性だった。しかし媚びるような妙に明るいテンションで話しかけるその人に、わたしはなんだか興味を覚えた。
「私に会いに来てくれたのよね!? 戻って来てくれたのよね?」
「はぁ? 違ぇよ。仕事で来たんだ。どっか行けよ」
「あいがいなくなったの」
急にその女性が冷静に話し出すと、男は呆気にとられたようだった。
「だからもう大丈夫。心配しなくていいのよ? 家にはいま私しかいない。……あなた言ってたわよね? 子供なんていらないって。だからもう遠慮する必要なんてないの。また昔みたいに、私と二人っきりで暮らしましょう?」
女の手は男を離すまいと蛇のように手から上体へと伸びてゆく。
「はっ、よかったじゃねぇか。娘からも解放されてよ? 糸保乃、二度と俺の前に現れんな」
「えっ?」
ピクリと女の手が止まる。
「察しが悪いな」
男は舌打ちした。
「まだわからねぇのか? 俺はもうお前の事なんか、とっくの昔から愛しちゃいないんだよ! お前の娘のこともそうだ! お前が一方的に言い寄って来たから少し相手してやっただけなのに、本気になりやがって。目障りなんだよ! 行く先々で何度も何度も追いかけてきやがって。自分しか愛せない女の事なんて、誰が好きになるか!」
男が強く腕を振り払うと、凭れるようにしていた女性は吹き飛ばされた。体勢を崩したまま後ろの方にあった花壇に当たって倒れた。
糸保乃と呼ばれた女性は勢いよく立ち上がろうとして、左の足首を押さえたのが見えた。
わたしは人波を押しのけて、彼女の元へ駆けよった。
「大丈夫ですか!?」
近くで横顔を見つめると目尻には皺が合って肌にハリはなく、全体として干乾びたような印象さえ受けた。その女性はこちらを一瞥しただけで、また男の方へにじり寄ると袖口を握った。
「そんな……わたしはあなたを愛して……」
「嫌いなんだ! 俺はもうずっと前からてめぇに、愛想が尽きてんだよ!」
そこまで言われると女性はビクッと硬直した。
そんな様を心底不快そうに男は眺めながら、
「ったく、だからこっちでのロケなんて嫌だったんだ」
そう言って一人、商店街の奥の方へ歩いていく。呆気にとられていた撮影スタッフたちも我に返ると、こちらを睨みつけたあと男を追いかけて奥へと行ってしまった。
騒動が治まると、いつの間にかその場にいた人だかりが散り始める。
わたしはもう一度隣の女性に声をかけた。
「大丈夫ですか……?」
返答はなかった。
節垂れて生気のない枝のような、仄かな希望すらない諦観の目だけが遠く、浅野秀樹を追い縋り続けていた。
「ここですか?」
糸保乃は小さく肯いた。
やっぱり。
そこはついさっきまで自分が尋ねていたマンションだった。一歩一歩、歩く度に顔をしかめる彼女を支えながらエレベーターに乗って、目的の部屋の前に辿り着くと、借りた鍵をドアノブに差し込んで回した。
かちり、という音が鳴って扉を開くと、カーテンが締め切られて明かりのついていない、寒々しい闇が飛び込んでくる。
わたしは女性より先に中に入って、カーテンと窓を開けて照明をつけた。
外はまだ明るい。反射する光が部屋を包むと、途端に生活感が戻ってくるような気さえした。
「とりあえず、ここに座りましょう」
わたしがリビングのイスを引くと、女性は何も言わずに座った。台所の周りに溜まったゴミが目につく。わたしはそれをゴミ袋にまとめた。
女性が何事かを言った。
おそらく喉が乾いたのだろう。冷蔵庫にはまだお茶があった。適当なカップに注いで手渡すと、今度は女性のお腹が鳴った。
わたしはゴミのほとんどが出来合いの弁当や残り物のおかずであったのを思い出して、もう一度冷蔵庫の中に残っている食材をチェックした。
そのまま食べられるものはないが、調理すればまだ大丈夫だ。賞味期限をチェックするとおそらく数日前に買いだめしたものばかりだろう。日にちが迫っているものもある。このままではダメにしてしまうだろう。
「台所借りますね」
女性は不思議そうにこちらを見つめるだけで、特に何も言わなかった。
わたしは思いつくままに調理を始めた。
1時間くらいが経った頃、リビングのテーブルに料理を並べることができた。
「どうぞ」
焼肉とピーマンの炒めもの、ご飯に味噌汁。
ごくごく普通の一般家庭の料理だが、香りに惹かれて、虚ろだった女性の瞳に少しだけ生気が戻って来る。
彼女は食事を始めると、口に運ぶ手が止まらなくなって、やっぱりお腹を空かしていたのだなと、わたしはなんだか少しほっとした。
黙って向かいの席に座って、彼女が食べ終わるのをゆっくりと待った。




