第10話 あいちゃんを探して➀
急に肌寒さを感じて、わたしは目を覚ました。
ベッドに肘をついて上体を起こすと、体の節々が軋む。
「寝すぎだ」
引き剝がすようになんとかベッドから起き上がると、冷えすぎたエアコンの温度を上げた。
ぼんやりとスマホの画面を点ければ、もう夏休みは2日が終わって、3日目に入っている。
とりあえず課題だけやって能天気に過ごしていれば、また9月の初めから学校は始まってくれる。そうすればここ最近あった出来事は実は嘘でしたって、なんでもありませんでしたって、また普通な日常が始まってくれないかな。
わたしは首を振った。これは逃避だ。
スマホでチャットアプリを立ち上げれば、英吾くんからの遊びのお誘いと、あいちゃんからは心配するようなメッセージが来ている。
向こうも気づいているだろうに、けれどもあくまで二人は別の人であるとそういうつもりでいくらしい。
わたしもその嘘に乗っかっていればいい。
別に損をするわけでもなし、わたしが英吾くんと付き合っている事実は消えないのだ。
あいちゃんの言うとおり、彼と楽しいデートでも考えて夏を満喫すればいい。
……そう思っても、行動に移せない自分がいた。
わたしはまた横になりながらベッド脇に投げていた本をパラパラとめくった。
図書館で望くんが見せてくれたあの本だ。まだあいちゃんが本当にそうと決まったわけでもないのに、ただ友達のことを知りたくてさらっと読んだ。
――解離性障害にはまるきりその人が変わってしまうこともあるらしい。外見や好み。症状が進行すれば、幻聴や離人の感覚もある――。
本の内容は全く頭に入ってこない。ページをめくる手が止まった。
「わたしはどうしたいんだろう。あいちゃんとどうなりたかったんだろう」
自問自答を繰り返して、答えはまだ出ていなかった。
このままでは良くない。やり方を変えてみるべきだとは思う。
どうしよう。
わたしはあいちゃんと英吾くんのことをもっと知りたいと思った。
そのためにはここに居ても仕方ない。
向き合わなくては。
知らなければいけないことがたくさんある。
この目で確かめるために、わたしは今度こそベッドから起き上がった。
となり町へやって来た。
天童台第一中学校。その表札を確認して正門をくぐると、夏休み中なのにまだ元気に蛍光灯
がついている場所がある。そちらの方へ進んだ。職員室であることを確認すると、意を決して扉を開いた。
教師たちはまばらに座っている。わたしは手前の女の先生に声をかけた。
「すみません」
「あら、こんにちは。どうしたの?」
眼鏡をかけた比較的若い女の先生に尋ねてみる。
「こんにちは。生徒会室に用があって来たんですけど、どの辺りにありますか?」
「それなら、ここの真上よ。ちょうどさっき誰か鍵を取りに来てたみたいだから今なら開いていると思うわ」
「ありがとうございます、行ってみます」
わたしは会釈すると、すぐさま職員室を離れる。ちょうどそばにあった階段を使って2階へ上がると、扉の前で談笑する二人組の男子生徒が見えた。たぶん上級生だろう。近づいて声をかけた。
「あの、すみませんちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「なんですか?」
「こちらの生徒会に、浅野英吾っていう名前の人いませんか?」
「浅野? そんな人いないと思うけど…先輩でいたっけ?」
「いや、おれも聞いたことない。役職とか聞いてます?」
「書紀って言ってました」
「お前書紀じゃん」
「いないですね。もう卒業した人かな? 過去の名簿にあるか見てみましょうか?」
「そこまでは大丈夫です。すみません変なこと聞いてしまって。ありがとうございました」
失礼しますと言ってわたしはすぐにその場を立ち去った。
充分だ。
やっぱり英吾くんはこの学校の生徒じゃない。
わたしはその足で、今度は自分の通う緑陵中学校へ向かった。
学校に着くと、今度は自分の学校の職員の扉を開いた。
「先生」
担任の女の先生が、机の上に山積みされた書類整理の手を止めてこちらを向いた。
「あれ、桜庭さんどうしたの。忘れ物でもした? 教室鍵かかってたでしょ」
「いえ、そういうわけじゃなくて。先生にお願いがあってきたんです。織櫛ちゃんの家の住所、教えてもらえませんか」
「んー、さすがに個人情報はちょっとなあ。どうして知りたいの?」
「あいちゃんが休んでたときの授業を書いてたノートがあるんです。もうテストは終わってますけど、それを渡したくて。メッセージは送ったんですけど、反応がなかったので教えてもらえないかなぁと」
「そうねぇ…」
先生は机の引き出しを開くと、輪ゴ厶で止められたプリントの束をつかみ上げた。
「これ、渡してくれる?」
「なんですか、これ?」
「高校受験用の対策プリント。織櫛さんがいろんな教科の先生に頼んで作ってもらってたのを
私がまとめて持ってたんだけど、うっかり渡しそびれちゃって」
プリントの端をパラパラとめくると、国語、数学、英吾、理科、社会の5科目の順に並べて
ある。
「お子さんを塾に通わせている先生からは、そこの分ももらっているらしいわ。まぁ塾はお金
かかるからね、賢い選択だと思う。今どき珍しいわよね。まぁ織櫛さんは母親が大変そうだ
から、娘がしっかりするのはしょうがないか」
「それってどういう意味ですか?」
先生はわたしが非難しているように思ったらしい。
「ん~、言っていいのか分からないけど、織櫛さんは母娘仲が良くないみたいだからね。面談
でも一度も会ったことないし、彼女から聞く限りでは、仕事以外何もしてもらってないって言
ってたし。大なり小なり親からネグレクトされてる子はいるからね。そういう子ほど先を見据
えて独り立ちしようとする、自立心が芽生えるものよ。でもそれが必ずしも良い方向に向かう
わけじゃない。楽してお金を稼いで、悪い大人に繋がっちゃう子もいる。私たちにできるのは、
そんな子たちにより良い方向を提示してあげることだけ。こんなプリントしか寄こさない無責
任な人たちかもしれないけれど、陰ながら私たちは応援してるのよ」
「もうちょっと先生がくれたプリントを大事にします」
私は受け取ったプリントを持っていたエコバッグに入れた。
「そう言ってくれると励みになるわ。涎がついたテストプリントを添削するのはがっくりきちゃうんだから」
先生は笑いながら紙の切れ端にペンをはしらせると、それを私に差し出した。
「渡すのよろしく」
そこにはあいちゃん家の住所が書かれていた。
「先生も大変なんだなぁ」
わたしはスマホに入力した住所を参考にGPSをつけて道とにらめっこしながら通りを歩い
ていく。道中あいちゃんにメッセージを送ったけど、やはり返答はない。
今は何をしているんだろうか。
校門前の長い坂を抜けて商店街に突き当たると、そのまま左手の道を進み、入り組んだ小道を抜けながら更に先へと進んでいく。
「ここだよね」
マンション名のプレートを確認してフロントのインターホンを鳴らした。
「……反応なしか」
わたしは溜息をこぼして、もう一度ボタンを押したが、やはり何も変化はなかった。
さてどうしたものか。繋がらなければ入口の扉は開いてくれない。
逡巡していると、マンションの住人が奥から現れる。そのまま扉を開けると、わたしの横をすり抜けて外へ出ていった。
チャンスだ。
わたしはひっそりと中に入ると、エレベーターに乗って上階へ上っていく。
扉が開くと、左右の部屋番号札を確認して、右の突き当りへ進んだ。
「ここがあいちゃんお家かな」
扉の前には簡易的な金属柵が備え付けられているが、それ以外には何も置かれていない。手前の部屋の住人が傘や三輪車が置かれているのに比して、一層殺風景に感じられた。
ここだけは外にある夏の熱気すら無いかのように感じられてくる。わたしは震える手で柵を開けると、鍵すらかかっていなかった。そのまま奥のインターホンを押した。
やはり反応はない。わたしいつの間にか詰まっていた息を吐き出した。
本当に誰もいないのだろう。
わたしはすぐさまあいちゃんにメッセージをして反応を待った。
――いまお家にいる?
やっぱり返信はない。
いよいよどうしようもなくなって、ひとまずその場を離れた。




