第5話 声
「あい、起きて」
“声”が聞こえて、私は目を覚ました。
「ん」
いつの間にか椅子に座ったまま眠っていたらしい。腕で作った輪に埋めていた顔を起き上がらせると、時計は夜9時30分を回っている。
“声”はいつものように私を励ましてくれる。
「もと花ちゃんは少し、不安がっていたみたいだ。君とまだ遊んだことがなかったからね。いこれから夏までに少しでも距離を縮めて、今年は二人で旅行に行けるといいね」
「私もそう願ってる。旅行でもなんでもいい。少しでももと花との仲を深められたらいいなって思ってる」
去年の冬、私ともと花が始めて出会った時から関係は進展しているとはいえ、正直私にはまだ正しい距離の取り方がよく分からなかった。
自分にとって初めての友達だったからかもしれない。いや、友達と呼ばれる程度の仲の人は他にはきっといたのだけれど、ずっと仲良くしたい、いっしょにいたい、そう思える快さを抱いたのは、もと花が初めてだったのだ。
2年生になっても同じクラスだと分かった時、私はとても嬉しかった。1年生でも同じクラスだったけれどその時はまだお互いを認識してなくて、ごく短い期間しか話せなかった。
だから今年はもっと仲良くなりたい。もっとお話ししたい。去年できなかったことを、もと花との関係を進展させたい。彼女のことをもっと知りたいのだ。
入口の扉を少し開けると母が食事を終えてとうに自室に戻ったらしいのを確認して、私はお風呂を済ませる。再び自室にこもると、スマホでもと花に電話した。
「あ、もしもし、こんばんは。あいちゃんどーしたの?」
「こんばんは。いきなりごめんなさい。もと花の声が聞きたくなって……」
通話に混じって、向こうの家族の温かな笑い声が聞こえてくる。私はふっと笑った。
「なんだか楽しそうね」
「ちょうど食事が終わって、いま洗いものしてるんだ。今日はわたしが晩ごはん作ったんだよ」
「食べたい」
「即答? 先に何を作ったか聞かないの?」
もと花はやれやれという風に笑った。
「私はもと花が作ったものなら何でも食べたいわ」
随分恥ずかしいことを言ってしまったと後から気付いた。顔が赤らんでいくのを感じて、ごまかすように尋ねる。
「何を作ったの?」
「ハンバーグだよ。あいちゃんが毎日頑張ってお弁当作ってるのを見てたら、わたしもがんばってみようかなと思ったんだ」
カチャカチャと食器と水の音が聞こえる。皿を片付けているのだろう。
「きちんと手でこねて作ってみたよ。赤ワインも足してみたけど、少し量入れすぎちゃった」
「一回でうまくはいかないものよ。3回くらい作ってみてようやく要領が掴めてくる、なんでもそんなものよ」
「そうだねー。でも楽しかった!」
うまかったぞ、と後ろから男性の声が聞こえてくる。多分もと花のお父さんだろう。あいちゃんにいろいろ教わったらいいわねとお母さんの声も聞こえて来る。
「ちょっとちょっと! まるで私が何も料理できないみたいじゃん!」
もと花たちは楽しそうに話している。電話口からでも桜庭家は家族仲が良いのが伝わってくる。
「……羨ましいな」
私は一人ごちた。それをもと花は別の意味に捉えた。
「いつかあいちゃんにも作って来るね」
「ホント? やった、楽しみにしてる」
「もうちょっとしたらわたしもお風呂入らなきゃ。……そういえば旅行のことだけど暇な時にでも調べてみるね」
「ありがとう。いきなり電話してごめんなさい。声が聞けて良かったわ。それじゃあ、おやすみなさい!」
「うん、おやすみ! また明日」
電話が切れる。
静寂が蘇り、ふつうの家庭が持っているはずの明るい世界から引き離された。
私はベッドに横たわるとまじまじと自分の部屋を見た。
この部屋には何もない。なんの充足感もない。勉強机や本棚、衣装ケースなどもプラ製の安っぽいものばかりで、ぬいぐるみだとかアニメのグッズだとか、そんなものは随分前に卒業せざるを得なかった。
貧乏だから、というのもあるが将来に備えてという理由もある。
月の半ばになるとテーブルの上に封筒が置かれている。母から渡される生活費。それで毎日やりくりしているのだ。
まだ働けない私は食費の一部を少しずつずっと貯金している。
むろん一日でもはやくこの家から飛び出すためだ。
中学を卒業したら進学したいけれどできるだろうか。
それとも働かなくてはいけないのだろうか。
貯金が進学費になるか、就職のためのお金になるのか。
もうあと2年もしないうちにその現実は来るのに、親と話すことがない私は自分が今後どうなるのか全く分からない。
不安しかない。堪えきれなくなって私は顔を覆った。
私には何もない。生まれてきた意味も、ここにいる意味も。
そんな時、いつももと花のことを考えてしまう。
――いつかあいちゃんにも作って来るね。
それはもと花にとっては何気ないひとことなのかもしれない。
本当は作ってきてくれないかもしれない。
でも私にとっては、それだけで生きる意味になるのだ。
彼女がもたらしてくれるものがこんなにも愛おしい。
彼女と出会って以降、日に日にその思いが強くなる。
帰り道に話す何気ない会話が好きだ。彼女の相談に乗る、そんな時間が好きだ。
私は、もと花が好きだ。
本当は、彼女と特別な関係になりたい。
でも。
でももと花は女性だ。いつかは私の母のように、男と付き合う日が来るのかもしれない。
そんな日はいつか必ず来る。そうなれば、私はまた一人になって…………。
頭痛がする。眩暈がくる。
吐き気がして、頭の中であの男の顔がフラッシュバックする。
苦しくなって、私は枕に頭を埋めた。
苦しい。苦しい苦しい苦しい。
「彼女に好きだって伝えてもいいんじゃないか」
頭の中でまた“声”がした。
「できないわ、そんなこと」
つー、と涙が流れる。
「気持ち悪いって思われるもの」
「彼女はそんなこと言わないさ。君を大切に思ってくれている。助けを求めてもいいんじゃないか」
「そうかもしれないけれど、でもダメなの。もと花を困らせたくない」
あの保健の授業が思い出される。
――私たちはより多くの多様性を受け入れていく努力が必要なのです。
多様性。
もと花はあの授業を聞いてどう思ったのだろう。
本当はどう思ったのか、どう感じたのか聞いてみたかった。
でももし嫌われてしまったら。私はいつかきっと一人になる。もと花と知り合う前のかつての日々に戻ってしまったら――私はもう耐えられる自信がなかった。
「大丈夫だよあいちゃん。僕がついている。もと花ちゃんが君のことを嫌いになるわけがないじゃないか。絶対君を不幸にはしない。僕が君の幸せを守る」
力強い“声”が私のなかで拡がった。
「……ありがとう」
それだけで勇気づけられる。
明日、それとなくもと花に聞いてみよう。