第24話 わたしたちが出会った、あの日
こんなはずじゃなかった。
わたしはいよいよ耐え切れなくなって体育館の更衣室から逃げ出した。
冬の冷たい空気が刺すように心と体を穿ってくる。
抑えようとしても勝手に流れてくる涙を見られまいとこらえながら、でも行くあてはなくて……。
一人になりたかった。
走っている間中、ずっと腕に下げていたバドミントンのラケットが気がかりで、わたしはそっとケースのジッパーを下げた。
見間違いではなかった。格子状を保っているはずのガットが切断されていて、あらぬ方に向いている。それを見るだけでまた嗚咽がこみあげて来る。
家に帰りたい。でもはやく帰ったらお母さんが心配する。
誰にも迷惑をかけたくない。
わたしは逃げたかった。
いつも出入りする校門のほう、視界の端にレンガ造りの建物が映った。
あそこなら……。
吸い寄せられるようにわたしはそこへと逃げた。
スライドドアの音が鈍く響く。
手前の方、カウンターに座る髪の長い女子生徒がこちらを一瞥したのを感じた。
わたしはそれに返すこともなく、左の方に広がる書棚の先へ消えていく。
ほかには誰もいなかった。
散らばって置かれたテーブル席の一つに座ると、周囲から見て死角になっているのを確認してから、わたしはテーブルに置いた両腕のなかに顔から沈み込んだ。
どうにもできなかった。
初めは小さな嫌がらせからだった。
練習からはぶられたり、いつの間にか制服にペンで落書きされていたり……夏休みに入る少
し前ぐらいから、不特定多数の女子部員から嫌がらせを受けるようになった。
理由は分からない。
親しかったはずの女子部員の先輩や友達たちといつの間にか距離を感じるようになってから、少しずつそれは増えていった。先生に相談しても解決することはなかった。
最初は憤りながらもわたしは我慢して部活を続けていた。けれど、何かにつけ自分だけがはぶられる日々に少しずつ不安が溜まり、すっかり気が滅入ってしまっていた。
何故だろう、どうしてだろうという疑問と不信感に思考が掻き乱されて、そして今日、部室のロッカーを開けると、そこに納まっていたお気に入りの紅いラケットのガットがずたずたに切られていた。
それはお母さんがわたしにプレゼントしてくれた、大切なものだった。
今回も誰にされたのか分からなかった。
でもこれは警告だった。
いなくなれ。わたしに対するそういうメッセージだと理解できた。
「どうして」
こんな目に遭うんだろう。
そんなことを思えば思うほど、ぽろぽろと涙があふれ始めた。
だからだろう、わたしはそばに女生徒が近寄って来てくれたことに気付かなかった。
「大丈夫?」
凛として綺麗な声だった。
思わず顔を上げると、見上げた先にいる生徒はなんのことはない、さっきカウンターにいた髪の長い女の娘だった。
「桜庭さんだっけ。具合悪い?」
「だい、じょうぶ、です……」
わたしが声を絞り出して言うのを彼女は深刻に捉えたようで、有無を言わせず隣に座った。
「だいじょうぶ、ですから……」
そう自分に言い聞かせようとすればするほど、また涙がこぼれて来た。
「大丈夫だよ、大丈夫。傍にいてあげるから」
そんなわたしを目の前の人は抱きしめてくれた。言葉をきっかけにして、私はついに赤子のように泣き出してしまった。
「落ち着いた?」
涙が止まってきて鼻を啜ると、ようやくわたしは目の前の女の人をちゃんと見つめた。
「私のこと分かる? クラスメイト……織櫛だけど」
クラスメイト?
「あ……」
わたしはようやく彼女が誰だかを理解した。
確か、織櫛あいさん。でも全然会話したこともなかった。
わたしは彼女を跳ねのけようとして、それよりもはやくハンカチで顔を拭われた。
「わぷ」
素っ頓狂な声を上げながら、わたしは受け取った彼女から受け取ったそれで顔を拭く。
最悪だ。涙だけじゃない、鼻水まで見られた。
「どうしたの」
織櫛さんは声音を一段穏やかにした。
わたしは躊躇した。
話してもどうにかなることじゃない。織櫛さんはただのクラスメイトで、同じ部の人でもない。ひょっとしたら部員の他の生徒が、いつまでも体育館に現れないわたしを気にしているかもしれなかった。
織櫛さんは沈黙を逡巡と思ったらしい。
「ちょうど今ここには誰もいない。話したくないなら話さなくてもいい。でもね、話してくれたら私の意見くらいは、言ってあげられるかもね」
それは、そうかもしれない。
壁掛け時計を見ると、とうに練習が始まっている時間になっていた。
涙交じりの息をなるべく落ち着けようとしながら、わたしは少しずつ話し始めた。
「……わたしね、バドミントン部に入ってるんだ。春に入部してから凄く楽しかったんだけど、夏の終わりぐらいからかな。私物に落書きされたり、捨てられてたりして、我慢してたんだ。我慢して頑張ってた。それで今日部室に行ったらこのラケットのガット、切られてて…もう耐えられなくなっちゃって……」
「辞めるの……?」
織櫛さんは結論を聞いてきた。
「……まだわかんない。自分でもどうしていいか、分からなくなっちゃった」
「相談できる人はいないの?部活の友達とか、母親とか」
「何度か相談はしたよ。お母さんにも話したし、先生もそんな状況が起きてることは知ってる。でも…でもうちの学校はそういうのに敏感だから、次なにかあったら休部にするって言われてて。うちは男女いっしょの部だから、何かあったらみんなに迷惑がかかるの。だから……休部にだけはしたくなくて……」
しばらく考え込んでいたが、あいはきっぱり言った。
「自分に正直になってもいいんじゃない?」
「えっ?」
「辛いなら。部活に迷惑かけずに自分がもう耐えられないのなら、逃げてもいいと私は思う」
「それは、そうだけど……」
「逃げ場がないのならここを使っていいわよ。…私、一応図書委員なの。騒がなければほとんどのことは大目に見てる。たとえゲームしてようがスマホで遊んでようがね。誰にだってそういう場所は必要だから」
「えっと……織櫛さんもそうなの?」
彼女はぶっきらぼうに言う。
「私はまともになりたいから勉強してるだけ。もちろん本も読むけど、ここには新しい参考書いっぱいあるから。注文依頼もできるし、学生の要望ならなおさら通りやすい。うちは貧乏だから。……持たざるものの知恵ってわけ」
「……そうなんだ」
まともになりたいからという言葉にひっかかったけど、わたしは触れなかった。
「そこ、外の光が当たってちょうど良いからオススメ」
織櫛さんが指差したのはカウンター内の席だった。
「わたし図書委員じゃないよ?」
「大丈夫。他の委員の人はいつもさぼって来ないから。私がいるしね」
わたしたちは移動して、カウンターにある織櫛さん席の隣りに座った。
隣の織櫛さんの席には既に参考書とテキストが置かれていたが、彼女はそれを片付けて、足元に置かれた鞄からファッション誌を何冊かつまみ出した。
「読む?」
「……うん」
それからわたしは、図書室に通うことが少しずつ多くなっていった。
そこが逃げ場だったからだけじゃない。
ぶっきらぼうだけど率直な意見を言ってくれる織櫛さんと話す時間が、少しずつ楽しく感じるようになっていったからだ。
それは家以外に……ううん、わたしにとって初めて、本当の自分の意見や考えを言える場所だったのかもしれない。
そしてそれはきっと――あいちゃんも同じだったんじゃないかな。
振動が聞こえて、私はうっすらと目を開いた。
気付けばベッドの上にいる。視界の端、壁の方でスマホの画面が点滅したのが分かった。
私がさっき手では弾いたものだ。
……懐かしい夢を見ていた気がする。
瞼を揉むと湿り気を感じて、私は眠りながら泣いていたのだと分かった。
時計を見れば夜中の4時になっている。心の重さに対して体だけは妙に軽い。
ベッドから体を引きはがすように立ち上がると、歩いてスマホを拾う。背面のエダクダクラゲのシールがきらりと輝いた。
振動はもう止まっている。画面を立ち上げるとチャットが来ていて、私は文面を読んだ。もと花からだった。
『英吾くんこんにちは。突然だけど、今度の22日は空いてるかな? よかったらいっしょにお祭りどうかな?』
可愛らしい絵文字スタンプがいっしょに送られていて、気恥ずかしそうにしているもと花の姿が目に浮かんできた。
いよいよその日が来ていることを自覚させられる。
でもどうするべきか。私はもう決まっていた。
「私がやるべきことは――」
文章を打ち始めた。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
もと花と結ばれるために犠牲にした自分の姿が必要とされ、
本当の自分の存在価値が薄らいでいく――。
果たしてあいは、本当の幸せに辿り着くことができるのか。
次回、第3章。最終章が始まります。
よろしければ、最後までお付き合いください。




