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第22話 二人の亀裂

 晴の家を出てしまった僕は少し後悔していた。

「もう少し晴の家にいたかったな」

 自宅の方へと進みながら、赤みが差す頬の下、唇からずっと熱を感じる。

 晴と触れていないはずのそこにはなぜか名残りが留まっている気がする。

 僕は晴と手を繋いでいた左手で唇に触れた。

「晴があんなことしなければ……」

 冷静になろうとする。

 これは僕が受け取っちゃいけない。これはあいの体なんだから。

 受け取っちゃいけないんだ。

 唇に残る暖かさを僕は指で振り払おうとした。

 それなのに、指先に残るこらえ難い熱は消えない。むしろ味わいたいとすら思えて、僕はまたその指を唇に触れさせてしまった。

 晴は一体何を考えているのだろう。

 あの瞳の向こうにあるものに、僕は思いを馳せた。


 自宅の机の上でもと花はノートにペンを走らせた。

 7月の初めになった。もう2週間も経たないうちに期末テストがやってくる。

 1年生の頃は、あまり勉強の必要のない科目を先に済ませて苦手な科目を後回しにしたために痛い目を見た。

 だから今回は苦手な数学を先に勉強しているのだけど。

「ん~~、眠い」

 眠気対策に置いたコーヒーを飲むと、時刻は11時を回っている。

 この時期はしんどい。それまでのゆったりした日常が追いやられて、気乗りがしないことに打ち込み続けるのは本当に苦しい。

 友達といっしょに勉強したり、テストの後には気心知れた友達とぱぁーっと遊びたいものだ。

 そういえば去年の夏は部活に打ち込んでたっけ。

 なんだかもう遠い日のことのように思えてしまう。

 今年はどうしようか。お母さんが言うように、将来のことも考えなくちゃいけない。

 まだ自分がどうしたいかもわからない。考えると更に気が滅入ってきて、自然とスマホに手が伸びた。

「あいちゃんといっしょに勉強したいな」

 言葉はむなしく響く。

 メッセージを送れば返って来るけれど、ここ最近のあいちゃんは目に見えて体調が悪い。

 急にそばまで寄ってきて「ねぇねぇ」なんて明るく声を掛けて来ることもあれば、話しかければ目が虚ろとしているときもある。

 少し前に家に遊びに来てくれた時から、お互いに距離ができ始めてしまった。

 いっしょに帰ろうと誘われても、最近は別々に帰ることの方が多い。

 わたしがあいちゃんを拒絶してしまったせいなのは分かっている。

 でも、わたしにはあいちゃんの愛情を受け取ることはできない。

 女同士の友情は成り立っても、恋愛はやっぱり恋愛だと思うから――――。

 それにわたしには、いま気になっている人がいる。

――僕はもっと君の笑顔を見たい。

 両手を絡ませれば、英吾くんと繋いだ手の感触が思い出されてくる。

 寝ても覚めても、彼のことばかり考えてしまう。

「やっぱりわたしは、英吾くんが好きなんだ」

 テストが終わればまた、デートがしたい。

 もっともっと話したい。いっしょにいたい。

 英吾くんはきっと頭がいい人だと思う。

 一緒にいたいと思うなら、いっそ進学先も同じところを目指せばいいのではないか。そんな考えが浮かんでくる。

 最近お母さんが言っていた。高校と中学は違うって。

 中学と違って、学区内の誰もが同じ高校に通う訳じゃない。将来のためにより有利な進学先をようになる。

 英吾くんと一緒にいたいなら、そうなれるよう恋愛だけじゃなく勉強も頑張らないといけないんだ。

……。

 本当はあいちゃんとも仲良くしていたい。こんな些細なことでケンカしていたくない。

 友達は他にもいるけれど、わたしのことを叱咤激励してくれるのはあいちゃんだけなんだ。

「あいちゃん……」

 わたしは彼女に向けてメッセージを打ち始めた。


 昼休み。

 放課後と違って僅かな時間しかないため、みんなテキストを片手に問題を出し合ったりしている。嫌いじゃない空気だけれど、それでもこう連日だと気が滅入って来る。

 たまには羽を伸ばしたいと思うのは当然のことだ。

 だからわたしはあいちゃんを伴って、校舎の外に出た。

 2年1組の校舎から向かって正面1階にある保健室のそばには、テーブルとベンチがいくつか置かれている。そばには背の高い木や環境美化活動の一環で置かれた生徒たちの花も壁に沿って置かれていて、朝顔やサフィニアのピンクの花弁で彩られている。みんな教室か図書室で勉強するのが定番なので意外とここに来る人は少ない。

 屋外なので風が強い日はあれだけど、今みたいに食事の片手間にリラックスできる場所としてはなかなか良いところなのだ。

 わたしたちは久しぶりにいっしょに食事を済ませると、早速問題を出し合った。しばらくしてあいちゃんが世界史のテキストを折りたたんだ。

「暗記系は大丈夫そうね」

「よかった~。でも今回は後半の方が心配だなぁ。数学と理科苦手なんだよね」

「わたしは体育が一番不安。最近授業自体にあまり参加できてないし……」

「大丈夫だよ。先生も分かってくれるって」

「そうだといいけどね。筆記でなんとかするしかない」

 あいちゃんは溜息をついた。

 勉強面倒くさいよね、なんてわたしは言いながら、

「今回は少しでもいい点取りたいんだ」

「ふぅん? 何か目標が出来たの?」

 あいちゃんは疑問符を浮かべている。

 わたしは口元を引き結ぶと、覚悟を決めた。

「……将来に対してどうのってわけじゃないんだけれど。実はあいちゃんに聞いてほしいことがあるんだけど、いいかな?」

「何かしら」

 わたしは居住まいを正した。

「試験が終わったらすぐ夏休みに入ると思うんだけど、いつも夏休みに入る前の日曜日に夏祭りがあるでしょ。それに英吾くんを誘おうと思うんだ」

 わたしが恐る恐るあいちゃんの様子を窺うと、彼女は口元を綻ばせた。

「それって……」

「うん。英吾くんに告白しようと思う」

 あいちゃんが息を呑んだのが分かった。

「英吾くんはわたしより勉強ができる人だと思う。生徒会の人だし、気が利くし、将来のこととかやりたいこと、いろいろ考えている人だと思う。今のウジウジしたままのわたしじゃ、英吾くんの隣にふさわしくない。だからわたし、今回のテストはいつも以上に頑張るんだ。英吾くんの隣にいたって恥ずかしくない自分でいられるように。そしてわたしは英吾くんに好きだって伝えるの。告白したら、どんな風になるか分からない。断られるかもしれない。ひょっとしたらそれでまたわたしが傷づいて、もとの情けない自分に戻るかもしれない。それでも、告白するその瞬間まで、英吾くんの隣にいて恥ずかしくないんだって言える自分でいられるように、最後まで頑張りたいんだ」

 あいちゃんは静かに聞いていた。

「……もと花も強くなったね」

「え?」

「心の話。もと花は強くなった。前向きになった。昔の、本来のあなたに戻って来てると思うよ。そうなってくれたのが私の力じゃないのは悲しいけれど……」

「そんなことないよ。あいちゃんの言葉に救われて、今のわたしがあるんだよ」

 そう言ってるのに、あいちゃんは悲し気に笑うだけだ。

「でも残念だな。夏祭りなら、私ももと花と一緒に行きたかったのに」

「それなら、埋め合わせするからさ」

 あいちゃんは首を振った。

「それじゃダメ。私だってもと花とデートしたい。いっしょに行きたい。友達としてじゃなくて」

「それは……無理だよ。親友としてなら……」

 あいちゃんは困惑した目でこちらを見つめて来る。

「もと花にとって、わたしって、何?」

 わたしは言葉を選んでなんとか思いを伝えようとする。

「一番親しくて、何でも話せる。大切な人だよ」

「そう。なら聞くけど……私とあなたの英吾くん、どっちのことが好き?」

「それは――――」

 考えるまでもない。頭の中に浮かんでくるのは帰りの電車の中で手を握った、彼の姿だった。

「英吾くんだよ」

「――そう、だよね」

 あいちゃんは冷たい声で言った。

 どうして。どうしてそんな極端な考え方をするんだろう。

 怒りがふつふつと湧いてくる。

「ねぇ、まさかあいちゃんは恋愛と友情って両立しないって思ってる? そんなこと全然ないから」

 だから、言ってやる。

「あいちゃんは極端すぎるよ。わたしのこと何も考えてない。わたしのことが好きなんて、嘘――」

 言ってやるんだ!

「もうハッキリ言えばいいんでしょ? わたしは、英吾くんの方が好きだよ! あいちゃんみたいに自分のことしか考えない人なんて、わたし好きじゃない!」

 あいちゃんが蒼白になったのを見て、わたしはようやく言葉を止めた。

「……あいちゃんは、親友でしょ?」

 押し黙る。

 無言がどれだけ間を縫ったか、あいちゃんのか細い言葉をなんとか聞き取った。

「そっか。…やっぱりそうだよね」

 テーブルの上に水滴が落ちた。

 あいちゃんが席を立って、遅れてその水滴が涙なのだと悟った。

「私、変だよね。気持ち悪いよね。ごめんね」

「あっ」

 荷物をまとめて走り去っていくあいちゃんに、わたしはなにも言えなかった。

 でも何が言えただろう? わたしが英吾くんを好きになった時点で、いつかこうなる運命だったのだ。こうなるしかなかった。

 だからこれは必然で。

 恋をしたら、友情よりも好きな人がより大切になって。

 それはつまり、わたしとあいちゃんとの関係が終わるってことなんだ。

「……それは、なんか嫌だな」


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