第21話 偽りの果実
「ただいま」
マンションにたどり着くと、俺は緊張した面持ちで玄関口の扉を開けた。
事前に英吾を誘ったことは母さんに連絡したけれど、大丈夫だろうか。
おそるおそる奥へ進むと、台所で作業をしていた母さんがこちらに気付いて振り向いた。
「晴、おかえりなさい」
目線が隣のあいに注がれる。
「あなたが織櫛さんね、晴が女の子を連れてくるなんてびっくりしたわ」
母さんは喜色満面で言う。
「晴はその子が好みなのね。また気弱そうな男の子でも連れて来るのかと思ったけど、お母さん安心したわ」
「そりゃあな」
隣の英吾は俺と母さんのやりとりを観察するようにちらりとこちらに視線を向けた。
「それじゃ部屋にいるから。入ってくる時は声かけてくれよ」
「はいはい」
壁を作るような物言いに親が動じた様子はない。
もうこの話題はしたくないと、俺が木の床板を鳴らしながら足早に自室へと進むと、後ろをついてくる英吾がひっそりと言った。
「しっかりしてそうな人だね」
「……窮屈なくらいな」
扉のノブを回すと、俺は中に入るよう促した。
「これが晴の家かぁ」
英吾は俺の部屋を観察するように見回した。
「なんだよ」
「けっこう整ってるなって」
俺の部屋にはあまり物がない。
両親が昔使っていた箪笥や本棚、ベッド。更にテレビが置かれているが、それでも二人分くらいは床にくつろいで寝転がれるぐらいの広さがある。
「サッカーボール、それに色紙だね? 部活に入ってたの?」
英吾は本棚に収まる俺の過去の栄光を眺めて言った。
「小学校の頃の話な。……親の勧めでスポーツクラブに入ってたんだ」
「あぁ、だから学校でもあんなにキックが上手いんだ」
「中学に入って速攻辞めたけどな。……運動部は性に合わねぇ」
「なんで辞めたの?」
「もともとやる気なんて欠片もなかったしな。中学に入るとき親に違うことやりたいって口実にして辞めた」
「部活か、良いね。僕はやるなら映画研究部とかしてみたいかも。自分でドラマとか作ってみたいし」
「テレビ見るの好きって言ってたもんな」
「晴は部活入ろうとしなかったの?」
「……見に行って、辞めた」
本当は手芸部に入りたかった。けれど、誰も男の部員がいなくて辞めたのだ。
今となってはもう遅い。俺みたいな立ち位置の奴がそんなところにいるなんて変だろ?
幸い英吾はそれ以上詮索してこなかった。
「なんかお前が楽しめそうなものは…手始めに、これでもやるか?」
俺はテレビラックに置かれたゲームのパッケージを掴んで英吾に示した。
「これは?」
「タコトゥーン」
いま流行りのゲームだ。
「タコスミをぶちまけてエリアをより多く汚したほうが勝ちってゲーム」
「ピコピコって触ったことないんだよね」
「あいは持ってないのか?」
「うちは母子家庭だからね」
「……そうだったのか、すまん」
「あ、亡くなったってわけじゃないんだ。もともと事実婚だからね。結婚すらまともにしないで、父親はトンでったんだ」
俺が言葉を失っていると、英吾がそばによってきて、受け取ったパッケージを裏面までじっくりと眺めた。
「せっかくだし、そのゲームやってみようかな」
「よっしゃ」
ソフトは既に本体に入っている。気を取り戻して俺は本体を起動した。読み込みが終わると、画面にでかでかとタイトルが現れた。
「とりあえず、晴がプレイするところでも見てようかな」
「それならストーリーモードでもやってみるか」
メインとなるタコキャラが出てくると、カウントが始まり、0になって晴は操作をはじめた。
「構造物を進んでキャラクターの操作を覚えながら、目的地に着いたらクリアって感じさ」
「なるほど」
俺はこのシリーズをやりこんでいる。慣れた操作をあえてゆっくりと見せながら、英吾に少しでも要領が伝わるようキャラクターを操作してみせる。
「これなら出来そうっしょ?」
「やってみる」
俺がコントローラーを英語に手渡すと、一つ一つボタンを確かめるような慣れない手つきで操作を始めた。。俺は英吾の家庭環境に思いを馳せた。
「まずは全部のボタン触ってみなよ。武器とかそこで選べるぜ」
「なるほどね」
動かし方が分かってくると、英吾はゆっくりと進み始める。
「ゲームってこんな感じなんだ」
ステージをクリアすると次なるステージへ。
時折俺が交代して手本を見せながら、二人でサクサクと進んでいく。
「だいぶ慣れてきたかも」
「こっからが難しいぜ」
今度は画面に大きなモンスターが現れた。
「ひとまず頑張ってみ」
「うん」
英吾が今握っている武器はショットガンだ。
威力は大きいが射程が短く、この敵にはちょっと不得手だ。
「あ、やられちゃった」
「もっかい挑戦してみなよ」
武器を変えずに挑戦するが英吾はコントローラーにまだ慣れておらず、攻撃に集中して回避が疎かになっている。
「今のは惜しかったなあ」
失敗の文字が画面に浮かんで、英吾は軽く肩を回した。
「でもパターンわかってきたかも」
英吾は再び挑戦する。その様子を見守りながら俺は画面の左端を指さした。
「あれを取ろう」
試合開始とほぼ同時、英吾は苦労して敵の攻撃を避けながら俺が指したアイテムを取ると、持っている武器の威力と射程が伸びた。
「なるほどね。これならいけそう」
回避に徹しながら、大きな隙に合わせて攻撃を仕掛けていく。
しばらくしてミッションクリアの文字が画面に点滅した。
「ふぃー、疲れた」
英吾は両手を上に伸ばして伸びをする。
「お疲れさん。俺ちょっと飲み物とってくる」
「オッケー。了解」
俺は一度部屋を出ると、母さんが用意してくれていたお菓子とお茶の載ったお盆を持って部屋に戻ってきた。
「いっしょに食べようぜ」
「ありがとう」
英吾は受け取ったお茶に口をつける。
「ゲームはこれくらいでいいかな」
「まだやんねぇの?」
「んー、楽しくはあるけど。僕にはゲームよりもこうやって友達の家に遊びに来た、って実感の方が嬉しいって言うか。他のこともしてみたいなって」
「そっか」
俺は英吾からコントローラーを受け取ると片付け始める。その間に英吾は立ち上がって本棚に近づいた
「こっちのほうが気になるかな」
棚に差さっているものの大半は漫画だが、俺の趣味でないものもかなり混じっている。塾代わりに受けている通信講座のテキストは端の方に置かれていた。
「ゲームは途中までしかできないけど、マンガなら何巻までとか区切り良く読めると思うし。読んでも見てもいい?」
「お好きにどうぞ」
英吾は適当にいろんなマンガの見開きを広げては戻し、そして一冊のサッカーマンガを手に
取った。
「それ面白いぜ。おススメ」
「じゃあこれにする」
ゲームを片付けて手持ち無沙汰になった晴は、机の上に置いていた本を手に持った。二人してベッドの縁にもたれかかりながら、それぞれの本を読み始めた。
……なんか心地良いな。
英吾と二人きりの時間はいつもワクワクするけれど、今は学校ではなく俺の家だ。
なんだか英吾に自分の領域に踏み込んでもらえたような気がして、ドキドキしてくる。それを意識すればするほど、手にした本の内容が頭に入って来なくなった。
俺もマンガ読めばよかったなあ。
そんなことを思いながら視線を隣に向けると、英吾もこちらを振り向いた。
「晴は何読んでるの?」
「秘密」
表紙は紙のブックカバーで隠している。別にやましい本ではないが、見られたいわけでもない。英吾は俺の後ろに回ってこちらの本の中身を眺めようとしてくるので、俺は観念して開いていたページを英吾のほうに向けた。
「え? 手芸??」
英吾は意外そうな様子で隣から俺の読む本のページをめくった。
書かれているのはソーイングについてのもので、糸による基本的な縫いつけや道具選び、綿やフェルトを用いた簡単な工作についても書かれている。
「悪いかよ」
「そんなことないよ。……そう言えば、前にあいとデートしたとき、アクセサリー見てたもんね」
「やっぱ覚えてたのか」
「あいが起きてるときは、彼女を通していっしょに見てるとき多いからね。ごめん」
「気にすんなよ」
俺はなんだかきまりが悪くなって、再び本に目を落とした。
「……僕は良い趣味だと思うよ」
ぽそりと英吾は言う。
「ん」
照れ臭くなって、生返事だけを返した。
……静かな時間が流れた。
お互いに違う本を読みながら言葉を交わすことはない。けれど、場を共有する喜びが俺たちの間に確かに流れていた。
時折間を縫う音は紙の擦れる音だけで、再び英吾が俺に話しかけてきたのは、読んでいたマンガが区切り良く読み終わった時だった。
「んん~~っ
英吾は床に転がって伸びをすると、読んでいた本を手放した。
「それ、面白かったろ」
「うん、面白かった。個性だらけの中学生が、チームで切磋琢磨しながら大会を勝ち抜いていくっていう分かりやすい筋書きだけど、キャラの心情描写がいいね。でもなんか……」
「うん?」
「なんか晴の好きなマンガって、男同士の距離近いよね。女っ気よりも男同士のギスギス感と
いうか友情というか、最後なんて彼女じゃなくて同じチームのライバルとキスしちゃってるじ
ゃん」
「所詮マンガ、作りもんさ。そんな青春があったらいいなーって、そう思って選んでるだけさ」
「そういうもんかな」
「そういうもんさ」
英吾は閉じていたマンガの表紙をぼんやり見つめる。
「でも、なんだかこの漫画の主人公たちって素敵だなぁ。普段はピリピリしてるのに、心の
底ではお互いを理解し支え合っている。僕はまだ人を好きになるってよくわからないけれど、
やっぱり相手に触れたい、触れられたいって思うものなのかな」
「……思うものだと思うぜ。親に抱きしめられたりすると落ち着くじゃん。でも考えてみれば、
誰かに触れられたことがあるからこそ、気持ちいい、相手に触れたいって思うモノなの
かも知んねぇな」
我ながら照れ臭いことを言ってんな。
「僕はそんな経験ないなぁ。晴が羨ましいよ。そもそも誰かに触れられた経験なんてないし」
「俺だって抱きしめられたことはあっても満たされたことなんて正直一度もないぞ。誰でもいいってわけじゃないさ。恋愛感情と親近感を感じている人とでなくちゃダメだと思うぜ」
「そういうもんなんだ」
英吾は左手の指先で、自分の右手のひらを這わせている。
「……英吾。俺と繋いでみるか?」
小さく呟いた。
英吾はこちらをみつめると、その瞳はうっすらと濡れていて、俺は彼の傍までにじり寄ると
その左手を取った。
暖かい。
正面に向き合うと、握手のような形から一本ずつ網籠を作るように指先を複雑に絡めていく。
右手はそのままに、俺は空いている左手を英吾の背中へと回した。
抱きしめる。
これが英吾の香りなのか。あいの香りなのか。そんなことは、どうでも良いくらい俺はただ虜になった。触れる髪の柔らかさも、華奢な体から伝わってくる温もりもすべてが心地いい。脈々と早鐘を打つ自分の心臓だけが確かな時を刻んでいる。
俺は英吾に問いかけた。
「どうだ……?」
「……うん、なんというか変な感じ」
かすれ気味な声で英吾は言う。
自分の緊張が相手にも伝わったような気がして、またそれが俺の胸を満たしていく。
俺の中で衝動が弾けた。
俺は唇を、そっと彼の唇へと近づけて――。
「ダメだッ!!」
強烈な力で胸を押されて、俺は尻餅をついてしまった。
「英吾っ」
慌てて体を起こすと、英吾は荷物を掴んで足早に部屋を出ていってしまった。
静寂が部屋に戻る。
拒絶されたということよりも俺は、自分自身に困惑していた。
「俺は今、何をしたんだ……?」
なんであんなこと。
そんなことをすればこうなってしまうなんて分かっていたはずなのに。
英吾にキスしようとしてしまうなんて。どこかで俺は今の英吾なら受け止めてくれると思っていたのかもしれない。
俺は自分の唇へ手を伸ばした。
「…………」
どうして俺があんなにも英吾に惹かれるのか。その答えがやっと分かった気がした。
あいは、俺を理解してくれた。俺の美意識を否定せず、笑わずに受け止めてくれた。
英吾は、俺を満たしてくれた。空っぽの日常に楽しさと友情と恋心を思い出させてくれた。
俺はあいのことも、英吾のことも好きなのだ。
でもあいに対してと、英吾に対しての俺の感情の激しさは違う。
否定してもやっぱり、俺は男が好きなんだ。
俺はあいよりももっと英吾に、彼に恋をしてしまっていたのだ。
……なんて気持ち悪い奴なのだろう。
そんな俺でももし、女であり男でもある『織櫛』という存在をモノにすることができたのな
らば。俺が誰にも否定されることのない、本当に欲しかったものを手に入れることができるの
ではないか。
母の言葉も、性格も学校での地位も友人も何もかも。自分を矯正し続けてきた、こんな偽り
の自分から脱皮することができるのではないか。
でもそれは、また望みたいに相手を傷つけることになりはしないか。
身勝手な自分が相手を振り回すんじゃないか。
俺は蒼白になった。
また、同じことをしようとしているのか。
――いいや。違う。
英吾は織櫛だ。織櫛は『女』だ。
俺はおかしくなんてない。俺が英吾を通して見ているのは『織櫛あい』なんだ。
好きだと思うならいっしょにいたいというこの感情は、当たり前の事なんだ。
それならもう……織櫛を桜庭なんかに渡すわけにはいかない。
恋愛は勝つか負けるかだ。
なら俺があいも英吾も手に入れる。
そのためには俺がやるべきことは――――。




