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第4話 織櫛あいについて➁

 緑陵中学校の坂を下り、少し進むと駅までつながる商店街が見えて来る。

 商店街を通らずに北へ行けば私の家が、南へ行けばもと花の家がある。だからここが決まって別れる場所だった。

 私はもと花の隣から前に出る。振り返りながら手を振った。

「それじゃ私は買い物済ませていくからここまでね。バイバイ」

「うん、またね」

 もと花と別れると、私は商店街の中を歩きながらスマホを取り出した。二人だけのチャットに温泉街周辺の情報を貼った。

 さすがにいきなり過ぎただろうか。でもこれがきっかけになって、もと花と遊びに行ければいい。

 さて、今日の晩ご飯は何を作ろうか。面倒だけど二人分作らなきゃいけない。

 もと花にはずっと見せないようにしていたけれど、私は家のことを考えると嫌な気分になってくるのだ。

 ――お母さんたちといっしょには行かないの?

 普通そうだよね。でも私はあんな母親となんて行きたくない。一分一秒すらいっしょにいたくはないのだ。

 昔から続く親切な八百屋さんや、強面だけど質の良い物を扱う精肉店で買い物を手早く済ませる。小学校の頃から一人で買いに来ては、良い食材の見分け方や美味しい調理法を何度も教わった。私は中学生だけれど、子どもが大人たちに混じっていつも一人でしか買い物に来ないのを不思議に思っているだろうというのは、向こうの雰囲気からもありありと伝わってくる。それでも家庭の話にまで踏み込んで来ないのは、私としては有難かった。

 ビニール袋を揺らしながら、商店街を戻って北の方へしばらく歩いていくと、赤煉瓦調のマンションが見えてくる。

 私の家だ。周りの古いアパートやほかのマンションに負けず劣らず外壁は黒ずんでいて、築年数の古さがにじみ出ている。縦に長いシュッとしたシルエットだから形はまぁ許せる。帰りたくもないけれど、社会体面上、家に帰るしかないのだ。

 車道から逸れて脇道にあるロビーへ入ると端末にかぎを差し込んで奥へ進む。エレベーターで4階に上がると、右手の突き当りに私の家がある。

 緑青色の門扉を押し開けるとヒンジがギィギィと軋んだ。後ろ手にそれを閉めて鍵を前の扉に差し込むと、私は自宅のなかに入った。

 カーテンはどこもかしこも閉じられていて、天井の明かりさえつけずにひどく暗い玄関口で私は慣れたように靴を脱いだ。きちんと並べようとして、そこには私より大きな靴がポツンと置いてある。母の物だ。蹴り飛ばそうとして止めた。物に罪はない。

 玄関口かダイニングキッチンへ進むと、私が朝出ていったときのままだ。

 買ってきたものを冷蔵庫に詰めると鞄を握って自室へと向かう。

 廊下を進んでいると、手前の個室から微かに母親のすすり泣くような声が聞こえた。

 私は舌打ちした。

「ただいま」

 不機嫌そうに虚空へ言って、そのまま奥の自室へ投げやりに鞄を放り込む。時計を見ればもうすぐ6時だ。キッチンへ戻って急いで夕食を作り始める。

 手際よく包丁で野菜を切っていると、なんで自分がこんなことをしているのか分からなくなってくる。

 それを忘れるために私は友達のことを考え始めた。

 もと花は褒めてくれるけれど、私は料理が得意でも何でもない。

 だって、自分で作るしかなかったから。

 もう何年も母親の手料理を食べていない。食べたいとも思わない。

 それは全然悲しいことじゃない。

 ピーマンと豚肉を刻みながらごはんのスイッチを押し、フライパンに油を入れて熱を入れる。

 皿を並べながら、具材と調味料を加熱し、頃合いを見て皿に盛り付ける。豚肉とピーマンのポン酢炒めが出来た。

「いただきます」

 椅子に座ると調理中の匂いだけで膨れそうなお腹に料理を押し込み、冷蔵庫で保存していた味噌汁を流し込む。ひどく味気ない夕食だった。

「ごちそうさま」

 食べ終える頃には7時を過ぎ、食器を片付け始める。

 対面式のキッチンは和やかな家庭を空想した母の希望だったのだろうか、でもそこには私しかいない。

 スリッパを鳴らしながら母の部屋の扉を開けると、暗い部屋のなか、中央机で酒を飲みながらすすり泣いている。

 私は呆れながら、

「ごはん置いてあるから。自分で片付けて」

 冷たく言って、私は自室に移動して鍵をかけた。

 扉に背を凭れかけていると、そろそろと靴下が床をする音が微かに聞こえて来る。私と入れ替わるように母がキッチンへと向かったようだった。

 まるで家畜に飼料をやるような気分だ。

 早くこんな家出ていきたい。


 私と母の関係はずいぶん前からこうだった。

 小学5年生の頃、父は家を出ていった。

「あい。俺はな、演劇がやりたいんだよ。そこで花開きたいんだ。それにはお前とお前の母ちゃん、糸保乃(しほの)が邪魔なんだ。わかるよな?」

 私の頭を撫でる父の表情は、諭すような笑顔をして声音は忌々しげだった。

 浅野秀樹。母は二十歳の頃に演劇部の友人を通じて父と知り合った。2代前の演劇部のOB

 だった父は、中学生の頃から劇団に所属して俳優になることを夢見ていた。

 母は平凡だった。取り立てて熱中するものもなく、かといって何かに飢えることもなく……

 欲するものがない女の前で、将来の夢を掴もうと演劇に情熱を注ぐ父の姿は輝いて見えたのだ

 ろう。

 母が恋に落ちるのに時間はかからなかった。彼を応援することに決めた彼女は父との家庭を持つべく大学卒業後、役所勤めの公務員になることを目標に据えた。

「秀樹さんと結婚する」

 そう言い始めると、母はどんどん盲目的になっていった。秀樹は俳優業で養っていけるだけのろくにきちんとした収入もなく、レッスンや仕事がない間はバイトで暮らしているだけ、実際はどんな暮らしをしているのか得体が知れなかった。母はそんな秀樹をよく言うばかりで、彼が母の家で酒を飲もうがふらふらと一人どこかへ遊びに出ようが咎めることはなく、彼はいつか出世する――。そんな風に思っていたらしい。

 あの人は辞めた方がいい。

 大学の演劇部の面々から、秀樹が他にもいろんな女と付き合っているという噂が立って、周りは母を止めようとした。一度、二人で母の実家に挨拶をしにきたことがあったそうだが、家族までもが母の将来を危ぶんで友達の付き合い程度に留めるべきだと言った。

 強情になった母は、それを自分が幸せになるための試練なのだと勘違いした。

「私、あの人と結婚する」

 その言葉を皮切りに、再三付き合いを止めるよう警告していた実家とは絶縁状態となってしまった。母は卒業と同時に大学に通うため住んでいた自宅を引き払い、念願の公務員になって、この家を借りた。

 思い描いていた幸せな生活。私を妊娠し、産んで――しかし、父の収入が上がることはなかった。

 次第に母が目を瞑っていた父の本性が顕れ始めた。

 父は糸保乃の安定した収入をあてにしてパチンコや酒、打ち合わせと称した遊びをするようになり、少額ながら父が家庭に入れていたお金はみるみる減っていき、母の財布からなくなるお金の量はどんどん増えていくようになった。

 それでも母はまだ、秀樹を信じようとしていた。

 そのうちに父は日雇いやバイト暮らしの合間に行っていたレッスンも行かなくなってくるとある日突然、母に言った。

「地方はだめだ。やっぱり東京。東京だよ糸保乃(しほの)

 地元で鳴かず飛ばずだった秀樹は唐突に東京へ行きたがった。父の通っていた養成所の同塾生が座長となる劇団が、関東でスタッフを募集し始めたのだ。

「急には無理よ。子供だっているし、あなただってこっちで少しずつ仕事が増えてきてるじゃない」

 地方での粛々とした活動を父は良しとしなかった。この頃にはもう秀樹は、母と私の存在を自分の将来を束縛する絆しのように感じていたのだと思う。

「お前、なにもわかってないんだな。こんな時いっしょに行くのがお前の役目だろ。ガキなんて実家に任せて俺と来いよ」

 私なんていらない。そんな言葉がどんどん増えていった。

 母は本気で私を実家に預けようとして、いっしょに行くために勤めていた仕事を辞めてしまった。東京への準備を進めるうちにどんどん父は不機嫌になった。増えていた酒や賭博を家庭のために止めることはなく、出費ばかりが増えて、腰の重い遅々とした母の様子に遂に、堪忍袋の緒が切れた。

「糸保乃、俺出ていくから」

 献身のため自ら生活の糧を手放した母は、結局籍すら入れていなかった。

 今、母がどんな仕事をして家庭にお金が入っているのか知れない。

 でも私は知りたくもない。

 男なんて……大嫌いだ。

 母は自室に籠るようになった。

 世間ではそれをネグレクトというらしい。小学5年生だった私はそれ以来、自分一人で生きていかざるを得なくなった。

 でも、寂しいとか辛いとかは思わなかった。

 そんなとき、いつも力になってくれる“声”があったから。


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