第19話
昼休みに織櫛を屋上に呼び出した俺は、開口一番こう言った。
「なんで呼んだのか、理由は聞かなくても分かるだろ?」
「……あいじゃなくて、僕だからだろう?」
俺は頷いた。
「織櫛あいが”英吾”を通して世界に触れることで、本当の男になれるって、前そう話してたよな。……なんで最近、あいじゃなくてお前が出て来てるんだ?」
「……あいは以前よりもずっと長い時間、僕でいることができるようになった。でもまだ完全じゃない。この2日間あいは元に戻らないまま、ずっと僕でい続けた。これはその反動なんだ。本当は少しずつ僕になる時間を延ばしていくべきなのに、あいは忠告を聞き入れてはくれない」
俺は溜息をついた。
「デメリットはあるのか?」
「それはないよ。休んでいれば、そのうちまた復活する。心配いらないよ」
俺は手に持っていたお茶を胃に流し込むと、ずっと聞きたかったことを聞いた。
「なぁ、織櫛と桜庭が結ばれたらお前はどうなるんだ?」
英吾は空を飛ぶ鳥をぼんやりと眺めながら言った。
「僕は、あいのなかでずっと引っ込み続けることにあるかな」
ずっと決めていたことなのだろう。英吾は何でもない顔ですらすらと話し始めた。
「僕はあいを幸せにするために生まれた。……前にも話した通り、あいが僕の体を手にすることで、彼女はあいという人格のまま“英吾”でいることができる」
「でも肉体まで男になる、てわけじゃないんだろう?」
英吾は俺からの問いかけに、初めて言葉を詰まらせた。
「――それって詭弁じゃないのか。本当に男になったわけじゃないんだろ? あくまで認識が男になっただけで、もし二人が結ばれて桜庭があいの裸を知ったなら、体は男じゃない。嘘がバレるんだぞ。その時に一番傷つくのはあいなんだぞ。それって残酷なことじゃないのか」
「肉体ばかりはどうにもならない。僕はあくまで織櫛あいのなかに居る男。生まれたのはあいよりも後。彼女が生きるために生み出した人格。それが僕なんだ。たとえ彼女が僕の人格を通して男になったところで、彼女の体は……男じゃない。たとえ仮初であったとしても、それでも僕はお姉ちゃんに幸せになってほしかったんだ」
そこには先ほどまでの大人びた英吾の姿はなく、痛々しいほどに純粋な、等身大の織櫛英吾の姿があった。
迷いと後悔を天秤に賭けて、それでも仮初の幸せに向けて手を伸ばそうとするただ一人の人間のちっぽけな願い。それが静寂の中で、俺の心を強く揺さぶった。
風が吹き抜けていく。そのなかで俺の声が刺々しく響いた。
「もしこのまま織櫛が自分を否定し続けたらどうなるんだ?」
「いずれ僕に変身できなくなってしまうだろう。でも僕はそうなる前に、たとえ仮初めになるとしても、あいに幸せになってほしい。変身すらできなくなって、あいが不幸のままで終わるのを僕は見たくないんだ」
大人びているはずの英吾は、不意にずいぶんと幼く見えた。
英吾がどうして生まれることになったのか、俺は知らない。
だけど俺はもう、自覚してしまっていた。
恋してしまったのだ。
織櫛あいのなかに居る君に。
だからもう言うべきことは決まっているのだ。
「わかった。織櫛の願いは俺が絶対叶えさせる。でもな」
向き直る。
「俺はお前の幸せも守りたい」
英吾はぽかんとした表情を浮かべて、それからごまかすように笑った。
「僕の幸せは、あいが幸せになることだから」
「それじゃお前が生まれてきた意味がねぇだろ。探してみろよ、お前自身の幸せを。見つからねぇのなら、俺が一緒に探してやる」
俺は英吾の手を握った。
暖かい。英吾の驚いた表情を見ていると、胸が高鳴り、幸せを感じる。
「僕の、幸せ……?」
英吾は照れながら、どう言おうか言葉に詰まって、小さく「うん」とだけ呟いた。
放課後になって、俺は英吾といっしょに下駄箱で靴を履き替える。
「桜庭と帰らなくてよかったのか?」
「もと花ちゃんは用事みたい。誘ったけど、先に帰ったよ」
「そっか」
それを聞いて俺は安堵する。
そういえば今夜は、母さんが久しぶりに父さんと会うって言ってたから家に帰っても誰もいないんだっけ。
地面に放り投げた靴を足だけで履きながらそんなことを思い出した。
せっかくならこのままうちに誘って、
「なぁ」
「あの……」
英吾を誘おうとしたところで、出口の格子扉の先にいた灯下がこちらに声を掛けて来る。
「灯下」
「こんにちは織櫛さん、晴。よかったら僕もいっしょに帰っていい? ちょうど僕も帰るところだったんだけど、一人じゃ寂しくてさ」
冗談じゃない。
俺が口を開こうとして、
「汐崎さん。それじゃ私帰るから。掃除手伝ってくれて助かったわ」
冷たい言葉。英吾があいのフリになって、灯下の脇を抜けて扉の向こうへと消えていく。
「ごめん、いっしょに帰ってたわけじゃないんだね。晴、もしよかったら……。
俺は溜息をついた。
全くタイミングが悪い。
「帰らねぇよ。お前とはもう何でもないって言っただろう?」
「どうして……昔はあんなに仲が良かったのに」
「昔の話さ。あの時の俺は気色の悪いガキだったんだ。もうそんな頃に戻れるかよ」
望は眉を下げた。
「そんな悲しい顔すんなよ。俺みたいなのとつるむべきじゃない。噂はいろいろ聞いただろ?」
「そんなの全部ウソだよ」
俺は言葉に窮した。
望の中にはきっとまだ、あの頃の俺がいるのだろう。
「全部本当だよ」
逃げ出すように俺は望の隣から駆け出した。
晴と別れた後、僕には何もすることがなかった。
家に帰るしかやることはない。あいが目覚めれば切り替わって、それで終わりだ。
それでいい。はずだったのに。
――探してみろよ、お前自身の幸せを。見つからねぇのなら、俺が一緒に探してやる――。
そんな風に言われたのは初めてだった。
僕自身の幸せ。それはあいの幸せで。そう信じていたからこそ、ここまでやってこられた。
なのに、それが揺らぎ始めている。
まっすぐ帰る気分じゃなくなって、家の近くの公園に向かうと、運よく誰もいなかった。端のほうにあるブランコに腰を下ろして揺すっていると、さっきの言葉が胸の中でさざ波のように響いた。
僕にとって世界とは、夢と変わらない場所だった。
あいと彼女をとりまく世界からもたらされる波紋に、こうすればよくなるんじゃないかと一歩引いた目でアドバイスする。テレビ越しの世界のような感覚だった。
でもだんだんとあいがぼくを認識するようになって、そして晴が僕を認識するようになって、大きく変わった。
僕は世界に対して、生きてみたいと思ってしまった。
僕自身の幸せ。
そんなこと、考えたこともなかった。子供の時からあいを守るのに必死だったからだ。
家族に、あの男に受け入れてもらうために必死だった。
そんな僕に向きあってくれる晴に、
「僕はどうしたいんだろう―――?」
あいの将来を僕が奪ってしまうことになりはしないか。
僕が生きることは、あいともと花との関係も壊してしまうことになるんじゃないか。
不安がこみあげて来る。
…………いや、迷う必要はない。
僕が願うべきは『あいの幸せ』、それだけのはずだ。
そんなことを考えていると、僕の中から声が聞こえた。
あいが目覚めたのを感じる。
時間切れだ。これ以上は僕でいることの方が危険だ。
少しでも早く、あいに戻るべきだ。
「私は一体いつまで寝ていたのかしら……」
英吾は優しく語り掛ける。
「目覚めたみたいだね。日中だよ。でも大丈夫、僕が上手く済ませたから」
自分の姿のはずなのに英吾の輪郭がダブって感じる。まるで映画を見ているような感覚だ。
冷や汗と悪寒がこみあげてくる。
今日の記憶が全くない。自分が今公園でブランコに座っている感覚すら遅れてやってきて、両手で顔を覆った。
「私は、私なの……??」
英吾は何かを言ってくれているけれど、私はうまく聞き取れなかった。




