第17話 クラゲのような自由
「ショー面白かったねぇ」「私も輪投げ挑戦してみればよかったかもー」
ぞろぞろと会場を離れる観客たちの波に流されながら、奥にある別のプールへと進む。
そこにはアシカやアザラシたちが生活している普段の姿を鑑賞することができるエリアになっている。
わたしは歩きながらもう一度受け取ったステッカーを手に持って眺めた。
「よかったね、もと花ちゃん。ジュンくんのキスはどうだった?」
「グミみたいで柔らかかったかも。英吾くんのおかげだよ。わたし、今凄く嬉しい」
君の言葉がなかったら、きっとわたしはこのステッカーをもらうことなんてできなかった。
そう伝えたかったけれど、やっぱりちょっと気恥ずかしくなってしまって、わたしは大事に
ステッカーをしまってプールに近づいた。
先ほどのものとは違って、この辺りのプールには中央や端の方に小島や岩場がある。休憩なのか昼寝なのか、気の抜けた可愛らしい表情で寝返りを打つ子もいれば、水槽にピタリと顔をくっつけて、歩いている観光客を興味深そうに観察している子もいる。
知能はやはり高いらしく、水槽に近づいてアシカにチューするような素振りをみせると、アシカも同じような動作を返して遊んで見せる子もいた。
「ありがとう」
さっきのアシカやアザラシさんたちではないけれど、わたしは改めて彼らにお礼を言った。
プールを眺め終わって来た道を戻ると、降りてきたエレベーターの右手に道が見える。
「行ってみようか」
「うん」
少し入れば、登りのなだらかなスロープの先に人だかりが起きている。
その人波が奥へと移動して、わたしたちはすぐそばに近づいた。
神秘的だった。
直径5メートルはあろうかという水槽のなかを無数のミズクラゲ泳いでいる。その一匹一匹が光に照らされて、煌々と輝いていた。
息を呑むとはこのことかと、わたしは圧倒された。
誘われるように水槽へと近づいていく。
青い海のなかで、雪のように動くクラゲの一匹一匹が確かな生命を輝かせている。
「僕はもと花ちゃんに、これを見せたかったんだ」
右隣で英吾くんが呟いた。
「パンフレットでこの水族館を知った時に、ずっとここへ行きたいって思ってた。でも一人で
は来たくなかった。もし一人で来ちゃったら、いっしょに感動を分かち合える人がいないし、
親しくない友達ときたら、あんまり大したことないねって、がっかりされそうな気もしたから。
だからいつか、本当に信頼できる仲の良い人ができたら来てみようって、そう思ってたんだ。
……もと花ちゃんと最近メッセージでやりとりしてて、何か悩んでるような気がしてたから」
「……顔に出てた?」
わたしがたずねると、英吾くんは首を振った。
「直観だけどね。何日か前にデートに誘ってくれた時から、そんな気がしてたんだ」
彼は口を閉じると、それ以上話そうとはしない。目の前の水槽を眺めながら、わたしに話すかどうかを委ねてくれていた。
どう話すべきか分からない。
上手く伝えられる自信がない。
けれど、思いをずっと吐き出したかった。
聞いてほしかった。
同じようなことを去年もしたような気がする。
あの時話した相手は、あいちゃんだったっけ。
まだ英吾くんと付き合って日が浅いはずなのにそれでも話したいと思ってしまう自分がいる。
不思議な感覚だった。
どう話せばいいのか、それはあのアシカたちが教えてくれたはず。
話したい。聞いてほしい。
周囲の人波は完全に消えていまはここにあるのは、わたしと英吾くんだけの世界だ。
クラゲを見つめながら、自分の思考の中にわたしは潜り込んだ。
「わたしね、去年の冬ぐらいまでバドミントンの部活してたんだ。体を動かすことが大好きで、周りの人もいい人ばかりで楽しかったから、のめりこんで一生懸命やってたんだ。そのなかでも部活の先輩の一人がわたしのことを凄く気に入ってくれて。いろいろ教えてくれて。……あの時わたしはその人のこと、好きになってたと思う。でも、それを快く思わない女の先輩がいて。わたし、中学生になるまで他人が怖い生き物だなんだって知らなかった。仲の良かった他の部員の人たちといきなり距離が出来たなと思ったら、それから嫌がらせが始まって……訳が分からなくなって。そうなった原因が、わたしがでしゃばりすぎたせいだって、後から分かったんだ」
一度言葉を切ると、英吾くんは静かに尋ねてきた。
「でしゃばりすぎた?」
「いろいろ親身になってくれた先輩も、わたしのことが好きになってくれてたんだ。でもその先輩には既に、部員で付き合っている女の先輩がいて。わたしはその二人の恋愛を邪魔しちゃったんだ」
でしゃばりすぎた。周りが見えていなかった。
だから部活で自分の居場所を失うことになってしまった。
何がいけなかったんだろう。
「わたし、もっとうまくやれたと思う」
もっと冷静になって周りが見えていれば。牧本先輩や、周りの人たちとももっと、うまくやれたはずだ。
そうできなかったのはきっと。
「わたしが、間違っていたんだ」
それがわたしの後悔だった。
英吾くんはゆっくりと話し始めた。
「人は、このクラゲに似ていると思う。自分のやりたいようにしか行動しない。それによって相手にどんな影響を与えるか、考えもしない。本質的に人間はみな、無責任で奔放なんだと思う。その上で話すけれど、まず君は何も悪くない。もと花さんはとても優しい人だと思う。だから、周りの人の言葉に振り回されることも多いと思う。周りの人の意見を支持しようと、自分の気持ちを押し込めることだってあると思う。でもこのクラゲのように無軌道に自由に、正直に動いてもいいんじゃないか。そう僕は思う。それはさっきのアシカショーでも伝えたかったことなんだ」
英吾くんは水槽のそこへ視線を落とした。
「僕の父さんは、わがままな人だった。自分のやりたい夢を追う最中に、出会った女性との行きずりで生まれたのが僕だった。父さんは生まれた時から僕の存在を快く思わなかった。……責任は当然、父さんにもあるのにね。僕は初めから、両親に望まれずに生まれたんだ。――――誰だって、仲間や信頼している人たちから非難を受けるのは耐え難いものがある。ましてそれが両親なら、なおさらさ。だから僕は、父さんの信頼を得るために努力した。愛を得ようとした。好かれる人でいるためにその人の望むような人物に、つまりは今の僕へとなろうとしたんだ」
英吾くんは胸もとで握った拳を、荒々しく開いた。
「……でも無駄だった。父さんは身勝手に家を出ていった。僕と、僕を愛してくれない母親を置いて。だから僕はこう考える。自分がどれだけ頑張っても、本当の意味で他人に理解してもらうことなんてできない。もと花さん、たとえ君が全く間違っていなかったとしても、世界はどんな理由でも持ち出して、君を非難してくる。だから気にする必要はないんだよ。君は自分の望むように、自分が正しいと思うように行動すればいい。僕は君のその優しさが正しいって信じてる。君と出会ってそんなに長いわけじゃないけれど……相手を思って行動するその姿こそ、僕は正しいって信じてる。そんな君を応援したい。元気になってほしい。喜んでほしい。笑っていてほしい。僕はもっと、君の笑顔を見たい。だから僕は今日、君をここに連れてきたんだ」
英吾くんはクラゲの水槽を見つめたまま言い切った。
ひょっとして恥ずかしいんだろうか。
だとしたら、ずるい。
わたしの頬を、すーっと涙が落ちた。
ずるい。この人はいつも私の一番欲しい言葉をくれる。
どうしてだろう。どうしてこんなにこの人と話していると落ち着くのだろう。
答えが欲しかったわけじゃない。
こんな話をしたところで、いまのわたしの境遇が変わる訳でもない。たとえ否定されても話してすっきりすれば、わたしはそれだけで良かったのだ。
でも誰かに理解してもらえるのってこんなにも――。
視界が海に濡れた。
わたしもずっと、水槽の中にいたからだろう。
きっとわたしもこのクラゲたちと同じだ。
「やっぱりここに来てよかった」
どう泳いでいいのか分からない一匹のクラゲは初めて、それでもいいのだと知った。




