第14話 英吾ともと花の水族館デート➁
バスに揺られること2時間。米俵を担いだブロンズ像が特徴的な駅に着くと、今度はそこから赤い路線バスに乗り換えて40分。
古めかしい市街の景色が続く。
それがふっと晴れたかと思うと、潮の匂いが波のようにやってきた。
「海だ」
わたしは思わず呟いた。
黒の転倒防止柵の向こうには金青色の海が微細に揺れている。
山に囲まれた景色に慣れていたからこそ、その光景に一層胸を打たれた。
バスはどんどん進んでいく。防波堤から覗く岩場や太陽によってきらめく海を辿っているうちに、視界に白い楕円状の構造物が見えて来る。
「まもなくマガモ水族館に到着します」
というアナウンスが聞こえ、バスは駐車場に入って停車した。
「そろそろ降りようか」
英吾くんが声をかけて来る。
「うん、わかった」
わたしは荷物をまとめると、先を行く英吾くんの手に引かれて下車した。
磯の匂いがふわっとやって来て、それだけで自分が遠くの場所へ来たことが分かった。
楕円形の建物の入口にはクラゲのイラストが描かれた御影石が建てられている。イラストの下には『市立マガモ水族館』と描かれていた。
「あ、ここ! 聞いたことある!」
「ほんと?」
「うん! ずっと来てみたかったところ!」
わたしがはしゃぎだすと、英吾くんがふっと笑った。
隣にある緩やかなスロープを登っていくと、左手に見える入口のゲートを抜けた。
白を基調とした図書館のように明るく穏やかなフロアが視界に入って来る。
壁面の多くに採光性の良いガラスが張られていて、そこから前にも後ろにも海と空の青のコントラストが差し込んでくる。見ているだけで心がすっと軽くなったように感じられた。
「こちらへどうぞ」
売店の隣、受付スタッフの声が聞こえる。前に並んでいたほかの客が中へと進んで、わたしたちに声をかけたのだと悟った。
わたしが財布からチケット代を出そうとして、英吾くんが片手でそれを制した。
「もと花ちゃんは学生証だけでいいよ。……中学生二人分で」
英吾くんはスタッフからもらったチケットの一つをわたしに手渡した。
「はいコレ。……あとコレも」
「クラゲだ」
チケットと別にカードが手渡される。黒とハイライトになっている青のバックから浮き出るように一匹の透明のクラゲが光り輝いている。ポストカードだ。
「これからそれを見に行くんだよ」
カードをまじまじと見つめると、うっとりする光景に自然と胸が高鳴った。
「あと、これ。パンフレット。これからどう回ろうか?」
「ありがとう。今は……11時20分か」
今までずっとバスに乗っていたのだ。すぐにでも見て回りたい。
そう思ったところで、わたしのお腹が鳴った。
「先にご飯かな?」
英吾くんはそう提案してくれる。
「あはは。その方がいいかも。――あ、見てこれ。アシカショーだって。13時30分からみたい。その次は2時間後になっちゃうし、これは先に見た方がいいかも」
「ちょうどそこの壁にフロアマップがあるよ。今、僕たちがいる場所が2階で食堂や売店、魚にクラゲがいるみたい。3階が展望台、1階が海獣エリアで、アシカショーはそこみたいだ」
「入口のここから近いのは食堂と魚のエリアで、そこにあるエレベーターを使えば海獣エリアにはすぐ行けそう」
建物自体はおおよそ四角形の形をしている。そこを反時計に回って下に降りていく構造のようだ。
英吾くんが見せたいのはクラゲのエリアなのだろう。これが一番の目玉であるらしいことは明らかだ。わたしもすごく気になるし、ここは最後に回った方がいいかもしれない。
「それならこうしようか。先にこのフロアの魚のエリアだけを見たあと、一度入口の方に戻ってエレベーターを使う。それで1階に降りて、アシカショーを見る。エレベーターで1階から2階に戻って食事を取ったら、2階のフロアの続きを見よう。魚のエリアの先には左右に道があって、左手側が3階の展望室へ、右手側は一番奥のクラゲエリアに繋がるようだから、最後にそこを回る感じにしよう」
「うん。そうしよう! それなら魚のエリアはこっちかな?」
パンフレットと立てられている案内板を見ながらわたしたちは進む。
魚のエリアに入る手前の方で、壁面のガラスディスプレイ越しにラックに立てられた、棒状のものに目を奪われた。
「竹竿だってさ」
英吾くんが指を差すと、ガラスの下のほうに説明があった。
いわく、この辺り一帯に江戸幕府の頃から伝わる歴史の長い釣り竿であるらしく、竹そのものを陰干しし中をくりぬいてそこに釣り糸を通して作るようなものであるらしい。
自然の素材ゆえ竹の見た目は個性があり、燻して磨くを繰り返して作られたこの完成された竹竿はまさしく匠の逸品であるらしい。
「英吾くんは釣りしたことあるの?」
「僕はないかな。興味はあるけれど。もと花ちゃんは?」
「わたしもまだないなあ。機会があったらやってみたいけどね」
そんなことを話しながら先へ進むと、今度は自分たちがそのままアクアリウムの中に入ってしまったかのように思わせるような、黄土色の岩に囲まれた大きめの水槽が見えて来る。
淡水魚だ。
ヤマメやイワナ、コイなど馴染みのあるものから、イバラトミヨという聞いたことのない魚まで様々な種類のものがいる。
目の前をまるまると肥えたヤマメが通り過ぎた。
「旨そうだよね」
わたしはそう呟いた。
「えっ」
わたしが手を口で抑えるのも遅く、隣の英吾くんは苦笑している。
「まぁたしかに、この魚だけ丸々してるもんね」
「うん」
英吾くんは慌ててフォローしてくれたけど、私は顔が赤くなるのを隠せなかった。そそくさと次のコーナーへ進む。
上流から下流、そして海へ。
海水魚のコーナーから進めば進むほどに壁面が黒に覆われていく。
まるで海に潜ったかのような気分だ。実際、天井から足元までありそうな水槽が眼前に広がり、その表現は間違いではないと思った。
ただただ目の前を悠々閑々と泳ぐ魚たちに圧倒される。
「なんだか、本当に水族館に来たって感じだね」
英吾くんの言葉にわたしは頷いた。
館内の人はそれなりにたくさんいる。なのに五月蠅い感じは全くしない。
海そのものの静けさにみんなが魅入られている、そんな感じだ。
クロダイやマアジ、イシガキフグ、水槽の下の方には槍のような鼻のドチザメなどがいて、特異なそれらの姿に見つめていると、わたしの思考もそれといっしょになって溶けるように消えていく。
ふっと山谷先輩としたデートの光景が頭を過った。
遊園地のカフェでのテーブル。
思い出したくもない時間を思い出して、私は唇を引き結んだ。
「どうしたの? ひょっとして寒い?」
英吾くんの声でわたしはハッと我に返った。
「あ、いや、そんなことはないよ!」
「見てるだけでひんやりする人もいるらしいしね。実際奥にいけばもっと寒くなる。飼育環境を実際の水温に合わせなきゃいけないからね。そこの水槽なんか結露してるぐらいだし。下の海獣エリアはもっと冷えると思うよ。これ、よかったら着なよ」
そう言うと英吾くんはリュックから黒い薄手のパーカーを差し出してくれる。
「ありがとう。それじゃお言葉に甘えて借りるね」
まだ寒くはなかったけれど、一枚羽織るだけで違うものだ。
あったかい。自分が冷えていたことに今さらになって気が付いた。
英吾くんは用意がいいな。これが紳士としての気遣いなのは分かってるけれど、やっぱりそれだけでも嬉しくなるものだ。
「本当にいろんな種類の魚がいるんだね。ほら、このウミガメとかすっごくかわいいよ。目元は眠そうなのに、泳ぐとけっこう速いよ」
陸ではそんなに速くないだろうけど。魚たちにも得意分野があるのだろう。
それはきっと私も同じだ。
ふと水槽の鏡面に英吾くんが映っているのを見て、その顔をわたしはまじまじと見つめた。
「?」
鏡に映る英吾くんの目がわたしとあった。彼は緩く笑った。なんだか急に気恥ずかしくなって慌てて視線をそらす。ひょっとしてずっとわたしの顔を見てたんだろうか。
そらした視線の先では、一匹の魚がほのかに腹をピンク色に輝かせている。
水槽横の掲示板を見れば、どうやらサクラマスというらしい。今わたしの顔は多分これくらいは紅いんじゃないかって気がする。
水槽を見ているとそんな気恥ずかしさも次第に落ち着いてくる。
不思議な感じだ。ただただこの場の居心地がいい。
黒い廊下をさらに奥へと進んで突き当りを左に折れると、黒い空間が途切れた。正面の窓と上からの明るい照明が白く照らす空間のもとには、およそ不釣り合いなごみが置かれている。
飲み干して捨てられたペットボトルやハンガー、ゴーグル、釣り糸……この辺りの海で見つかったものなのだろう、英文や極彩色のパッケージが眩しいお菓子の包みなんかもある。
それらのごみを組み合わせて文字を作ったり、アーティストが意匠を凝らして透明のオブジェに仕立てているものもある。
単純な問題提起ではない。ただのゴミとしてではなく、『展示品』として成立しうるアートな物体として昇華されていることにわたしは感心した。
振り返ると周りの小窓にはごみの溜まっている海中の景色をそのまま切り取った水槽や、ポリ袋のような物体にへばりつくイソギンチャクなどが展示されている。
「これが本当の海の中なんだろうね」
英吾くんはイソギンチャクを見つめながら呟いた。
その場所の展示物を一通り見終えると、空間の端のほうに扉があって階段が外へと続いてい
るのが見える。
「あっちに階段があるよ。ひょっとしてあれが3階??」
わたしの言葉に、英吾くんは持っていたパンフレットをパラパラとめくる。
「そうみたいだね。展望室って、屋外なんだ。行ってみる?」
時計を見るとそれなりに時間が経っている。アシカショーの開始まで残り1時間くらいだ。
「さすがにそろそろお腹も空いたし、入口にもどろっか」
「分かった。それなら展望室は予定通り後でにしよう。来た道を戻ろっか」
白い空間から黒い空間へ戻る途中、左手に脇道が見える。
液晶パネルに色とりどりのクラゲの写真が写っている。ここから先が、この水族館の見どころのクラゲスペースになるのだろう。
「たのしみだね」
わたしは英吾くんに呟いた。




