第11話 晴が望を忘れた日➀
小学6年生の夏、俺は初めて骨折を経験した。
サッカーボールを校舎外まで蹴り飛ばして慌てて取りに出た俺は、車と接触して……痛がる俺はあれよあれよという間に病院に連れてこられた。
右足を宙づりに固定された俺は手術までの間、天井に貼られた石膏ボードを見るしかなかった。
ひらがなのへの字みたいな穴を両眼立体視させて遊ぶくらい暇だった。
ようやく手術が終わって松葉杖の生活が始まった。慣らしのための院内散策を始めたばかりの頃、病室に食事を運びに来てくれる看護婦の女性が俺に声をかけた。
「3つぐらい隣の病室にいるんだけど、その子と会ってくれないかな?」
「名前はなんて言うんですか?」
「灯下望くん、君と同じ学校の生徒だよ。……あんまり学校に行けてなくて、良かったら同年代の友達になってほしいんだ」
俺は張り切った。美人な看護婦さんにもっと好かれたくて、翌日彼女とともにその子の病室に足を踏み入れた。
「こんにちは」
俺が明るく話しかけると彼は横になっていて、布団から覗かせる顔をこちらに向けた。
「君は……だれ?」
褐色のくせっ毛に、異様なほど白い肌。碧い瞳。
外国人かと思ってしまうような変わった見た目の他は、どこにも外傷は見受けられない。
傍らの看護婦が口を開いた。
「ほら、昨日お話ししてた子。同い年だし、仲良くなれるかなって」
「ああ」
合点がいった様子のその子は上体を起こすと、服の上からでも分かるほど華奢なその姿に俺は息が詰まった。
「君が汐崎くんなんだね」
それから惹かれるように僕たちは仲良くなった。
望は生まれつき体が弱いらしく、この病院では入退院を繰り返しているのだという。
免疫不全と本人は言っていて、めまいや吐き気、喘息で倒れそうになるなど、検査も含めてここへは頻繁に来ているらしい。
「今回は授業中に倒れちゃったみたいでね。行くたびに変わってるみんなの話題に追いついていくだけで大変だよ」
「ふーん」
俺の生活は午前中のリハビリ後、望のベッドを椅子代わりにして、隣り合って話すのが日課になりつつあった。
「みんなびっくりしただろうな」
俯いて望は言う。
「……気にするなよ」
「え?」
「きっと良くなる。僕のこの骨折のことも先生が言ってた。子供はまだ成長途中だから怪我したり病気になったりしやすいけど、次第にそれも減っていくってさ」
もちろん望の病気がそんな軽いものではないのだろうとは思うが、せめて気持ちだけでも軽くなればそれでいい。
「ありがと」
望は小さく言った。
「そんなことよりマンガ読もうマンガ。家から持ってきたやつなんだけど飽きちまってさー。初めてなら楽しめると思うんだ」
「わぁ~」
持ってきた何冊かの本を受け取ると、望は目を輝かせてページをめくる。
マンガの話から始まって、お互いの趣味や興味の話へと盛り上がっていった。
望は僕の話になんでも興味を持ってくれた。
「僕が面白いもん見せてやるよ」
だから嬉しかった。
「望、今日は中庭行こうぜ!」
そういって外に連れ出しては、病院から勝手に借りたラケットでスカッシュしたり。
またある時は病院を舞台にしたベタなテレビドラマの真似事をしてみたり。
看護婦の先生を喜ばせるというお題目から望を喜ばせたいに変わって。
俺は、俺は人を喜ばせる楽しみに目覚め始めていた。
だから僕が一足先に退院する日は、望の病室に行くのが辛かった。
「まだボルトでくっつけてるだけなのにな」
「仕方ないよ。いつまでも病院にいるわけにもいかないだろうし」
望はこれまでにも似たようなことがあったのだろうか、少し素っ気なかった。
俺は、
「お前が退院したら、絶対クラスに行くよ。約束する。だからまたいっしょに話そ」
「……うん」
差し出した手を望はゆっくりと、しかししっかりと握り返してくれた。
退院した僕が家に戻ると母は言った。
「この一カ月の遅れを取り戻さなくちゃね」
そう笑顔で言う母に、俺の中で仄暗い気持ちが頭をもたげ始める。
「うん」
「晴くんはできる子だから。灯下くんだっけ? あんな弱い子とつるんでいてはダメ。あなたがいない間に部屋も整理してあげたのよ、ほら」
「僕のマンガは?」
「もう飽きたって言ってたでしょ、売っちゃったわ。代わりにほら、ほかの本を置いてあげたから」
それはマンガというよりは学術書を分かりやすくかみ砕いたもので、コミックではあるが、僕の求める娯楽とは、到底呼べるようなものではなかった。
好きだったぬいぐるみも、ポスターも、音楽のCⅮもどこかにいっていて。
望に貸すはずだった俺の思い出が、全部整理されていた。
「望くんに続きを貸すはずだったのに」
「思い出ばかり大事にしてちゃダメ。先を見据えて変わらなきゃ。続きだけ借りればいいじゃない。終わった物をいつまでも大事にして、何が楽しいの? 晴はちょっと女々しいものが好きすぎよ。そんなんじゃモテないし、かっこよくないわ。可愛いものが好きだなんて、全然男らしくない。それはおかしなことなのよ」
松葉杖もようやくいらなくなった頃、学校に望が登校するようになった。
「望だけど……覚えてるかな」
「覚えてるに決まってるだろ!」
季節は、僕たちが出会った夏からもう秋になり始めていて。
僕は1組で、望は2組。
隣のクラスだったけど他の誰といるよりも望といっしょの方が楽しくて、僕は暇さえあれば望の教室へと足を運んでいた。
「晴って成績良いんだね」
「そんなに以外かな?」
「いやほら、あんまり勉強の話はしないから。僕は算数が苦手で……」
望はそういって成績表を隠すようにしまう。
進学校受験を視野に入れているのか、最近の授業はひっかけが多くなってきている。
少し勉強しなおせば、望も自信になるんじゃないだろうか。
「……また病院の時みたいにさ、今度はいっしょに勉強しようよ! 次のテストでいい点とれば、望のお母さんだって喜ぶしさ」
「いいの?」
「うちのお母さんに聞いてみるよ!」
口実だった。望ともっと仲良くなりたい。
勉強だったら。お母さんも望が家に入るのを許してくれるよね?
「……何を言っているの?」
テーブルの上で話を聞いた母は心底あきれた様子だった。
「その子に教える? わざわざ自分の時間を割く意味があるの?」
「自分が覚えてることの確認になるから……」
「そんなことしてどうするの。もうすぐ12月、来年は中学受験なのよ? 子供の時間は、あなたが思っているより貴重なの。自分のため、自分のために時間を使いなさい」
母さんはなんでそんなにも時間、時間と言いたがるのだろう。
父さんと話したくて、自分の部屋に戻って電話をしたけれど出る気配はなかった。
いつも一人で転勤していて、母の面倒を見てやってくれと、僕は頼まれていた。
……冗談じゃない。
成績だって悪くないし、僕は何も間違ったことはしていない。
卓上のカレンダーを見る。
母のいない日……日曜日をしっかりと目に刻んだ。
「来てもいいって」
僕は嘘をついた。
「本当! 友達の家に行くなんて初めてだよ!」
望は心底嬉しそうに笑った。
「病院で貸してた本の続きも読めるぞ!」
自信満々に言う。望のためにわざわざ買い直して。
「何かあった方がいいよね、お菓子とか――」
「わざわざいいよ。それより勉強道具は持ってくること! 校門で待ち合わせしよう。それが分かりやすいと思うし」
「楽しみだなあ」
そう言うなり望がよろめいた。
「だ、大丈夫!?」
「だいじょぶ、だいじょぶ」
望はよくあることだからと言って、僕は教室の椅子に座らせて落ち着くのを待った。
「ぜったい、行くから」
「うん」
嬉しい。僕だって楽しみだ。
 




